第32話 王太子妃ベアトリス②
「――お待ちください!」
焦った声が回廊に響いた。侍女たちが次々に駆けつけ、焦った様子で押し問答をしている。
「ただ今取り次ぎをいたしますので、少々お待ちを!」
「妃殿下はただ今、来客中でいらっしゃいまして……」
「私は父親だぞ! 私よりも大事な客があるか!?」
がなりたてる怒号に、ベアトリスははじかれたように立ち上がった。
「辺境伯令嬢、申し訳ありません、ここで少々お待ちいただけますか?」
アレクシアを応接間に残して、ベアトリスは部屋の外へと出た。手の震えをこらえながら、どすどすと大股で近づいてくるアーレンブルク公爵と向かいあう。
「お父様。落ち着いてください。そのように大きな声を出しては侍女たちがおびえてしまいますわ」
「使用人などどうでもよかろう! これが落ち着いてなどいられるか!」
やけ酒でもあおったのか、アーレンブルク公爵は酒くさい臭いを放っていた。不機嫌にわめき散らしながら、威圧的に娘を見下ろす。
「ベアトリス! まだ懐妊のきざしはないのか!?」
「……お父様。そればかりは授かりものですからと、何度も……」
「悠長なことを言っている場合か! 女は子を産む道具だというのに、それすら果たせないのならおまえは道具以下だ! この役立たずが!」
頭ごなしに雷が落ちて、ベアトリスはびくっと身をすくめた。
「あの生意気なリートベルクの小娘すら身ごもったのだぞ!」
「えっ……? 辺境伯令嬢が……?」
「そうだ! あんな女らしさのかけらもない野蛮な女に先を越されて、悔しいとは思わないのか!」
ベアトリスは胸の前で重ねた手にぎゅっと力を入れて、栗色のかぶりを振った。
「……思いませんし、辺境伯令嬢は野蛮ではありません。」
『――妃殿下は本当にお優しい方です』
そう言ってくれたアレクシアの姿を、ベアトリスは思い出す。
ベアトリスは幼い頃からずっと、父の叱責におびえていた。
四大公爵の座を希求してやまない父は、すでに没落した「西」と「南」を
厳しい圧を受け続けた日々を思い返すだけで辛く、父が大声を張り上げるだけで反射的に体がこわばる。
そんな自分が不甲斐なく、みじめだとさえ思っていた。――けれど。
『その経験は妃殿下を苦しめただけでなく、人の痛みのわかるお優しい方にしたのではないでしょうか。──原石が磨かれて、宝石になるように』
アレクシアはそう言ってくれた。
苦しかった過去を忘れろでもなく、乗り越えろでもなく、その経験こそがベアトリスを宝石にしたのだと肯定してくれた。
まるで同じような人物を他にも知っているかのような説得力のある言葉は、ベアトリスの胸を優しく打った。
その彼女の慶事を、祝えないような自分にはなりたくない。
「大変喜ばしいことですわ。リートベルクは国防の要。たぐいまれなる武門の血を継ぐ方が増えるのは、王国にとっても歓迎すべきことです」
「何を……きれいごとを!」
国王フランツも同じように言っていたことが頭によぎり、アーレンブルク公爵はわなわなと両肩を震わせた。
「黙れ! 私に口答えするな!」
ベアトリスは自分の野望を叶える道具として、徹底的に従順に
「この恩知らずが! いったい誰のおかげで王太子妃になれたと思っている!?」
腹立ちまぎれに振りあげた公爵の手は、空中で止まった。アレクシアに止められたのだ。
「き、貴様、なぜここに!? 何をする!?」
アーレンブルク公爵はもがいたが、どんなに力を込めてもアレクシアを振りほどくことはできなかった。逃げられないどころか、つかまれた手を動かすことすらままならない。
「こちらのセリフです。妃殿下への暴力行為は、公爵であっても許されないかと思いますが」
「ぼ、暴力ではない! これは
アレクシアがぱっと手を離すと、公爵はバランスを崩してよろめいた。
腰を半分抜かしたようだが、床にへたり込むのは避けたかったらしく、必死で足を踏ん張りながら近くの椅子にすがりつく。
「貴様、自分が何をしているのかわかっているのか!? この私にたてつくとあらば、貴様など──」
叫んだ口の真横をかすめて、ガンっと破裂音が響いた。公爵の座った木製の椅子の背もたれに、拳と同じ大きさの穴が空く。
アレクシアは椅子の背板を突き破ったまま、涼しい顔で言った。
「失礼。虫がいましたので」
「ふっ、ふざけるな! こんなことをしてただで済むと──」
アーレンブルク公爵の言葉は続かなかった。
アレクシアが空けた穴をつかんで、椅子を片手で持ち上げたのだ。
まっすぐ垂直に持ち上がったのと、左右のひじかけに必死にしがみついていたおかげで、公爵は落下はしなかったが、椅子の背にはぴしぴしと
「やはり虫が巣食っているようですね」
「あ……ああ……そうだな……虫食いがひどいな……」
椅子ごと空中に浮きながら、アーレンブルク公爵は冷や汗を垂らした。
そういえば、あののほほんとした
「……き、今日のところはこれくらいにしておいてやるか……」
「ええ。お気を付けてお帰りを」
アレクシアがゆっくりと椅子を下ろすと、アーレンブルク公爵は
待ちかまえていた侍女たちががっちりと周囲を固めて、公爵を丁重に出口まで案内していく。
アレクシアは筆頭侍女らしい女性に話しかけた。
「妃の住まう館には王族以外の男性は原則として立ち入れないはず。今一度規則を見直し、徹底するよう、使用人全員に周知されてはいかがでしょうか?」
「はい。かしこまりました」
侍女は丁重にうなずいた。
アーレンブルク公爵の有無を言わせない強引さと、父親に逆らえないベアトリスの気弱さで、これまでなしくずしに言いなりになってきたが、今後は規則を盾に接近を禁止してもいいだろう。
いくら実の父でも、あれではベアトリスの害にしかならないのだから。
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