第46話 名前
「何だ、これは」
アレクシアが部屋に入った瞬間、大量の白い紙がひらひらと空中を舞った。
紙の乱舞の中から、ルカが顔を出す。
「義父上と一緒に名前を考えていたんだ。でも、全然絞れなくって」
散らばった紙にはAから順番に、たくさんの候補名がずらりと綴られている。
アリア、アデル、アガーテ、アグネス、アリーナ、アリーセ、アロイジア、アルマ、アマーリエ、アメリア、アンゲリカ、アンナ、アンネリーゼ、アントニア、アンゼルマ、アポロニア、アウレリア、アストリット……。
さらに二枚目をめくれば、Bで始まるベルタ、ベネディクタ、ベティーナ、ビアンカ、ブリュンヒルデ……と名前の羅列はどこまでも続く。
AやBだけではなく、CやDやEやその他から始まる女児の名も山ほど記された紙の束は、めくってもめくってもきりがなかった。
「こんなにたくさん考えてくれてありがたいが……」
Aのつく名前がずらりと並んだ紙をひらりと手にとって、アレクシアは首をかしげた。
「もしも私の名をミドルネームにする気なら、Aで始まる名前は避けた方がいいのではないか?」
「あああ!!」
貴族は基本的にファーストネーム・ミドルネーム・ファミリーネームの三つの名を名乗る。
ミドルネームは平民にはない、貴族だけに許された名だ。同性の親族の名を付けることが多く、男児なら父親の名、女児なら母親の名を与えるのが一般的である。
ファーストネームとミドルネームのイニシャルが被ってはいけないわけではないが、習慣として重複は避けることが多い。
「そうだった! ミドルネームは君の名前しかありえないんだから、ファーストネームはA以外で始まる名前にしなくちゃ!」
愛娘のミドルネームは、愛妻の「アレクシア」以外には考えられない。
しかし仮に先頭の「アリア」と名付けた場合、フルネームはアリア・アレクシア・リートベルクとなり、イニシャルはA・A・Lになってしまう。全体的にAが多すぎる。
ということで、Aで始まる名の一覧はあえなく不採用となったものの、候補はまだまだたくさんある。
よくある名付け法のひとつは、祖父母にまつわる命名だ。ミドルネームが親の名前になることが多い分、ファーストネームは祖父母にあやかって付けるのだ。
「義母上の……ルイーゼ様の名前をいただくのはどうでしょうか?」
「ありがとう、ルカ君。君の気持ちはとても嬉しい」
ルカの提案に、ヴィクトルは黒いかぶりを振った。
「だがな、私にとってはルイーゼはこの世でただ一人なのだ。孫は信じられないほど可愛いし、ルイーゼに似てくれて嬉しいが、ルイーゼと同一視してはいない。この子はこの子だ」
──いくら似ていても孫はルイーゼとは別の人間だし、生まれ変わりだとも思っていない。
ヴィクトルはキリッとした顔でそう語ったが、木製のラトルを振って孫をあやしているせいで、威厳は死滅している。
鋼の筋肉と隆々とした
話を戻して。
もしもルイーゼの名前をそのまま名付けたなら、娘のフルネームはルイーゼ・アレクシア・リートベルクとなる。それでは母の名とまぎらわしいだろう。
「今は赤子だが、大きくなったらいずれ叱る場面も出てくるだろうしな。その時にお母様と同じ名では叱りにくい」
アレクシアはそう言ったが、いずれとは言えこんな可愛い子を叱ることができるだろうか……とルカは不安に駆られる。何をされても怒れる気がしない。我ながらポンコツになる自信しかない。
「では、ルイーゼ様の
類名、とは同じ意味や語源を持つ名のことである。まったく同じ名前ではなく、あえて語尾や
たとえば先ほどのAがつく候補名の二つ目は「高貴」の意味を持つ「アデル」だったが、語源を同じくする「アデルナ」や「アデルハイト」「アデルトラウト」などが類名にあたる。男性名にするならば「アデルベルト」だ。
ミドルネームは同性の親の名をそのまま付けることが多いが、ファーストネームは性別に関係なく類名を用いることがめずらしくない。
ルカはアレクシアを振り返った。
「君の名前もお祖父様の類名なんだよね?」
「そうだ。私はお祖父様にお会いしたことはないのだが」
アレクシアの名は、父方の祖父に由来する。
ヴィクトルのフルネームは「ヴィクトル・アレクサンダー・リートベルク」だが、この「アレクサンダー」が先代の辺境伯だった父の――アレクシアにとっては祖父の名である。
アレクサンダーはリートベルクの名に恥じない豪腕の猛将だった。初孫の誕生前に急死したものの、祖父の名にちなんで孫娘はアレクシアと名付けられた。
ちなみに類名は親族だけではなく、王家を敬って名を
現に今、国内で最も人気のある女の子の名前はおそらく「マルグレーテ」である。これは現在の王妃の名前がマルグレーテであることに由来する。
筆頭公爵たるノルデンブルク家の令嬢であり、王太子エドガーの母でもあるマルグレーテ王妃は、国内の女性の頂点といっていい存在として敬われ、さかんに名を模倣されている。
貴族ならばそのまま「マルグレーテ」、あるいは少し綴りを変えた類名を用いて「マルガレータ」や「マルゴット」などと命名される令嬢が多い。
庶民の娘ならば短く縮めて「マルガ」や「マルテ」、あるいは「グレタ」「グレーテル」などと呼びやすい名前を付けるのが人気だ。
うーん、とアレクシアは首をかしげた。
「マルグレーテ王妃も尊敬に値するお方だが……ノルデンブルクの系譜でもない我が家が名にあやかるのは、かえって白々しくもあるからな……」
下手に王妃に媚びるような真似はいらぬ不興を買う。
アレクシアの血筋なら、ノルデンブルク家ではなく素直にオステンブルク家ゆかりの名にあやかるのが順当だろう。
王太子妃ベアトリスも懐妊中だが、生まれるのが王子なら国王の、王女なら王妃の類名を付けることは充分に考えられる。
王家でもすでに候補名を絞っている最中だろうから、重複する可能性の高い名を先につけるのは気まずいかもしれない。
「どうしたものか……」
そんなこんなで、ああでもないこうでもないと悩みながら、ようやく娘の名前を決めた日。
アレクシアは机に向かい、ペンを取って手紙を綴っていた。
宛先は首都。王城の奥に広がる後宮に暮らす、伯母のエリーゼにあてた手紙である。
"親愛なるエリーゼ伯母様──"
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