第49話 肉親

 日に日に大きくなっていくエリザベートに周囲の人々の――特に父の愛は深まる一方だった。


「うちのこがかわいしゅぎるぅぅぅ……」


 ルカはもはや個体の形をとどめていられず、液状化しそうな勢いである。


 娘はとにかく可愛い。

 起きていても寝ていても可愛い。泣いていてもぐずっていても可愛いが、笑っていると最高に可愛い。


「こんな可愛い子を産むなんて、君って天才だよね」

「まぁな」


 エリザベートが可愛いのはもちろんだが、娘にめろめろになっている夫もとても可愛い──とアレクシアは密かに思っている。


 もちろんただ愛でるだけではない。ルカは貴族の男とは思えないほど、育児も積極的にやっていた。


 吐き戻せば手際よく着替えさせ、湿疹が出ればせっせと保湿し、外気浴を兼ねて散歩に連れ出しては、広がる自然の豊かさを教えていた。


 娘が起きている間は極力一緒にいたいがために、仕事は寝ている間に爆速で終わらせている。


 睡眠を削って育児と仕事を両立している状態なので、体がもつのかとアレクシアは心配したが、ルカいわく「僕は出産で何のダメージも受けてないんだから、このくらい当たり前だよ!」らしい。


 妊娠と出産と授乳は女にしかできないが、他のことは男にもできる。


 むしろ妻は産後で満身創痍なのだから、変わらず健康体の夫が動くのは至極当然といっていい。


 そもそも娘が可愛すぎて、睡眠不足も苦にならなかった。アレクシアに似た青い瞳で見つめられるとどんな疲れも吹っ飛ぶし、ニコッと笑ってくれる以上の癒しは存在しない。


 父の愛を惜しみなく浴びて、エリザベートはますます抱っこが大好きな甘えん坊に育っていった。


 ベッドに置かれると泣く。

 父の姿が見えないと泣く。

 他の者の抱っこでは満足せず泣く。

 黄昏たそがれの時刻が近づいてもやたらに泣く。


 昼夜を問わず泣いて呼ばれるようになったルカは、愕然としていた。


「……人生でこんなに……誰かに必要とされたこと……ないッ!」


 またもや嬉しい方の愕然だった。


 かつてこんなにも熱く、誰かから求められたことがあっただろうか。いや、ない。


 ルカは感涙にむせびながら、娘が望むならいくらでも抱っこすると決めた誓いを改めて心に刻んだ。


 筋肉痛になろうが腱鞘炎になろうが本望である。今しかないこの貴重な瞬間を、逃すことなく見ていたい。


「娘が可愛すぎてつら……ううん、つらくない。幸せ。本っっ当に幸せです!」


 エリザベートを溺愛するあまり、寝てくれるとホッとするのに長く目覚めないと呼吸をしているか心配してしまう現象を発生させたり、泣いていない時でも泣き声の幻聴が聞こえる症状に見舞われたりもしていたが、それはそれで幸せらしい。


 今日も今日とて、ルカとヴィクトルは恍惚とエリザベートを見つめていた。


「きゃわゆすだなルカ君……」

「きゃわゆすですね義父上……」


 うっとりと言われて、エリザベートはばたつかせていた手足をぴたっと止めた。空中で静止した自分の手を、不思議そうにじっと凝視している。


「お、お、おててがあることに気が付いたの!? すごいね~!」

「よし、画家を呼ぼう。この光景を記録しておかなくては……」


 ルカはいちいち感動しているし、ヴィクトルはやたらと画家を呼んで肖像画を描かせようとする。記録に残しておきたいタイプらしい。


 やがてエリザベートは首がすわってくるにつれ、泣き声とは違う声を発するようになった。ご機嫌な時に出る「あー」とか「うー」とか「だー」とかいった声だ。


「お、お、おしゃべりしてるの!? 可愛いね~!」

「よし、画家を呼ぼう。今しかない姿を記念に残さねば……」


 世界一愛らしい声に、耳が溶けそうになる。


「きゃわたんだなルカくぅぅん!」

「きゃわたんですね義父上ぇぇぇ!」


 この二人の子なのかな? と思うほど息の合った溺愛ぶりである。


 娘または孫娘への愛を爆発させながら、ヴィクトルとルカはますます結託していった。

 

 小さくて弱くて柔らかいのに、ひたすら大事でまぶしくて尊い。


 自分では何もできず、世話をしなければ死んでしまう生き物なのに、「可愛い」の一点突破だけで完全勝利を修めてくる。

 

 ルカが初めてこの地に来た時から圧倒され続けてきた辺境の大自然は、エリザベートと一緒に見ると、いっそう清々しく感じられた。


 風の感触も、木々の匂いも、花の香りも、満ちる緑の色も――世界はこんなにも綺麗なのかと驚くほど鮮やかに見える。


 娘の小さな手がそよ風をぎゅっとつかむだけで可愛いがあふれるし、さやさやと流れる葉擦れの音が愛らしいクーイングと溶け合うだけで、いとおしくて泣けてくる。


「生きている……いのち……!」


 感性が独特である。


「よくそんなに毎日毎日感動できるな」


 アレクシアが苦笑していると、淹れたての茶を運んできたマリーもくすくすと笑った。


「ルカ様はさぞかしお子様を可愛がられるだろうと思いましたが、予想以上に子煩悩ですわねぇ」

 

 親バカと言わないところが優しさである。


 マリーは幸せそうにエリザベートのよだれを拭いているルカをほほえましく見守っていたが、ふいに真顔になった。

 

「……エリザベートお嬢様はルカ様にとって、この世でたった一人の血のつながった家族なのですね……」


 ルカは家族に恵まれない男だった。


 男爵の私生児として生まれたが、生後まもなく母を亡くし、父はルカを引き取りはしたがかえりみなかった。


 同じ家で一緒に暮らしていたのに、実父とはほぼ没交渉だったし、継母と異母弟は最悪としか言いようのない人間性の持ち主だった。唯一の兄弟と思っていたその弟は、実は弟ですらなかった。本当にいろいろあったのだ。


 ルカの父親は存命なのだが、お互いにもう二度と会うつもりはないだろう。


 今はアレクシアとヴィクトルがルカの家族だが、夫婦であっても元は他人だ。血縁関係があるわけではない。


 だからルカにとって血を分けた家族は、この世にエリザベートただ一人だけなのだ。


 実の母を亡くし、父とは絶縁し、血をわけた兄弟もいない。


 天涯孤独に近いルカにとって、エリザベートは唯一の肉親といっていい存在なのだ。


 アレクシアは胸をかれたような顔をした。

 

「そうか……そうだな……」


 ルカとヴィクトルは以前から意気投合していたが、エリザベートが生まれて以来、ますます絆が強くなっている。


 二人してきゃわゆすだのきゃわたんだの謎の言葉を発しているし、ルカはヴィクトルの名をミドルネームとして名乗ってさえいるのだが、実の父子ではない。他人だ。


 いくら仲睦まじくても、ヴィクトルとルカは本物の親子にはなれない。


 だが、エリザベートは二人の両方と血がつながっているのだ。

 

 もともとは赤の他人だった義理の父と婿、両者の血を引いたエリザベートが、二人の絆をさらに強くしたのだ。

 

(……そうか)


 アレクシアの心に、あたたかな喜びがこみあげた。


(私はルカと血のつながった家族を……この世に増やすことができたのか……)


 アレクシアは彼に実の子を──本物の肉親を与えることができた。


 ルカはもう孤独ではないのだ。そう思うと、目頭がじわりと熱くなるのを感じた。

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