第50話 入浴
人々の注目を一身に集めるエリザベートに、興味津々の者はもう一人いた。
正確にはもう一人ではない。もう一匹である。
「待って! バルー!」
わずかに開いたドアのすきまから、褐色の影が俊敏にすべり込んでくる。
四本の脚で全力疾走するも、
「ごめんね。でもエリザベートはまだ小さい赤ちゃんだから……」
バルーはじたばたと暴れてもがき、シャーッと
「もう少し大きくなったら一緒に遊べるよ。だから今は僕とここから見ていよう?」
ルカにがっちりと捕獲されながら、バルーはしぶしぶといった顔で低く鼻を鳴らした。
「はぁぁぁ……かわいい……かわいいねぇ……」
エリザベートはゆりかごの中でお昼寝中だ。今日は午前中にたっぷりお散歩したのがよかったのか、着地にも成功し、ぐっすりと熟睡してくれていた。
「エリザベートお嬢様に猫を近づけるな」とは、ブリギッタの下した厳命である。
バルーはエリザベートのそばに立ち入らないよう、隔離される生活を送っていたが、本人……本猫はそれがいたく不服らしく、隙あらば接触を試みていた。
「バルーにはエリザベートと仲良くしてもらいたいが、ブリギッタの心配もわかるな」
バルーの喉をくすぐりながら、アレクシアも同意した。
バルーは城内で飼っているとはいえ、しょっちゅう外に狩りに出ていっては野ねずみや野生の鳥を捕まえて帰ってくる。
どんな病原菌をもらってくるかわからないのに、抵抗力の弱い乳児とふれあわせるのは心配にもなるだろう。
「よし、バルーと話をしよう!」
「話を? バルーと?」
アレクシアは聞き返したが、ルカは大まじめにバルーと顔を突き合わせて、こんこんと話をした。
エリザベートが気になる気持ちはよくわかること。
妹と思って可愛がってくれたら嬉しいこと。
そのためにも、バルーには清潔でいてほしいということ。
「ということでバルー、お風呂に入らない?」
バルーの金色の瞳が、不退転の決意に光った瞬間だった。
「じゃあ、始めるね」
まずはモフモフの毛並みをブラッシングすることからスタートした。毛玉を取り、毛のもつれた部分をほぐして、洗いやすいように汚れを表面に浮かせていく。
次に大きな
ルカは泡を揉んで広げながら、指の腹でマッサージするようにバルーの背に伸ばしていった。目に泡が入らないように気を配りつつ、腹や脚、しっぽや肛門まで優しく洗いあげる。
全身を洗われている間、バルーは非常に嫌そうに、地を這うような声で低くうなり続けていたが、暴れようとも逃げ出そうともしなかった。
「お利口だね~。ありがとう」
最後に湯をかけながらしっかりと泡を
バルーがぶるぶると体の水気を飛ばしながら立ち上がると、アレクシアが布を広げて待っていた。
「お疲れ様。よく頑張ったな」
よく拭いて乾かせば、ふわっと石鹸の香りがただよう。
入浴という苦行を乗り越えたバルーの毛皮は、ツヤツヤのピカピカに生まれ変わった。
輝く毛並みを誇らしげになびかせて、バルーはゆりかごに飛び乗った。そのままエリザベートのとなりにごろりと寝転ぶ。
バルーが乗った振動で、ゆりかごがゆらゆらと揺れる。普通の猫よりも一回り大きいバルーは、エリザベートと並ぶといっそう巨大に見えた。
太い
赤ちゃんと猫という最高の組み合わせに、ルカは身もだえた。
「可愛すぎる~!」
「ああ、夢のように可愛いな」
愛猫と愛娘の寄り添って眠る姿に、夫婦は目尻を下げた。
もちろん万が一にもバルーが危害を加えたりしないように、一緒に過ごすときは必ず人間同伴の元で見守るつもりだ。
翌日、夫婦の寝室のベッドにエリザベートを寝かせていた時にも、バルーはガリガリと扉を引っかいて入ってきた。
昨日の入浴以来、外には出ておらず、毛並みはツヤツヤでピカピカのままだ。
大きなベッドの端にルカ、反対側の端にアレクシア。真ん中にエリザベートとバルー。
エリザベートの柔らかいほっぺはふわふわで、色白の手足はふにふにで、極上のさわり心地である。
バルーの石鹸の香りのする全身はもふもふで、桃色の肉球はもちもちで、至高のさわり心地である。
「ど、どっちも気持ちいい~~!!」
最高の感触を交互に堪能しながら、ルカはアレクシアに話しかけた。
「そうだ。僕も聞いたばかりの話だけど、モニカさんがエヴァルトさんのプロポーズを受けることに決めたって」
「モニカが?」
管財人のモニカは執事のエヴァルトから求婚されても躊躇していた。元夫との離婚を経験して、もう結婚はこりごりだと敬遠していたらしい。
しかしエヴァルトのめげない求愛を受けて、モニカの気持ちも次第に変化してきた。
『──ルカ様とアレクシアお嬢様を見ていて、やはり結婚はいいものだと思いました』
エヴァルトとは仕事で毎日のように顔を合わせているが、元夫とは違う誠実な男だと、そう信じることができたそうだ。
『エリザベートお嬢様も本当に愛らしくて、幸せのおすそわけをたくさんいただいています。おかげで前に進む勇気を持つことができました──』
晴れ晴れと言ったモニカの言葉を思い出して、ルカも笑顔になった。
「モニカさんが幸せになってくれたら、僕も嬉しいよ」
モニカは元はルカの実家の男爵家に仕えていた管財人だった。実家で冷遇されていたルカに経営や財務の知識を教えてくれた、恩師のような存在である。
「そうだな。エヴァルトなら必ずモニカを大切にするだろう」
アレクシアがそう言うと、エリザベートがまるで相づちを打つように、あーと声をあげた。
愛らしい
バルーはまだ言葉を話せないエリザベートに、声の出し方を教えてくれているらしい。キリッとした顔には人生の……猫生の先輩としての風格がただよっている。
「お話してる! 可愛い!」
「ああ、可愛いにも程があるな」
あーあーとミャーミャーのハーモニーに両親が聞き惚れる中、エリザベートは鳴くバルーに触れようとしたのか、じたばたと手を揺らした。勢いあまって、指をあむっと口に含む。
バルーは再びすっと体を起こした。鼻をくんくん鳴らしながら、肉球のついた手をあげて宙を掻く。
バルーはまだ手足をうまく動かせないエリザベートに、足には前脚と後ろ脚があることを教えてくれているらしい。頼りがいのある顔には猫生の先輩としての威厳がにじんでいる。
両親に、祖父に、使用人たちに、猫にまで見守られながら、エリザベートはすくすくと成長していくのだった。
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