第48話 洗礼式

 三日後。リートベルク城下にある教会で、洗礼式が執り行われた。


 先導するのは領主のヴィクトル。後に続くルカとアレクシアも久しぶりに正装に身を包み、夫婦で腕を組んで教会の門をくぐった。


 手織りのレースのショールは、洗礼式で代々受け継がれている伝統のスワドルだ。


 主役を抱くのは代母のエリーゼ。上品なオフホワイトのロングドレスをまとい、総レースのスワドルに包まれたエリザベートを愛おしそうに見つめるエリーゼは、聖母の彫像が生命を得て動き出したのかと思うほど美しかった。


 前もって授乳を済ませてきたおかげか、赤子は終始おとなしかった。うとうとと眠っているか、時折ふにゃふにゃと声をあげても、揺らせばすぐに泣きやむ。


 司祭の唱える祈祷が教会の天井へと清らかに昇っていく。ステンドグラスの玻璃はりを透かして太陽が降り注ぎ、聖なる祭壇を照らし出した。


 花弁を模した教会のトレサリーから、光が放射線状にさしこむ。主役と代母のよく似たプラチナブロンドの髪が、星をちりばめたようにキラキラときらめいた。


 エリーゼもエリザベートもどちらも「神の誓い」「神の約束」という意味を持つ名前である。


 あでやかな花の形に広がる光の中に立つ二人は「神の誓い」の名にふさわしく神聖で、実に一幅いっぷくの聖母子画にしたいほど美しかった。


 教会の鐘楼しょうろうが揺れて、玲瓏れいろうな音が打ち鳴らされる。


 祝福を意味するメロディーが奏でられて、周囲の山脈へ、農村へ、人々へと朗報を運んでいく。


 新しい命への祈りに満ちた清らかな音色に包まれて、ルカもアレクシアもただ、娘の生涯が幸福であるようにと願った。


 この日、二人の長女は正式にエリザベート・アレクシア・リートベルクと命名された。


 公的な戸籍にも、辺境伯家の家系図にもこの名が記され、小さな女の子は改めてリートベルク家の一員となった。




***




 洗礼式がつつがなく終わり、教会から引き上げた後。城内ではささやかな祝宴が開かれた。


 エリーゼとリュディガーは主賓の扱いである。リートベルクの人々から心づくしのもてなしを受けて、二人はなごやかに歓談を楽しんだ。


 エリーゼは王都に帰るその時まで、エリザベートをこよなく愛で続け、いよいよ出立の日が近づいてくると、大きなため息をついて嘆いていた。


「ああ、王宮になんて帰りたくないわ。この子を連れていきたい……。もしくは私がずっとここで暮らしたいわ……」

「父上が泣きますよ」

「泣かせておけばいいのよ」


 ひどい言いようである──とリュディガーは鼻白んだ。


 多分フランツが聞いたら本当に泣いてしまう。公務も手につかないほど落ち込むのではないだろうか。


 あいかわらず報われない父に同情しながら、リュディガーは何とか母を説得した。


「次は王都で会おう、アレクシア」


 渋る母を横目に、リュディガーはさっさと帰都の支度を済ませる。


「ベアトリス義姉上の経過も順調だ。アーレンブルク公爵家に帰ることはせず、宮中での出産準備を進めている」

「ああ、それが良さそうだな」


 実家のアーレンブルク公爵家がベアトリスにとって心安らげる場所ではないこともあり、里帰りは考えていないようだ。


 王族お抱えの侍医を総動員し、専属の助産師も雇い入れ、王家が一丸となってベアトリスの出産の日を迎えようとしているのだとか。


 エドガーをこよなく敬愛するリュディガーも、甥か姪が生まれるのを心待ちにしているらしい。涼しい顔つきの中にも、どことなくわくわくそわそわと胸が弾んでいるのが感じられる。


「私は王位が欲しいなどと思ったことはないからな。父上の次は兄上に、兄上の次は兄上の子に継いでほしいと願うばかりだ」


 王太子夫妻の子が無事に誕生すれば、必ずお披露目のパーティーが行われることになる。


 国内のあらゆる王侯貴族のもとに、このリートベルクの地にも、いずれ王家から招待状が届くことだろう。


――次は王都で会おう、というリュディガーの言葉は、新たに王族に加わる王子か王女の祝宴の席で会おうという意味だ。


「アーレンブルク公爵の野望もそこまで、ということか」

「ああ、その通りだ」


 アレクシアが指摘し、リュディガーは含み笑った。


 以前、アレクシアが「なぜアーレンブルク公爵を野放しにしているのか」とエドガーに尋ねた時、彼は言っていた。――私とて考えていないわけではない、と。


『アーレンブルク公爵には穏便に退場してもらう手段を模索しているつもりだ』


 うみは取り除かねばならないが、切除には慎重を要すると。執刀には入念な下準備を経て臨みたいのだと。


『血は切っても切れないものだ。アーレンブルク公爵の失脚はベアトリスの立場を傷つける』


 あの時言っていた「穏便な手段」が、いよいよ準備を整えたということだろう。


 待望の王孫が誕生し、公爵の権勢がますます強まり、国中の貴族たちがこぞって祝いに集まるパーティーの席。


 その晴れの日こそが、あのおごり高ぶったアーレンブルク公爵の終焉しゅうえんということだ。


「またね、アレクシア」


 リュディガーは帰りたくないと抵抗するエリーゼを引きずって、何とか帰路についた。山ほどの出産祝いの品々をリートベルクに置いて。


「「「はあぁぁ……」」」


 エリーゼとリュディガー母子を見送った後。城の使用人一同は息の合った安堵の声を洩らした。


 何しろ国王の第二王子とその母なのである。突然迎えることになった雲上人に、使用人たちも緊張し通しだったのだが、大きな失態もなく、機嫌を損ねることもなく、無事に帰せたことにホッと肩の力が抜ける。

 

「いやぁ……エリーゼ妃はまさに絶世の美女でいらしたなぁ……」

「国王陛下の寵愛を独占されているというのも納得のお美しさだったわねぇ……」


 国王の最愛の女性だと噂には聞いてはいたが、実際に目にしたエリーゼは評判にたがわない美女だった。


「うちの奥様はエリーゼ妃の妹でいらしたんでしょう? それなら本当にお美しい方だったのねぇ」


 ルイーゼも美人だったとは聞いているけれど、亡くなってから年月が経っていることもあり、直接会ったことはない使用人も多い。


 しかし、姉のエリーゼを間近で見てがぜん説得力が増した。あの美女の妹なら、それはもう麗しかったに違いない。


「リュディガー殿下も本当に眉目秀麗なお方でしたね。あんな美青年は生まれて初めて見ましたわ」

「オステンブルク公爵家は美形の家系でいらっしゃるのですねぇ」

「アレクシアお嬢様は顔だけはオステンブルクの血を継がれていて、本当によかった……!」

 

 父方の剛腕と怪力を余すところなく受け継いだアレクシアが、母方の美貌も継いでいてくれてよかった――。


 そんな結論に達しながら、使用人たちは互いの仕事ぶりをねぎらったのだった。

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