第55話 傲慢は転落へとつながる④

 フェリクスは父の前に、一枚の紙を突き付けた。


「アーレンブルク家の当主交代を認める書面です。御璽ぎょじはすでに頂戴しています」

「な……何だと……!?」


 フェリクスは留学中に成人を迎えた。これにより前当主と次期当主の同意さえあれば、家督の相続が正式に認められる。


「こ……こんなもの! サインなどするはずがなかろう!」


 公爵は突っぱねたが、その瞬間に気が付いた。


 フェリクスの背後に控えるのは、このアーレンブルク家に仕える従者たち。


「……そ……そんな……」


 公爵が腹心とさえたのんでいた選りすぐりの配下たちが、一人残らずフェリクスに忠誠を誓っている。


 当主たる自分がこの屋敷に孤立無援であることを悟り、公爵はがくがくと震えた。


「私は幸いテュルキスでおこした事業で成功を修め、土地と邸宅をいくつか購入しました。うち一棟を父上にさしあげます。――かの国は世界でも有数の先進国。父上もむやみやたらと毛嫌いせず、ご自分の目で現実を見聞なさってはいかがか」


 すでに父を主君と仰ぐ者はいない。味方もなく権力も奪われては、フェリクスに復讐することなど不可能だろう。自身の力で祖国に戻ることさえ叶わない、実質的な国外追放だ。


「父上、選んでください。私に家督を譲って、異国の地でゆるりと余生をお過ごしになるか。それとも――」


 急な「心の臓の病」でたおれるのか。


「……!」


 フェリクスの目を見れば、冗談やれ言でないことはすぐにわかった。


 ベアトリスと同じ色の双眸には、実の父に向けるとは思えない――いや、実の父だからこそ揺るぎのない、強い決別の意志がみなぎっている。


 規律正しく控える配下たちにも動揺の色はなかった。この場で何が起ころうと、彼らはフェリクスと口裏を合わせることだろう。


「くっ……!」


 エドガーとフェリクスが睨みをきかせる中、公爵は書類にサインするためにようやく解放された。


 アレクシアにつかまれていた手首には紫色のあざがくっきりと残っている。かせのような跡を忌々しそうに睨みながら、公爵は当主としての最後のサインを、震える手で記した。


「姉上、ようやくここまで来られました……」


 書面を回収したフェリクスは、ベアトリスに笑顔を向けた。


「子供の頃からずっと、姉上が私を守ってくれました。これからは私の番です」


 母の公爵夫人が逃げるようにこの家を去ってから、ベアトリスは母がわりになってフェリクスを守ってくれた。


 気の弱いベアトリスが妃候補を辞退することなく、厳しい淑女教育に耐えてきたのは、ただ父の機嫌を損ねないため──幼い弟に癇癪かんしゃくの矛先が向かないようにするためだった。


 父と弟が決定的に決裂した時、弟の身の安全を守るために手を尽くしたのもベアトリスだった。おかげでフェリクスは無事に国外へ逃げのび、来たるべき時のために力を蓄えることができた。


