第35話 悪阻
辺境伯家のお抱え主治医からも診察を受け、あらためてアレクシアの妊娠が確認された。
使用人たち一同は喜びに湧き、拍手と喝采が城をいっぱいに満たし、そしてこの地の領主と義息子は今、こうである。
「子供……子供……子供……」
「孫……孫……孫……」
二人そろって後頭部に
「どどどどどうしましょう義父上!」
「どどどどどうしようルカくぅん!」
手と手を取り合いながら、二人は盛大にうろたえた。妊婦本人よりも動揺がひどい。
「僕、アレクシアと結婚できて世界一幸せなのに……これ以上幸せなできごとが重なったら死んじゃいそうです……」
「わかる……わかるぞルカ君……私もルイーゼが妊娠した時そう思った……」
ヴィクトルは大きく首を縦に振ると、いつも卓上に飾っているルイーゼの肖像画を手に取り、
「見ているか、ルイーゼ……! 孫が……孫がぁぁ……!」
と、何度めかもわからない報告を語りかけていた。
「とにかくアレクシアには体調を最優先してもらいましょう! 代われる仕事は全部僕がやります!」
「そうだな。騎士団の訓練や演習からもいったん手を引かせて、私が全面的に請け負うことにしよう。無理は禁物だ」
「二人とも心配性だな……」
ルカが言い出し、ヴィクトルが同意する。アレクシアは半ばあきれ気味だったが、二人の勢いは止まらない。
「お腹の子の分もしっかり栄養を摂らなくてはいけないですよね。妊娠中に食べてはいけない食材もあるかもしれないし……。栄養学をしっかり勉強して、体にいい食事を作るようにします!」
「万が一にも転倒などしては危険だな……。城中の安全対策を強化するか。ルイーゼの時にもしたのだが、さすがに年月が経ちすぎている。この機に全面的に改修するとしよう」
「二人とも過保護だな……」
夫も父もアレクシアのために万難を排そうという気概がすごい。
ありがたいが、気合いが入りすぎではないだろうか。
無念そうにため息を吐いたアレクシアを、乳母のブリギッタがのぞき込んだ。
「どうなさいましたか? お嬢様」
「剣も槍も乗馬もダメだと禁止されてしまった……」
「当たり前です! 逆にどうしてできると思うのですか!?」
ブリギッタはがみがみと怒った。もともとしわくちゃの顔にさらに深いしわが増える。
「当面の間、不自由は覚悟なさってください。つわりもこれから酷くなるかもしれないのですからね」
「つわりか……」
アレクシアは余裕
「私は普通の人間より体力があるし、体も頑健な方だ。つわりと言ってもたいしたことはないだろう」
***
「……気持ちが悪い……」
どんよりと暗い顔でベッドに沈みながら、アレクシアは虚脱した。
先日までの不調はほんの軽い小手調べだったらしい。領地に帰ってほっとしたことも手伝ってか、ほどなくして本格的なつわりが始まった。
「うっ……」
胃の中身がすべて逆流するような不快感に襲われて、アレクシアは眉間をきつくしかめた。
朝起きた瞬間からもう気持ちが悪い。吐き気、貧血、めまいに食欲不振のオンパレードで、ろくに食事が摂れない。空腹になればそれはそれで気持ちが悪い。理不尽である。
嗅覚も過敏になったようだった。料理の湯気や香水の匂いなど、これまでは気にならなかったささいな匂いにも嘔気がこみあげる。
「なんなんだ、これは……」
アレクシアは思わず投げやりにぼやいた。
使える薬もないし、治療方法もない。せめていつ楽になるのかがわかれば見通しがつくのだが、終わりは誰にもわからない。
マリーが介抱しながら「お腹が出てくる頃には、つわりも治まることが多いですからね」と励ましてくれたが、こそっと小声で「……中には産む直前まで続く人もいますが……」とつぶやいていたのが忘れられない。これまで聞いたどんな怖い話よりも恐ろしかった。
「……これは……辛いな……」
禁酒を言い渡されたことを内心残念に思っていたが、もはやそれどころではない。日常生活すらままならないのだ。
常に船酔いしているような状態で、思考もまとまらない。自分の体なのに、自分のものではないかのように言うことをきいてくれなかった。
かつてないほど体調の悪いアレクシアを、ルカがとてつもなく心配したことは言うまでもない。
「アレクシア! 大丈夫?」
ルカは以前にも増して手間ひまをかけて、妊婦に必要な栄養たっぷりのメニューを作ってくれていた。
酸っぱいものがいいと聞けば、ピクルスやザワークラウトを何種類も用意。
具材も定番のキャベツやきゅうり、にんじんにラディッシュなどを使ったものから、卵を加えた変わり種まで豊富だ。それぞれビネガーの配合や発酵の度合いを変えて、一つでもアレクシアの好みに合うものがあればと試行錯誤している。
果物がさっぱりしていて食べやすいと聞けば、新鮮な林檎やオレンジを仕入れてせっせと剥いていた。
生食だけではなく、梨をコンポートにしたり、あんずやさくらんぼをシロップ漬けにしたり、すももやルバーブを煮てジャムにしたりと、創意工夫を凝らしている。
どれも美味しくできていて、口あたりもいい。肉や魚はすっかり受け付けなくなってしまったアレクシアだが、酸味をきかせたルカの料理なら何とか口にすることができた。
しかし、つわりには波がある。さらに体調が悪化してくると、せっかくの愛夫料理にも食指が動かなくなってしまった。
「すまない……何も食べられそうにない……」
昨日は食べられたものが今日は受け付けない。自分でもわけのわからない症状で、謝るしかできない。
せっかくルカが彩り豊富な食事を作ってくれているというのに、食欲がわくどころか、吐き気と胸焼けがこみあげて止まらなかった。固形物はことごとく気持ちが悪いし、ただの水すらほとんど飲めない。
「アレクシア……!」
アレクシアと出会って以来、こんなに具合の悪そうな姿を見たのは初めてだ。
ルカは盛大におろおろしていたが、やがてキリッと唇を結んだ。顔を引き締めて、足早に義父の執務室を訪ねる。
「義父上! 義父上の馬を貸してください!」
「あ、ああ……貸すのはかまわんが……」
ヴィクトルの愛馬である青毛の巨馬は、城で育てている軍馬の中でもっとも大柄かつ俊足だ。体力も無尽蔵で、並の馬なら二日かけて越える峠も一日で踏破してしまう健脚の持ち主である。
「ありがとうございます! ちょっと出かけてきます!」
「いや、しかし──」
愛馬は気性が荒いのだ。ヴィクトル以外の者は決して乗せないし、凶暴な性格で馬丁たちをしばしば困らせている。
ヴィクトルが止める間もなく、ルカは慣れた手つきで厩舎を開け、手綱を取った。
鞍を乗せ、
主人以外に背は許さない、気難しい
「……嘘だろう……?」
ヴィクトルはまるで浮気現場に遭遇したかのような複雑な表情で、ルカと愛馬が人馬一体となって視界の端に消えていくのを、茫然と見送ったのだった。
「乗せたのか……私以外の男を……」
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