第40話 弱音

 ルカは顔を不安にこわばらせて、おずおずと尋ねた。


「……あの、双子ではないはず……なんだよね?」

「ああ。医師の見立てによればそうだ」


 聴診器を使った診察では胎児の心音を聞くことができる。今回は聞こえる心音がひとつであることから、おそらく単胎妊娠だろうと推測できた。


「双子の心音がぴったり重なっていて、見抜けない場合もあるというから、絶対ではないらしいが」

「……そっか……」


 ルカの表情がみるみる暗くなる。先ほどマリーに「双子の出産はさらに命がけになる」と言われた時と同じ、濃いかげに曇りながら。


「……ルカ」


 アレクシアはおもむろに、気になっていたことを切り出した。


「何?」


 ブリギッタはルカについて、好きなだけ悩ませておけばいいと言っていた。アレクシアを大切に想っているから神経質になっているだけなのだと。


 でも――それだけではないのかもしれない。


 彼の心配や懸念は、もっと根の深いものであるような気がしてならなかった。


「……もしかして……ルカのお母様のことを考えて、私を心配しているのか?」


 ふくらはぎをさすっていた手が止まった。


「……お義母様のことがあったから……だから……不安なのか?」

「……」

 

 ルカの実の母は、出産で亡くなった。


 正確には産後に感染症にかかって命を落としたようだが、産褥期で抵抗力が落ちていたことと無関係ではないだろう。


 ろくな医療設備もない下町での出産だったことも手伝って、母は若くしてこの世を去ってしまった。


「……うん……」


 ルカは消え入りそうな声で認めた。


 子供を授かったのは心から嬉しいし、楽しみで仕方ない。けれど同時に、母の死因にも思いを馳せずにはいられなかった。


 かといって、出産で命を落とすかもしれないなんて縁起でもないことを、軽々しく口にはできない。


 言葉にすれば現実になってしまいそうで、口が裂けても言えるはずがなかった。


 誰にも言えなくて、でも頭から離れなくて、一人で思い悩んだ結果、過剰なほどアレクシアを心配してしまっている──というのが現状だ。


「……同じことが君に起こったらと思うと……怖くて仕方ないんだ……」


 万が一にもアレクシアを失うなんて耐えられない。想像するだけで呼吸ができなくなる。


「君にもしものことがあったら……僕は生きていけない……!」


 ずっと心に抱えていた弱音がこぼれて、ルカは苦しそうに顔を歪めた。


 アレクシアが妊娠してから数えきれないほど思った「交代できるならしたい」の気持ちは、出産が近づくにつれますます強くなっていた。


 二人で作った子供なのに、妻だけを死ぬかもしれない危険にさらすなんて嫌すぎる。


 代われるものなら代わりたい。たとえ子供のためでもアレクシアを犠牲になんてしたくない。命を捧げるなら自分でありたいのに、何もできないことが不甲斐なくて、苦しくてたまらなかった。


「ルカ……」


 小刻みに震える髪を手ですくって、アレクシアは彼の頬に指を這わせた。


「……ずっと、傷ついていたのだな」


 ルカは誰にも言えずに苦しんでいたのだ。母の命とひきかえにこの世に生まれてきたことを。


 出産が命がけだという話が、大げさでも何でもないと知っているからこそ、アレクシアを失うことを何よりも恐れているのだ。


「絶対死なない……とは言えない。だが、生きたいと思っている」


 絶対に大丈夫だと約束するべきなのかもしれない。だが、アレクシアはあえてそう言った。


 今は昔よりも医療が進んでいるし、辺境伯家には腕利きの主治医もいる。


 近年になって普及した輸血の処置も、いざとなれば受けることができるだろう。アレクシアはルカの母よりもずっと恵まれた環境にいる。


「私は生きたい。ルカと、生まれてくる子と──家族で一緒に」

「うん……!」


 子供は無事に産みたいし、自分も生きたい。生きて、夫と一緒に子供の成長を見たい。


 ルカの母もきっとそう願っていただろう──と痛む胸の中で思いながら、アレクシアは蜂蜜色の髪をぎゅっとかき抱いた。


 まなじりに浮かぶ透明な涙をキスで舐め取れば、水色の双眸が大きく見開く。


 塩の味がする涙をごくりと飲み下すと、かわりに口づけが返ってきた。角度を変えて何度も唇を塞がれて、静かな部屋に衣擦きぬずれの音が響く。


 さらに深く口づけようと体が密着した時。アレクシアの下腹部で泡がはじけるような感触がして、二人はそろって停止した。


「う……動いた!」


 ルカが思わずお腹に手を当てると、もう一度内側からポンッと蹴られる。


「わあぁぁぁ……!!」


 今までで一番はっきりとした胎動だった。


 ルカが感激していると、部屋の扉をたたく音がした。


 人の手ではない。肉球をトントンと叩きつける振動に続いて、爪でカリカリとドアを引っかく音が続く。


「バルー?」


 ドアを少し開けてやると、茶褐色の影がすばやく入り込んできた。


 アレクシアの飼い猫のバルーだ。正確には猫ではなく山猫なので、バルーは普通の猫の倍近く大きい。


 ルカが両脇に手を入れてバルーを持ち上げると、巨大な体は床につくほどだらんと長く伸びた。猫の伸び率はすごい。


「おまえともずっと遊んでやれていなかったな」


 アレクシアが指で首元をくすぐると、バルーはごろごろと喉を鳴らした。そのまま夫婦のベッドに我が物顔で飛び乗る。


 今まではいくらでも遠慮なく飼い主の体に登ってきたのに、最近のバルーはアレクシアの上に乗ろうとはしなかった。鼻をくんくん鳴らしながら、夫婦の間にちゃっかりと挟まる。


「今夜は一緒に寝るか」

「そうだね」


 左右から同時に撫でられて、バルーは満足そうに鳴いた。


 鳴き声が聞こえたのか、再び胎動が活発になる。皮膚の下をうにょうにょとうねるように動く感覚がくすぐったくて、アレクシアは思わず笑ってしまいそうになった。


 バルーはそんなアレクシアを守るかのように、ぴったりと寄り添って丸くなる。


 モフモフのしっぽが、腹の丸みを撫でるように揺れた。

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