 フェリクスがこうして再起を図ることが叶ったのは、自分を犠牲にして父の権力欲を満たしてきた姉の献身ゆえなのだ。


「もう心配はいりません。姉上には王太子殿下がついておられるし、これからは私が姉上とマルゴット王女の後ろ盾となります」


 フェリクスは朗々と誓うと、エドガーに向き直った。


 片膝をつき、右手を心臓に当てて頭を垂れたフェリクスに、公爵家の家臣一同もならう。


「王太子殿下。未熟者ではありますが、王家に変わらぬ忠誠を誓い、全力で尽くす所存です。どうかお仕えすることをお許しください」

「――許す」


 エドガーは鷹揚に笑んだ。


「フェリクス、この日を待っていたぞ」


 エドガーがアーレンブルク公爵の言動に何年も目をつぶってきたのは、この俊英なる新当主の成人を待っていたからだった。


 フェリクスさえ成長すれば、アーレンブルクの家名を保ったままベアトリスを守れる。愛する妻の名誉を損なうことなく、公爵一人だけを退場させることができる。


 この時のために、エドガーはあえて公爵を刺激することなく、好きに泳がせてきたのだ。


「その若さでの襲爵しゅうしゃくは物議をかもすだろうが、助力は惜しまないつもりだ。何しろおまえは私の義弟だからな」


 弟という属性は愛でるものと決めているエドガーが、ひざまずくフェリクスに手をさしのべた。


「……ふざけるな」


 王太子と新公爵が握手をかわした時。廃人のように虚脱していた元公爵がゆらりとうごめいた。


「この……親不孝者が……っ!」


 破れかぶれの暴力がとっさに向けられた先は、この場で最も非力な相手――ベアトリスだった。


「ベアトリス!」

「姉上!」


 エドガーが駆け寄るよりも、フェリクスが身を挺するよりも、アレクシアが腰にいた剣を抜く方が早かった。


 アレクシアは左手でベアトリスを抱き上げたまま、右手にかざした剣の切っ先を公爵の喉元に突き付ける。一分のぶれもなく、頸動脈の寸前、薄皮一枚の位置に。


「お怪我はありませんか? 妃殿下」

「は……はい……」


 ベアトリスはうなずいたが、語尾はときめきに上ずっているようにも聞こえた。


「ありがとうございます……アレクシア様……」


 アレクシアの腕の中で礼を言うベアトリスの頬は、ほんのりと朱に染まっている。


「用心棒がわりに使ってすまんな、アレクシア。王家の誇る精鋭部隊よりも、君の方が腕が立つでのな……」


 エドガーはそうねぎらったものの、どことなく悔しそうだった。「その……そろそろ離れてもいいのではないか?」と促す口では、歯がギリギリときしんだ音を立てている。


「フェリクス! 貴様のような若造が"北"と"東"に勝てるとでも思っているのか!?」


 蛙のように這いつくばったまま、アーレンブルク公爵は叫んだ。


「北」ノルデン「東」オステン。四大公爵と呼ばれた東西南北の四家のうち、生き残った二家。


 両家に勝つことは、アーレンブルク公爵の長年の悲願だった。


「勝てなくて結構。共存していけばいいのです」

「な……なんだと……?」


 フェリクスは涼しげに答え、エドガーが公爵に尋ねた。


「私たちはマルゴットをここに連れてはこなかった。では、どこに預けてきたと思う?」

「そ、それは……」


 先ほど玉座の間で行われた、王女のお披露目の光景がよみがえる。


 ベアトリスの手からマルゴット王女を託され、にこやかに微笑んでいた王妃マルグレーテ。王妃は自身の名にあやかって類名を付けられた孫娘を、慈しむように優しく見つめていた。


「……マルグレーテ王妃……ですか?」

「半分は合っているが、母上だけではないな」


 エドガーはライトブロンドのかぶりを振った。


「これはごく限られた者しか知らないことだが、母上の館とエリーゼ妃の館の間には隠し通路が渡されているのだ。二人は日常的に行き来し、今も一緒にマルゴットを見てくれている」

「お、王妃と……エリーゼ妃が……?!」


 「北」ノルデンの血を引く王妃と、「東」オステンの血を引く側妃が、二人してアーレンブルクの血を引く王女を愛でている。


「ノルデンブルクとオステンブルクがそろって王女の後ろ楯になると言っているのに、なぜ敵対する必要がある?」

「ぐっ……」


 アーレンブルク公爵の敵視してやまない「北」と「東」が結託し、友好な関係を築いている。


 それは二家が私欲に溺れていがみあうよりも、元公爵にとって腹立たしい構図だった。


「ふ、ふざけるな──」


 未練がましく吠えようとするも、フェリクスがため息まじりにいさめる。


「父上、いい加減にわきまえてください。ここには父上よりも高位の人間が二人もおられるのですから」

「二人……?」


 きょろきょろとさまよった視線は、凛と顔を上げるベアトリスに行き着いた。


「お父様。いえ、アーレンブルク公爵。王太子妃として命じます」


──晩節を汚すことなく、潔く隠居してほしい。


 そう望むベアトリスを、元公爵は茫然と見上げた。まるで娘は自分よりも身分が高いのだと、初めて気が付いたような顔で。


「もうお会いすることはないかもしれませんが……どうかお元気で……」


 ベアトリスが祈るように告げた言葉が、父と子の最後の会話となった。



 この日、傲慢は転落へとつながった。


 前公爵は急な「持病の悪化」により当主の座を退き、医療の進んだテュルキス王国で静養に専念することになった。


 アーレンブルク家の当主交代はいたって平和に行われ、長男のフェリクスが晴れて公爵位を継いだ。


 フェリクスは才気煥発かんばつな若き公爵として、令嬢たちから熱烈な人気を獲得するも、実姉であるベアトリスを支え、忠義厚き王太子の懐刀ふところがたなとして華麗に活躍することになるのだが……それはまた、別の話である。

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