第38話 気付いたこと
「……マリーが言っていたのだが、女は妊娠中にされたことを忘れないそうだ」
マリーたち経産婦によると、残念ながら世間の夫は、妊婦の体調を気遣ってくれるとは限らないらしい。
マリーの夫は優しい男だったが、察する能力は低かったという。
娘のリリーを妊娠中、まだ幼い息子のエミールを放っておくこともできず、つわりに耐えながら世話をするマリーの横で、夫が二日酔いでいつまでも寝過ごしていた時は、殺意を覚えずにはいられなかったとか。
「殺意……? あのマリーさんが……!?」
普段の穏やかなマリーからは想像できなくて、ルカは恐れおののいた。
さらに、ようやく起きてきた夫の言い訳が「でもつわりは病気じゃないし……」だったそうで、堪忍袋の緒が切れたマリーは「ええ、病気じゃないわ! だから効く薬もなくて、辛くても耐えるしかないのよ!」と怒鳴った。人生で一番の大声だったそうだ。
「二日酔いの方がよほど病気じゃないでしょうに! まったく誰の子を育てていると思っていたのやら……!」
何年も経った今でも、マリーは当時の感情を克明に記憶していて、いつでも思い出して怒れるというのだから、産前産後の恨みは恐ろしい。
「確かに、二人の子だというのに他人事のような顔をされたら腹が立つな」
アレクシアもそう共感していて、自分はくれぐれも気を付けようと、ルカは改めて肝に銘じたのだった。
「僕にできることは何でもする。どんなことでもするから!」
その誓い通り、ルカは精力的に奔走した。
アレクシアが赴くはずだった視察の代理を務め、丁寧な記録を取って共有してくれる。おかげでベッドにいながらにしてアレクシアは現地の状況を把握することができたし、適宜指示を出すこともできた。
辺境伯家に仕える家臣や、携わっている事業の関係者とも、ルカはこれまで以上に深く関わる機会が多くなった。
意図したわけではないが「辺境伯ヴィクトルの義理の息子でアレクシアの夫」の実質的な披露目になったとも言える。
どんなに忙殺されても、毎日必ずアレクシアを見舞うことも忘れない。
不自由なことも多い日々だが、夫婦でゆっくり語り合う時間はむしろ増えた。
「少し腹が出てきた気がする。触ってみるか?」
「いいの?!」
ルカは二つ返事で身を乗り出した。
アレクシアを背後から抱きしめる形で、そっと両手を回す。以前よりも腹部がせり出してきたのが、服ごしにもはっきりとわかった。
「う……わぁ……!」
胎内で小さな命が躍動している感触がする。する気がする。すると思いたい。
(し、幸せ~~~!!!)
愛する人が自分の子供を宿してくれているなんて、言葉にできないほど幸せすぎる。
アレクシアに恋い焦がれ続けた片想いの日々を振り返れば、結婚できたことが改めて奇跡だと感じられるし、そんな相手を妊娠させたのだと思うと興奮のあまり血を噴いて死にそうになる。
ルカが感動にうち震えていると、アレクシアはそっと頭をもたれて寄りかかった。
「こんなに長い間寝込むのは、初めての経験なのだが……いろいろなことを考えた……」
予期していなかった体調不良の日々は、自分を振り返るきっかけを与えてくれた。
アレクシアは生まれつき人より頑丈で、これまで大きな怪我や病気に苦しんだ経験がなかった。健康で五体満足で体力気力にあふれた状態を、当然のように思って過ごしていた。
けれど、思いがけずつわりに苦しめられて、よくわかった。
人間は生きていれば自分の意志に関係なく、どうしようもない体の不調に悩まされることがある──ということを。
望むと望まないとに関わらず、誰でも病み
「つわりは辛いが、あってよかったと思っている。そうでなくては他者の痛みも苦しみもわからず、傲慢になるところだった」
苦痛を知ったことは無駄ではない。おかげでより周囲への想像力を持つことができた。
人は自分が体験しない悩みに対して、悪気はなくても鈍感になりやすい生き物なのだ。
女性には月のものがあるが、これも個人差が大きい。ほとんど痛みのない者もいれば、重い腹痛や貧血で毎月寝込む者もいるのだが、症状の軽い人間は重い人間をしばしば侮る傾向がある。
「自分は平気でも他人は違うこともあるし、その自分さえいつ逆の立場になるかわからないのだと、心に留めなくてはならないな……」
アレクシアの母ルイーゼは病弱な体質だった。母が病に臥せる姿を見て育ったアレクシアは、健康なのは当たり前ではないと知っているつもりだった。
だから他人が休んでいても怠惰だとか努力不足だとか思ったことはないが、自分自身に関しては、あり余る体力を過信していたところがある。
けれどこうした体調不良が誰にでも、人生のどこかで降りかかってくるものだとしたら、いっそ堂々と休むことも大切なのかもしれない。
必要な時は助けてもらえばいいし、負担してくれた者への感謝を忘れないようにすればいい。また動けるようになったら、今度は自分が誰かを助ける側に回ればいい。
そうやって人は助け合いながら生きている。それを理解せずに自己責任だとか管理不足だとか責める行為は、いずれ自分の首を絞めるだけなのだ。
「いつも通りに動けないのは心苦しいが……他人に任せることを必要以上に申し訳なく思わなくてもいいのかもしれないな」
「そうだよ! 僕にはいくら回してもらってもかまわないし、エヴァルトさんもむしろ喜んでいたよ?」
執事のエヴァルトは普段よりも仕事を多く割り振られて、困るどころかかえって歓喜していた。
エヴァルトいわく「モニカさんとの接点が増えて嬉しいです!」らしい。
モニカに想いを寄せるエヴァルトは、以前「仕事の話ならできるのに雑談ができない」と悩んでいたのだが、モニカと関わる時間が増えたことで、最近は念願の雑談も少しずつこなせるようになってきたようだ。
「モニカさんも嫌ではないみたい。エヴァルトさんとは仕事がしやすいし、強引ではないから安心できるって言ってたよ」
モニカはエヴァルトのプロポーズに応えるかどうかは思案中のようだが、熱心ではあっても紳士的なエヴァルトに、悪い感情は持っていないとのこと。
エヴァルトの恋が叶う日も、遠くはないかもしれない。
二人は顔を見合わせて、ふふっと笑った。
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