第33話 王太子妃ベアトリス③
「妃殿下。椅子を壊してしまい申し訳ありません」
「い、いえ。それはかまいません。むしろ助かりましたが……それよりも……」
アレクシアが詫び、ベアトリスはあわてた。
「大事なお体でいらっしゃるのでしょう? あんな無茶をして大丈夫なのですか?!」
「あの程度の軽い運動、何の問題もありません」
「……軽い……?」
娘の自分が言うのも何だが、父は美食好きがたたってぶくぶくと肥え太っている。そんな中年男を乗せた椅子を片手で持ち上げるのは、はたして「軽い運動」なのだろうか……?
ベアトリスが疑問に思っていると、アレクシアはふわりと笑んだ。
「出すぎた真似をしてしまいましたが、私が出なければ王太子殿下が黙っていなかったでしょう」
「えっ?」
アレクシアの視線の先を追って、ベアトリスは目を白黒させた。
「エドガー様!」
扉の影から現れたのは王太子エドガー。華やかなライトブロンドの髪を押さえて、くつくつと笑いを噛み殺している。
「いや……すまん……。先ほどまではそれなりに怒りを覚えていたのだが……アレクシアが腕力にものを言わせたあたりから笑いが止まらなくなった。本当に規格外で面白いな君は」
「褒め言葉と受け取っておきます」
「褒め言葉だとも。残念だな、やはり君を王族に迎えたかった」
かつてエドガーは異母弟リュディガーの婚活に熱を入れるあまり、アレクシアと
結局長年の悲願は叶わず、アレクシアは別の男と結婚したし、エドガーは妻のベアトリスから「ご本人たちが望んでおられないなら、無理強いしてはいけませんよ」と正論で叱られて反省したのだが。
「殿下。なぜアーレンブルク公爵を野放しにされているのですか?」
「うん、すまない。わかっている」
アレクシアが遠慮なく詰問すると、エドガーは両手を挙げて詫びた。
「アーレンブルク公は困った御仁だ。あれでも王太子妃が内定するまでは行儀のいい善人を演じていたのだが、いよいよ化けの皮が剝がれてきた。特に最近の増長ぶりは目に余る。だが……」
「だが?」
「ベアトリスは可愛いのだ」
「エドガー様!」
さらりと
「私たちは普通に政略結婚だが、ベアトリスのことは妃候補だった時代から、どの令嬢よりも真面目な努力家だと好ましく思っていた」
アーレンブルク公爵は娘が王太子妃になれたのは自分の手柄だと思い込んでいるようだが、そうとも言えない。
むしろいくら清廉潔白な聖人を演じようが、にじみ出る強欲さを隠せずにいた公爵に懸念の声も出ていた中で、ベアトリス自身のひたむきな努力と勤勉さこそが、王太子妃の座を引き寄せたと言っていい。
「王族に加わってからも慢心せず、常に国のことを考え、私に寄り添おうとしてくれるベアトリスはけなげで愛らしい。自慢の妻だ」
エドガーが胸を張り、ベアトリスは紅潮した顔を両手でおおった。
「……だが、血は切っても切れないものだ。アーレンブルク公爵の失脚はベアトリスの立場を傷つける」
王家の力をもってすればアーレンブルク公爵を潰すことは可能だ。だが後ろ盾を失えば、ベアトリスはもはや王太子妃ではいられない。
入念な下準備を経て執刀に臨まなければ、下手な断罪はベアトリスの肩身を狭くするのだと。
「……ですから……私が身を引けばすべて丸く収まると再三申し上げているのです。エドガー様、私と離縁して別の方を妃に迎……」
「しない」
エドガーははっきりと否定して、ベアトリスの伏せた顔を指で持ち上げた。
「離婚はしないし、側妃も迎えない。私の妻は君だけだ」
「エドガー様……」
アレクシアは黙って見守っていた。この国の王太子夫妻が円満で何よりだと思う気持ちと、いったい何を見せられているのだろうという困惑が同時に去来する。
「アレクシア。君の言う通り、ベアトリスはあの驕慢な父君の元だからこそ謙虚で慎ましい性格に育ったと私も思っている。自己肯定感が低いのが玉に
「も、もう充分です!」
ベアトリスは栗色の頭を左右に振った。
「お義母様もエリーゼ妃も、これでもかというほど優しくしてくださっているのですから!」
「二人とも息子しかいないからな。ベアトリスが嫁いできてくれて嬉しいのだ」
知る者は少ないが、王妃マルグレーテと側妃エリーゼは結婚前からの友人だ。同じ夫に嫁ぎ、それぞれ王子を一人ずつ産んでからも、ずっと仲良く行き来している。
息子たちが成人して手が離れた今、二人の妃の目下の楽しみといえば、初めてできた義理の娘を愛でることである。
財力と権力と暇を持てあました中年女性はこの世で最強の生き物だ。その矛先が向けられた結果、ベアトリスは義母たちから日々べったべたにちやほやされているらしい。
「これ以上甘やかされたら、私……ダメになってしまいます……!」
「ならない」
エドガーは爽やかに微笑んだ。
「君はならないよ」
横暴な実父が
その癌も切除される日は遠くないだろう。予感を裏付けるようにエドガーが続けた。
「私とて考えていないわけではない。アーレンブルク公爵には穏便に退場してもらう手段を模索しているつもりだ。王太子妃の父となって三年……栄華はもう存分すぎるほど味わっただろう」
──不名誉な罪状で公爵を破滅させることはしない、とエドガーは断言した。
「あと少しなのだ。ベアトリスの面目を損わず、アーレンブルクの家名を汚すこともなく、公爵一人だけを追い落とすための条件が……あと少しですべて整う」
「殿下がそこまでお考えなら、心配はいらないでしょう」
アレクシアが答えた瞬間、エドガーははっと思い至った。
「悪かった。祝うのが遅れたな」
ばつが悪そうに笑って、エドガーは右手をさし出した。
「おめでとう、アレクシア。子供が生まれたら呼んでくれ」
「ありがとうございます。呼びません」
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