第56話 初語

 アーレンブルク公爵家の急な当主交代は、社交界を大いににぎわせた。


 前当主の突然の引退をいぶかしむ声もあったものの、新当主となったフェリクスはそつなく場を切り抜けた。


 もともと前公爵は横暴な性格ゆえ、内外に敵を作りやすかったのだ。フェリクスは父の人望のなさを逆に利用し、強引な手腕に反感を抱いていた者たちを懐柔かいじゅうして、自身が当主である方が得だと思わせることに成功した。


 英邁えいまいな若き公爵に支えられ、王太子夫妻はますます仲むつまじく過ごしているし、マルゴット王女も健やかに育っているとのこと。


 平和な時間が流れる中。北端のリートベルク辺境伯領でも、マルゴット王女より数ヶ月ほど前に生まれた女の子がまもなく一歳を迎えようとしていた。


「エリザベートお嬢様! ほら、ばあやはこっちですよ!」


 満面の笑みで呼んでいるのはブリギッタ。元気にって進むエリザベートに目を細め、手を叩いている。

 

 エリザベートははいはいは上手になったし、つかまって立ち上がることもあったが、歩き出す気配はまだない。


「アレクシアお嬢様は一歳のお誕生日には走り回っておられましたわ」とはブリギッタの証言である。


「それに比べて、エリザベートお嬢様の上品で奥ゆかしいこと! それでよろしいのですよ。令嬢たるもの、おしとやかでなくては!」


 エリザベートは将来「野蛮令嬢」と呼ばれることはなさそうだ。


 ブリギッタがいたく安堵して、ほくほくと満足そうに笑んでいた頃。


 真剣な顔でちくちくと手を動かしていたルカは「できた!」と快哉を叫んだ。


「寒い日が続くから、リザに毛糸の帽子を編んでみたんだけど」

「器用だな本当に」


 アレクシアは感心する。


 手先の器用な夫は、ついに編み物にまで手を出したらしい。


 初挑戦のはずなのだが、できあがった帽子は編み目も均一で、上級者のような仕上がりなのでさらに感心してしまう。茶色の毛糸を使った帽子には丸い耳がふたつ、細編みで縫い付けてあった。


「せっかくなので、くまさんの耳をつけてみました」

「天才か」

「義父上のコレクションの中にくまのぬいぐるみがあるでしょ? あれを参考にしたんだ」

「ああ、あれは元々はお母様のぬいぐるみだ」


 焦げ茶色をした古いくまのぬいぐるみは、ルイーゼが結婚した時に実家から持ってきた嫁入り道具の一つだ。ルイーゼが子供の頃、父の先代オステンブルク公爵に買ってもらった思い出の品らしい。


 ただでさえゴツい作りの上、ヴィクトルと同じく顔に大きな傷があって、あまり可愛いとは言いがたいぬいぐるみなのだが、ルイーゼは「くまさん」と呼んで大切にしていた。


 ルイーゼが亡くなってからはヴィクトルが預かり、今も彼の膨大な妻コレクションの一つとして大事に保管されている。


 ルカもヴィクトルから何度も話を聞いたことがあったし、実物のぬいぐるみも見せてもらったことがあった。それをヒントにエリザベートの帽子を編んでみたのだ。


「リザ~! 新しい帽子だよ~!」

「あー、だぁー」


 さっそくブリギッタと遊んでいるエリザベートの元へ行って、帽子をかぶせてみる。


「かっ……可愛い……!」


 エリザベートの頭囲に合わせて編んだ帽子は、ねらい通りぴったりのサイズだった。


 金色の髪と茶色の毛糸のコントラストが可愛い。

 耳がちょこんと生えたようなビジュアルも可愛い。


「あーう? たー?」


 不思議そうに首をかしげるのも可愛い。

 手が短くて頭の上まで届いていないのもものすごく可愛い。


「可愛い! さっそく義父上にも見せに……」

「待て。お父様が心停止するおそれがある。ここは慎重に行こう」


 話し合う両親を見上げて、エリザベートは「だぁ」と相づちを打った。


「んっ! たたた」


 エリザベートはまだおしゃべりはできないが、こちらの言うことはかなりわかるようになっていると感じる瞬間が増えた。


「最近たくさんお話してくれるようになったよね」

「ああ。もうすぐ意味のある言葉を発しそうだな」


 夫婦はそろって顔をほころばせた。生まれてたった一年で、みるみる成長していく娘に愛おしさが止まらない。


「リザの初めての言葉はなんだろう? ママかな? パパだったら嬉しくて泣いちゃうな~」

「ぱ」

「ぱ!?」


 はっきりとした「ぱ」の発音に、ルカはすかさず食いついた。


「ぱって言えるんだね! すごい! 天才!」


 褒めたたえながら、ルカははっと気がついてしまう。


 もしかして……「ぱ」を二回続けて言ったら「ぱぱ」になるのでは──?


「二回続けて言ってえぇぇ! おねがいぃぃぃ!!」

「必死すぎる」


 懇願する父とあきれる母をきょとんと見上げて、エリザベートは花のつぼみのような愛らしい口を開いた。


「ぱ……」


 勝利を確信したルカが、早くも脳内に鳴り響く福音ふくいんの鐘を聴きながら、じーんと感動に浸った瞬間だった。


「ぱるー」

「……え?」


 ルカは目を開いたまま停止した。


 硬直しているルカのそばに、呼んだ? と言いたげに近づいてきたのは、山猫のバルー。

 

 バルーは気取った様子でしゃなりしゃなりと歩いてくると、エリザベートにすりすりと頬を擦りつける。


 エリザベートは満面の笑みを咲かせた。小さな手を伸ばしてバルーをぎゅっと抱きしめる。


「ぱるー、ぱるー!」

 

 アレクシアは笑いをこらえた。


「完全にバルーのことを言っているな」

 

 バルーは長いひげをピンと上に向けて、フフンと鼻を鳴らした。明らかに勝ち誇った顔である。


「……そん……な……」


 愛娘の初語を飼い猫に奪われたルカは、この世の終わりのようにがっくりと肩を落としてうなだれた。


「リザあぁぁ! こんなに愛してるのにぃぃぃ!」


 悲痛な嘆きに、アレクシアはついに吹き出すのを抑えられなかった。


 絶望する敗者と、優雅にしっぽを揺らして悦に入る勝者。二者の悲喜こもごもが入り乱れるリートベルクの城は、今日も平和だった。

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