第52話 傲慢は転落へとつながる

 この国には「傲慢は転落へとつながる」ということわざがある。


 盛者必衰。おごれる者は久しからず。


 横柄なふるまいをすれば、自ら破滅を招くことになる――という意味だ。




 ***



 赤ん坊が一人いるだけで、家の中はがらりと変わるものだ。


 質実剛健な城にはどことなく甘い香りがただよい、殺風景だった部屋にはカラフルなおもちゃやベビーグッズが増えた。


 城で働く使用人たちまでみんなほわわんとした顔つきになったのだが、特に変貌したのが彼女である。


「……まさか……ブリギッタさんがあんなことになるなんて……」


 ルカは信じられないといった様子で目をしばたたかせた。アレクシアも眉間にしわを寄せる。


「……ああ、まさかブリギッタがな……」

   

 ブリギッタは元々はアレクシアが生まれる時、乳母として雇われた女性だった。アレクシアが立派な淑女に育つよう、長年がみがみと口うるさく教育し、びしびしと厳しく手塩にかけてきたのだ。……かけた手塩が実を結んだかというと疑問だが。


 そんなアレクシアが結婚した時、ブリギッタは誰よりも感慨深そうに涙ぐんでいた。まるで自分の務めはすべて終わったと悟ったような、満ち足りた顔で。


『お嬢様の花嫁姿を見られた以上、もう思い残すことはありません。あとはお迎えを待つだけですわ……』


 縁起でもないことを、とアレクシアは顔をしかめたのだが、実際ブリギッタも高齢の老婆だ。寄る年波には勝てず、膝が痛いだの足が重いだのと愚痴をこぼすことが増えていた。


 髪はいっそう白くなり、強かった語気も弱まり、棺桶に片足を突っ込んでいると自嘲することも増えた。


 元から小柄だったブリギッタの後ろ姿はひとまわり小さくなり、ゆっくりと老い衰えていく一方だったのだが……。


「なんて愛らしいのでしょう! エリザベートお嬢様!」


 ころんと寝返りをしたエリザベートに向かって、ブリギッタは満面の笑みで両手をさし出した。


「ブリギッタが、あんなに元気になるとはな……」


 そうアレクシアが驚愕するほど、ブリギッタはすっかり若返った。


 痛かったはずの膝は矍鑠かくしゃくとして、曲がっていたはずの腰はしゃんと伸びて、十年は時が戻ったかと思うほど若々しさを取り戻していた。


「エリザベートお嬢様は本当にルイーゼ奥様によく似ておられること。まるで奥様にまた出会えたかのようですわ……!」


 エリザベートのぱっちりとした大きな瞳は宝玉のようなサファイアブルー。少しずつ伸びていく髪は星をちりばめたようなプラチナブロンド。どちらも祖母のルイーゼと同じ色だ。


「エリザベートお嬢様はきっと奥様のような淑女になられます。ばあやにはわかりますとも!」


 こんなにルイーゼに似た女の子なのだから、必ずルイーゼのように育つはずだ――


 ブリギッタは自信満々にそう予言した。過去の挫折を苦々しく噛みしめながら、固く誓う。


「アレクシアお嬢様の時の轍は二度と踏みません。今度こそエリザベートお嬢様をどこに出しても恥ずかしくない淑女に育ててみせますわ!」

「あ……うん……すまない」


 完全に失敗例としてカウントされている。


 ブリギッタにさんざん心労をかけた日々を思い返すと、反論などできない。アレクシアは素直に謝った。


 何はともあれ、ブリギッタが新たな生きがいを見つけたのは良いことだ。


 赤ん坊が一人加わっただけでがらりと変わった日々の中。あわただしくも楽しく時は過ぎていく。


 やがて国王の名のもと、国中に大々的な伝令が発布された。


 王太子妃ベアトリスが第一子を出産したのだ。


 触れ役と呼ばれる者たちが高らかに、国王の初孫の誕生を吹聴して回り、宮殿の城門前にも金の額縁に収められた掲示が置かれた。


 掲示の文面には王女であったことと、出生時刻、母子ともに健康であること、国王王妃両陛下は報告を受けて大変喜んでいる──という旨の文章が記されている。


 王子ではなかったことを惜しむ声もあったものの、王都はすっかりお祝いムードらしい。


 城下町では酒が無料でふるまわれ、空には花火が打ち上げられ、お祭り同然のどんちゃん騒ぎが続いているとか。


「そうか。王女でいらしたか」


 さぞかし喜んでいるだろうエドガーと、姪を愛でるであろうリュディガーと、王子ではなかったことで地団駄を踏んで悔しがっているであろうアーレンブルク公爵が同時に目に浮かんで、アレクシアは相好を崩した。


