第51話 離乳食

「離乳食を! 作ります!」


 片手に小鍋、片手にし器を持って、ルカは宣言した。


 愛娘のエリザベートは城のみんなから愛されて、順調に育っている。最近は首もしっかりとすわり、支えてやれば座位を保てるようになってきた。


 この時期から、乳離れを兼ねて少しずつ食事で栄養を摂り、いずれ一人で食べるための練習を重ねていくのだと、マリーが教えてくれたのだ。


「最初は野菜から始めるのが定番ですわね。消化しやすくて、胃に負担がかかりませんから」

「なるほど!」

「季節によって旬の野菜は異なりますけれど、一年中安定して収穫できて、自然な甘みもあって離乳食向きな食材というと……にんじんをおすすめしますわ」


 マリーのアドバイスにより、初めての食材はにんじんに決定した。


 ルカはさっそく朝一番に街の市場に出向き、とれたての新鮮な泥つきにんじんを購入してきた。


 それを城の調理場でよく洗い、皮を剥き、切って小鍋で茹でる。


 ちりひとつ混入することも、ほこりひとつ付着することも、断じて許さない。


 にんじんが柔らかく茹であがったら皿にあげ、熱いうちに茹で汁を加えてすりつぶした。


 エリザベートはまだ歯が生えていない。噛まなくても飲み込めるように、なめらかなペースト状になるまでしていく。


「できた!」


 父の愛がたっぷり詰まった離乳食は、鮮やかなオレンジ色に燦然と輝いていた。


 といってもまずはほんの一口、小さじの半分ほどの量を食べてみるだけなのだが、それでもエリザベートの初めての食事は、家族を筆頭とした周囲にとって、歴史的といっていい記念すべき瞬間だった。


 ルカがスプーンを用意し、皿を並べ、エリザベートの首にスタイを結んでいる間。ヴィクトルは緊張でガチガチになっていた。


「お父様、そんなに緊張しなくても大丈夫です」

「う、うむ……」


 アレクシアに言われても、緊張はほぐれる様子がない。


 エリザベートが誕生して数ヶ月が経とうとしているが、ヴィクトルは未だに単独での抱っこに成功したことがなかった。


 ヴィクトルはひとたび武器を持てば百戦百勝、千軍万馬に匹敵する無敗の猛将と称えられた剛の者だが、それは戦場での話。


 荒く雄々しく猛々しい敵はいくらでも打ち負かせても、小さくて柔らかくてか弱い孫娘にはどう触れたらいいかわからないらしい。


 ブリギッタはあきれた顔でヴィクトルを睨んだ。


「旦那様、いつまで怖じ気付いているつもりですか。ただ手を添えて支えるだけでいいのですから」

「ただぁ……手を添えてぇ……支えるだけぇぇ……!」


 ヴィクトルはがくがくと震えつつも、膝の上に委ねられたエリザベートだけは死んでも落とすまいと、必死に意識を保っている。


「いきますね、義父上」

「うむ。頼む……」


 真剣な顔のルカと神妙な顔のヴィクトルが目を見合わせ、呼吸を合わせる。


「はい、リザ。あーん」


 ルカが愛称で呼びながら、口元にスプーンをさしだすと、エリザベートはきょとんとした。


 スプーンの先で小さな唇を軽く突つくと、あーんと口が開いたので、舌の上にそっとにんじんペーストを乗せる。


「……どうかな?」


 エリザベートは不思議な顔をしたが、泣き出したり吐き出したりはしなかった。小さな口をもぐもぐさせた後、ごくん、と嚥下する。

 

「「食べた……!」」


 ルカとヴィクトルの声が重なった。――天使が初めて人間の食べものを口にした。


「「きゃわいすぎるぅぅ……!!」」


 ルカはスプーンをにぎりしめたままその場に崩れ落ちたが、ヴィクトルはエリザベートを膝に乗せているので崩れ落ちるのは我慢した。


 感動で泣きそうになりながら、ルカは意気揚々と誓う。


「毎日、リザのためにご飯を作るからね!」


 その日、リートベルク城内では使用人たち一同が「エリザベートお嬢様が初めて離乳食を召し上がった」と「旦那様が初めて座ってエリザベートお嬢様を抱っこできた」をダブルで祝ったのであった。


