第31話 王太子妃ベアトリス
「お呼び立てして申し訳ありません。リートベルク辺境伯令嬢」
ゆるやかに流れる栗色の髪をなびかせて、若い王太子妃は
広大な森の広がる後宮の一角。王太子妃のための館は、王妃のための館よりも一回り小さく作られている。
小ぶりだが
ベアトリス・クララ・ペルレブルク。
結婚前の姓はアーレンブルク。あのアーレンブルク公爵の娘である。
「こちらからお目通りを願ったにも関わらず、令嬢にはわざわざご足労をおかけしてしまって……」
「お気遣いありがとうございます。王太子妃殿下」
ベアトリスは自分の方から出向きたいと言ったが、侍従に止められたそうだ。
上位の者の要望だとしても、下位の者が馳せ参じるのは当然のことなのだが、ベアトリスは心苦しく思っているらしい。膝の前に手を重ねて、もう一度アレクシアに詫びた。
「辺境伯令嬢にお詫び申し上げます。御前会議の場で、父があなたに失礼なことを言ったと聞きました」
そう言われれば、アーレンブルク公爵からは会って早々、女に議題など理解できんだとか、女が使える武器など体くらいしかないだとか、枚挙にいとまがないほどの失言をぶつけられていたのだった。
「いえ。王太子妃殿下が謝罪されることは何もありません」
アレクシアは黒いかぶりを振った。
アーレンブルク公爵の暴言は右から左に流していたし、唯一聞き捨てならなかったのはルカを蔑んだ言葉だけだ。
その発言も公爵本人の人間性は疑うが、娘のベアトリスには何の責任もない。
「私は昔から野蛮だ粗野だと言われることが多いのですが、気に病んだことは一度もありません。ましてやアーレンブルク公爵の発言の責任はご本人に帰属するもの。妃殿下が詫びられる必要はありません」
アレクシアがきっぱりと告げると、ベアトリスは衝撃を受けた顔をした。
アレクシアの立ち居ふるまいは凛然としていて、揺らぎがない。
悪評を気にしたことがない、という彼女の言は虚勢でも強がりでもなく、真実なのだろうと思わせる説得力に満ちていた。
「……辺境伯令嬢は……お強くていらっしゃるのですね……」
ベアトリスは唇をきゅっと噛みしめた。
「私にも……あなたのような強さがあれば……」
柔らかな栗色の髪がうなだれるのを見つめながら、アレクシアは怪訝そうに眉をひそめた。
「……アーレンブルク公爵は……王太子妃殿下にもあんな物言いをされるのですか?」
アーレンブルク公爵は大望を抱いて気が
リートベルクに出兵を求めながらも、請い
今後を考えて、初めから上下関係を明確にしようとの意図もあっただろうが、そもそも人に
他家の令嬢であるアレクシアに対して、女というだけであれほどあからさまに侮蔑を隠さなかった公爵は、自分の娘に対してはどうなのだろうか?
他人には厳しくても、我が子には甘いのか。
それとも――変わらず尊大で横柄な態度で、実の娘にも当たり散らしてきたのか。
その疑問は、目の前のベアトリスの震えるきゃしゃな肩から、語らずともわかるような気がした。
「……それは……私が悪いのです」
ベアトリスはおずおずと視線をさまよわせた。
「私がいけないのです。お父様の期待に応えられないから……お父様はいらだっておられるのです……」
ベアトリスは王太子エドガーに嫁いで三年目になるが、まだ身ごもったことがない。
外孫を
「妃殿下は何も悪くなどありません」
医学的なことはアレクシアにはわからないが、過度のプレッシャーは身体にも障るのではないだろうか。
アーレンブルク公爵が圧をかければかけるほど、ベアトリスには過大なストレスがかかり、逆効果になっているのではないかと推測しつつ、アレクシアは問いかけた。
「王太子妃殿下。どうして私に詫びようと思ってくださったのですか?」
「えっ……」
ベアトリスはおそらく側近の口から、御前会議での父の言動を聞かされたのだろう。そして父親がアレクシアに対して暴言を吐いたことを知った。
だが、それでなぜベアトリス自身が詫びようなどと思ったのだろう。
公爵に謝罪を促しても聞き入れなかったことは想像はつくが、だから言ってベアトリス自身が動く必要などない。
アレクシアは辺境伯の令嬢。王太子妃に比べればずっと身分は低い。ベアトリスがわざわざ頭を下げるには値しない相手なのだ。
アレクシアはベアトリスのおびえる瞳を、真っ向から見すえた。
「私に申し訳ないと思われたのは、妃殿下ご自身が傷ついたからなのではありませんか?」
アーレンブルク公爵の頭ごなしの
だから同じように罵倒された令嬢を見逃せなかった。いてもたってもいられずに、せめて自分の口から謝意を示したいと願った。
「妃殿下は私が傷ついたと思ったから、
ベアトリスは人格や尊厳を否定される辛さを知っていたからこそ、黙殺できなかったのだ。
目下の者に対してすまなく思い、思うだけでなく実際に行動に移せる権力者が、どれほどいることだろう。
「謝罪することは勇気のいる行動です。相手が格下の者であればなおさらです。ご自分の落ち度ではないことにも心を寄せ、私を思いやってくださった……妃殿下は本当にお優しい方です」
ベアトリスの驚く姿に重なって、アレクシアの脳裏に思い浮かぶ顔がある。
ルカの顔だ。
ルカもまた高圧的な親の元で育った。彼の継母は自己中心的を極めたような破綻した性格で、長年に渡ってルカを虐げてきたのだ。
だが、彼は
まるで蓮が泥の中から美しい花を咲かせるように。真珠が冷たい海の中でこそ本物の輝きをはぐくむように。
愛され守られて屈託なく育つことよりも、理不尽な苦難の中で他者への思いやりを失わずに育つことの方が、ずっと立派で尊いのだとアレクシアは知っている。
そんな夫だからこそ、誰よりも愛している。
「アーレンブルク公爵のあのご様子では、妃殿下はさぞお辛い思いをされてきたこととお察します。ですが、その経験は妃殿下を苦しめただけでなく、人の痛みのわかるお優しい方にしたのではないでしょうか。──原石が磨かれて、宝石になるように」
ベアトリスは言葉を詰まらせた。
「……」
長いまつ毛がゆっくりとまばたき、目頭のふちに花の露のような涙が浮かんだ時だった。
「ベアトリス! いるのだろう!? 早く来い!」
濁っただみ声が、館の空気を汚して響きわたった。
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