 さらに後日。王女が無事に洗礼式を終えたことと、「マルゴット・ベアトリス・ペルレブルク」と命名されたことも続けて発表された。


 マルゴットとは祖母のマルグレーテ王妃にちなんだ類名るいめいである。王子なら国王の、王女なら王妃の名にあやかるだろうと想像していたが、予想通りだった。


 さらにマルゴット王女のお披露目のため、王宮で祝いの宴が催されることもあわせて通達された。


「僕も行くよ!」


 ルカは颯爽と名乗りを上げた。


 前回アレクシアが一人で王都に登った時、現地で妊娠が発覚したことはまだ記憶に新しい。


 遠く離れた場所でまたアレクシアの身に何か起こったらと思うと、気が気ではなかった。


「本当にいいのか?」 

「うっ……」


 そう問われると言葉に詰まる。


 気がかりなのはもちろんエリザベートのことだ。すっかりパパっ子に育っている娘を置いていくのは心配でならないし、シンプルに自分も辛い。


「……行……行く……行きます……」


 明らかに後ろ髪をひかれている。


「エリザベートの目を見て誓えるか?」

「ううっ……!」

「無理をするな」


 苦悩しているルカの肩を叩いて、アレクシアは笑った。


「事情があってな。私はパーティー以外にもやることがある。ルカはエリザベートと一緒にいてやってくれ」


 幼い娘と離れるのはアレクシアにとっても心配だが、ルカがついていてくれるなら不安はない。


「僕、最近エリザベートにばかり夢中になっている自覚が……自分でもあるけれど……! でも! 僕の最も大切な人は君だからね!」


 ルカは蜂蜜色のかぶりを振って、きっぱりと言い切った。


「リザは目に入れても痛くないくらい可愛いよ。でも違うんだ。リザが一番なら、君は殿堂入りなんだ!」


――君以上の人は存在しない。そうルカが断言すると、アレクシアもかぶりを振った。


「子供が生まれたら、その子が最優先になるのは当たり前だ」


 夫が娘をいくら溺愛しても、やきもちを焼く気にはならない。ただ幸福だと感じるだけだ。


「娘に嫉妬したりはしない。私の産んだ子を可愛がってもらえるのは何よりも嬉しい」

「可愛がるに決まってるよ!」


 ルカは片手を伸ばして、黒髪をすくった。


 彼女が目を閉じた瞬間に合わせて口付ける。耳に、頬に、それから唇に。


「愛してる。僕の幸せは全部、君からもらったものなんだ」


 尊敬する義父にも、可愛い娘にも、アレクシアのおかげで出会うことができた。


 大切な居場所も、かけがえのない日々も、幸福に満ちた人生のすべてが──アレクシアがいたから得られたものばかりなのだ。


「ありがとう、アレクシア。僕にとってはいつまでも君が不動の首位だからね」

「だぁー」


 愛らしい喃語なんごに呼ばれて下を向くと、ルカの膝に抱かれたエリザベートが、もみじのような両手を伸ばしていた。


 夫婦はそろって微笑むと、愛娘のすべすべの頬に、左右から同時にキスをした。




 ***



 この国には「傲慢は転落へとつながる」ということわざがある。


 盛者必衰。おごれる者は久しからず。


 横柄なふるまいをすれば、自ら破滅を招くことになる――という意味だ。


 まもなく国王の名のもとに、マルゴット王女のためのお披露目パーティーが開かれる。


 国王と王妃にとっての初孫は、あのアーレンブルク公爵にとっても待ち望んだ外孫だ。


 王侯貴族たちがこぞって招かれる華々しい祝宴の日が、かの公爵にとって最後の晴れ舞台になる。


 国中の貴顕きけん貴族が一堂に会するその日――傲慢は転落へとつながることだろう。

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