 次なる目標は「旦那様が立って抱っこする」だ。達成の日はまだ遠い。




***




 離乳食もなかなか奥が深い。


 庶民はあまり手をかけず、適当に進めることも多いらしいが、エリザベートは高位貴族であるリートベルク家の令嬢。母のアレクシアに次ぐ辺境伯位の相続人なのだ。この先、弟が生まれなければ、いずれ爵位を継いでこの地の領主になる立場である。


 そうでなくても、エリザベートは城中の人間たちにとって大事な存在だ。なるべく丁寧に、慎重に進めようということで全員の意見が一致する。


 しばらくは少量の野菜を一種類ずつ、ペースト状にして与え続けた。体調に問題がなければ、徐々に食材の幅を増やしていく。


「なるほど、野菜の次は芋類……。フルーツは林檎から、肉は鶏肉から始めるのが定番なのか……」


 ルカはマリーたち先輩母の助言を熱心に聞きながら、綿密な離乳食のスケジュールを立てて実行していった。


 月齢が進むごとに、最初は一日に一回だった食事も二回、三回と増えていく。


 回数だけではない。食材もどんどん増え、調理法も多彩になっていった。


 幸いなことにエリザベートの反応はよく、進みは順調。


 おかげでルカも栄養のバランスを考えたり、大人が食べさせるだけではなく自分で手づかみで食べられるように形や大きさを工夫したりと、試行錯誤を楽しんだ。


「ルカ様、今日はいいたらが手に入りましたよ!」


 そう笑顔で言ってくれたのは、料理人のヨハンだ。


 料理人たちは市場に出向くたびに、エリザベート用の食材を探してきてくれる。白身魚はクセが少なく、良質な脂も摂取できるのでおすすめだと教えてくれたのも彼らだった。


「先日ミルクで煮て出してみた時、エリザベートお嬢様のお気に召していたでしょう? すぐ使えるように、下茹でしておきますね」

「ありがとう、ヨハン!」

「いえいえ。お安い御用です」


 ヨハンはにこやかに魚をさばいた。皮を取り除き、骨を一本一本抜きながら、しみじみと言う。


「……最近、よく思い出すのです。昨年の春、ルカ様の結婚式の時のことを……」


 ヨハンが王都からこのリートベルクに移住してきて、初めて参加した大仕事。それがルカとアレクシアの結婚式だった。


 城下町の領民たちにふるまうために夜を徹して大量の春野菜を刻み、肉を焼き、魚を揚げ、木の年輪を模した樹木のケーキバウム・クーヘンをひたすら作り続けた。


「あの時、婚礼料理を仕込みながら思ったのです。私の料理人としての人生で、これが一番幸せな仕事だろう、と……」


 初老のヨハンに徹夜仕事はきつかったけれど、それ以上に満足感でいっぱいだった。


 春らしい明るいテーブルセッティングに、晴れの日を彩る種々の婚礼料理。


 二人の結婚を祝いに集まった領民たちは、ヨハンたちの作った料理に舌鼓を打ち、美味い美味いと喜んでくれた。


 人々の盛り上がる声を聞きながら、ヨハンは胸がいっぱいになったものだ。


 ヨハンが長年仕えた男爵家で、虐げられて育った薄幸の令息。ルカへの不当な扱いに、ヨハンはずっと心を痛め続けてきた。


 そのルカが新天地にたどりつき、愛する人と結ばれ、領民から祝福されている。


 自分の人生で一番幸福な仕事をやり遂げた──。そう思ったのだが、そんなことはなかった。


 あの日結婚した夫婦には、天使のように愛らしい娘が生まれて、日に日にすくすくと大きくなっている。


 子供も孫もいないヨハンには、エリザベートが可愛くてたまらない。ルカの娘に会えたことが嬉しくて仕方がない。──男爵家から移ってきた者たちは、みんなそう思っていることだろう。


「今はあの日を上回るくらい幸せで、毎日が楽しいです。長生きはするものですねぇ」

「ヨハン……」


 ヨハンは加熱した白身魚を鍋からすくい、丁寧にほぐして器によそった。


 片手に乗るほど小さい器は、エリザベートのための専用の皿だ。


 こんな小さな皿にたっぷりの愛情をこめ、ほんの少しの量にたくさんの願いを託す作業は、どんな技巧を凝らした料理を作るよりも、すばらしく充実していた。


「この地に移住して良かった。ルカ様の幸福な未来を見ることができて……本当に良かったと思っています……」


 まるで料理人としての原点に立ち返るような気持ちで、小さな器を見つめながら、ヨハンは目元をぬぐったのだった。

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