第36話 シュパーゲル
ルカが城を留守にしてから、二日。
衰弱したアレクシアはベッドから起き上がれずにいた。
妊娠前には当たり前にできていたことが、今は何もできない。
これまで担っていた仕事も大幅に減らしてもらい、周囲の協力を得て静養に専念しているが、それはそれで罪悪感が大きかった。
(……不甲斐ないな……)
アレクシアが動けない分、他の人々に負担としわ寄せがいっている。それが心苦しいし、自分の体なのに思い通りにならないのがもどかしい。
このただ寝ているだけという状態は、誰の何の役にも立っていないのではないかと思うと、
メイドのマリーや乳母のブリギッタは「今は無事に出産することだけを考えればいいのです」と𠮟咤激励してくれているが、彼女たちが用意してくれる食事もろくに喉を通らなかった。
これではお腹の子にも栄養が届かないのではないかと、さらに心配は増すばかりだ。
焦燥ばかりがどうしようもなく降り積もり、終わりの見えないつわりの症状に悩まされる中。
明くる日、青毛の巨馬の力強い
「ただいま戻りました!」
ルカは三日前に出発した時と同じ服をすっかり土色に染め、明るい蜂蜜色の髪もくすんだ砂まみれにしながらも、颯爽と城門をくぐった。
馬をねぎらいつつ厩舎に戻し、大急ぎで汚れを落として身なりを清潔に整えてから、持ち帰ってきた包みを調理場に運び込む。
「これは……!?」
「まさか……!?」
料理人のヨハンとハンスがそろって目を丸くした。
乾燥を防ぐために布巾を水で湿らせて包み、上から袋を複数枚重ねて、厳重にくるんである。
この保存方法が適した食材と言えば、「野菜の王様」と呼ばれるあれだ、とすぐにわかった。
「「シュパーゲルじゃないですか!」」
包みをほどくと、出てきたのは象牙のように白くてまっすぐな穂をした
シュパーゲルは国民に絶大な人気を誇る食材だ。旬の時期になると市場に多く出回り、街の食堂もこぞってシュパーゲルを使ったメニューを掲げる。
庶民に熱狂的に支持されているだけでなく、その上品な甘みと芳醇な香りは貴族からも愛好されていた。
ありとあらゆる食べ物の中で一番人気が高いと言っても過言ではないシュパーゲルは、もちろんアレクシアも大好物である。
「いやぁ、よく手に入りましたねぇ!」
ハンスが驚嘆したのも無理はない。
「野菜の王様」「白い金塊」と称えられるシュパーゲルだが、一年中出回っているわけではない。春から夏にかけての短い期間しか採れないのだ。
今年はすでに収穫の時期を過ぎている。国中をどれだけ駆けずり回ろうが、入手することは困難だろう。
「グルナート王国の南端の農園に、少しだけ残っていたんだ」
「グルナートまで行かれたのですか?!」
収穫シーズンは過ぎてしまったものの、農業大国として知られるグルナートの農場では、まだわずかに栽培が続いていた。農園の主にかけあい、頼み込んで、残っているシュパーゲルを買い取ることができたそうだ。
白いシュパーゲルは緑色のシュパーゲルとは異なり、土をかぶせて日光を一切当てずに育てられている。その畑にルカ自ら入り、傷つけないように素手で土を掘って収穫してきたらしい。
「アレクシアが食べられるといいんだけれど……」
まず鍋に湯を沸かしながら、シュパーゲルの穂先をつまんで丁寧に皮を剥いた。根元は硬いので、ナイフで細く削ぐようにして切り落とす。
この皮と根は捨てない。鍋に加えて一緒に茹でると、風味と香りが増すからだ。
沸騰した湯に、塩とレモンの果汁を少々加えた。穂先の向きをそろえて、泳がせるようにしっかりと茹でていく。
加熱が足りないと味が落ちるし、加熱しすぎても風味が飛んでしまう。シュパーゲルが
普段ならバターを加えてこってりとコクを出したり、卵黄を使った濃厚なソースを作って
さっぱりしている方がいいはずだと考えて、味つけもシンプルに塩とレモンだけにした。
「……どう……かな?」
鮮度を保ったまま持ち帰り、細心の注意を払って茹であげたシュパーゲルは、白い金塊の異名の通り、つやつやと輝いている。
そっと口に運び、ゆっくりと
「うん、美味しい」
ちょうどいい茹で加減のシュパーゲルは、柔らかくてさっぱりとしている。
余分な味付けをされていない分、より繊細な甘みと爽やかな風味が引き立っていた。
子供の頃から慣れ親しんだ春の味が優しく広がって、不思議とほっとする。時間はかかったが、吐き気をもよおすことなく数本を食べることができた。
「ありがとう。美味しかった」
「よかったあぁぁ……!」
ルカは心の底から安堵したように、へなへなと脱力してベッドの前に膝をついた。
「ごめん。君ばかりに辛い思いをさせて。君が苦しんでいるのに少しも代わってあげられなくて、本当にごめん……」
アレクシアの手を自身の両手で包み込んで、ルカは
「子供を授かったことは本当に嬉しくて、とても幸せなんだ。でも、伴う負担を全部君に負わせているのが申し訳ない」
「……そんなことは」
ない、とアレクシアは首を振った。
「負担を負わせているのは私の方だ。みんなに迷惑をかけるばかりで、何の役にも立てていない」
「お腹の中で人間を育てているのに!?!?」
ルカは即座に否定した。
「君は片時も休まずに命を守って、育てて、成長させてくれているんだよ! これ以上の偉業がある!?」
強く力説しながら、ルカはぎゅっとアレクシアを抱きしめた。以前に比べて痩せてしまった感触に、心が痛くてたまらなくなる。
「僕が妊娠出産できたらいいのに。君と交代できるなら絶対にするのに……」
「うん。私もルカの方が適任だと思う」
もしも妊娠したのがルカだったら、アレクシアよりもよほど慈愛にあふれた妊婦……妊夫になっただろう。
大きくなる腹を撫でて、たくさん話しかけて、産着やベビーグッズを編んだりして、模範的な妊夫生活を送っていたことだろう。
そんな光景が容易に想像できて、くすっと頬がゆるむ。
笑ったのがひどく久しぶりに感じられて、アレクシアが顔を上げると、ルカの水色の瞳がまっすぐにこちらを向いていた。
「迷惑だなんて思わないで。君は僕には絶対できないことをしてくれているんだから!」
力いっぱい断言する声に、アレクシアはさらに笑みを深める。
つわりが消えるわけではないけれど、焼けるような不快感を癒すように、じわりとあたたかいものが胸にこみ上げた。
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