第29話 眠気の正体
異常なほどの眠気に襲われながら、リートベルク家のタウンハウスに帰り着く。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
にこやかにアレクシアを出迎えたのはモニカだった。
モニカは読んでいた経営学の専門書を置いて、着替えを手伝ってくれる。察しのいい彼女はアレクシアの顔色を見ただけで、疲労が溜まっていることを察してくれた。
「あらあら。お疲れのご様子でいらっしゃいますね」
「うん。アーレンブルク公は想像以上に話を聞かないな……」
「まぁ、大変ですこと」
モニカと軽く話をするうちに疲れはましになったが、眠気と倦怠感はひどくなる一方だ。
早めに休むと告げると、モニカは寝酒にと少量のワインを注いでくれた。
「どうぞ、お嬢様。眠りが深くなるといいのですが」
「ありがとう」
礼を言って受け取ったものの、喉に流し込んだワインは妙に苦くて渋い。
(……不味い)
モニカが用意してくれたのは、リートベルクでもよく飲まれているなじみのある銘柄だ。保存状態が悪いとも思えないのだが、なぜこんなに美味しくないのだろう。
アレクシアがこめかみを押さえて顔をしかめると、モニカが首をかしげた。
「いかがなさいました?」
「いや……疲れているのかな……」
喉や胸にもたれるような重さを感じる。ワインのせいではない。会議の途中からずっと感じていた不快感と同じものだ。
波のように押し寄せる眠気に襲われて、アレクシアがごしごしと目をこすると、まだワインが半分残ったグラスがすっと浮いた。モニカが横から取り上げたのだ。
「モニカ? 飲まないとは言っていな……」
「いいえ。これは没収です」
モニカははっきりと言い、メイドに声をかけた。
「お嬢様。すぐに医師を呼びます。診察を受けてくださいませ」
「いや、そこまでしなくていい」
「何もなければそれでいいのです。いいから言う通りになさってください!」
有無を言わせない迫力で言い切られて、アレクシアはたじろいだ。
「そんなに心配することはないのだが……」
眠いし
やがてモニカが往診に呼んだ医者が到着した。中年の女医だった。
女性医師は男性医師に比べて数が少ないのだが、王都育ちのモニカには
女医はアレクシアを寝台に寝かせると、てきぱきと問診や触診をした。額に触れて眉をひそめる。
「微熱がおありですね」
「そうか?」
会議に気を取られていたからか自覚はなかったが、言われてみれば心なしか体が熱い。
「胸焼けのような不快感もあるようですが、聴診器を使用してもよろしいですか?」
「ああ」
アレクシアが了承すると、女医は黒い往診用の
体の内部の音を聴いて、健康状態を診察する方法は従来から行われている。
昔は医師が直接患者の皮膚に耳を当てて、異音がないかを確認していたらしいが、やがて紙を筒状にして、
その後、患部に当てる部分を平らに設計したり、素材に象牙を使用したりと改良が加えられてきたのだが、女医が取り出したのはそれとは違う、見慣れない形をした器具だった。
「これが聴診器なのか?」
「はい。テュルキス王国から輸入したばかりのものです。あちらは本当に技術が進んでいますね」
女医が手にしている最新の聴診器は、集音部分とつながった管が二つに分岐した構造をしていた。先端は耳孔にぴったり合う形をしていて、片耳ではなく両方の耳にはめて使うのだという。
「従来のものよりもずっと鮮明に心音が聴こえるのですよ。とても役に立っています」
女医はアレクシアの胸部から下るように、丁寧に体内の音を拾っていく。腹部に集音部分を当てたまま、しばらく耳を澄ませていたが、やがて顔を上げて尋ねた。
「お嬢様。失礼ですが、最後に月のものがあったのはいつですか?」
「最後に……?」
もともと不順なこともあり気にしていなかったが、言われてみればこのところ月の障りが来ていない……気がする。
「そういえば………」
一、二、と指を折って数えたあたりで、アレクシアにも察しがついた。
「まさか……?」
「はい。おそらく」
女医は背筋を正し、膝の上に折り目正しく手を重ねた。
「ご懐妊かと思われます。おめでとうございます」
「……懐妊?」
アレクシアの青の瞳が、これ以上は開けないほど大きく
「私が……?」
女医は脅すわけではないが、今は流産しやすい時期でもあることを言い添える。とにかく今後は体を冷やさないよう、無茶は厳禁だと強く戒めた。
「ゆめゆめご油断なさらず、慎重すぎるほど慎重にお過ごしくださいね。何かありましたらまた参りますので、いつでもお呼びください」
女医はそう告げ、モニカに見送られて屋敷を後にした。
「お嬢様……!」
足早に部屋に戻ってきたモニカは、組んだ手を小刻みに震わせながらアレクシアを見上げた。
「モニカ……」
まだ茫然自失としていたアレクシアは、はっと思い返す。
リートベルクを出立する直前。エヴァルトに求婚されたモニカは、自分は子供ができない体質だろうと言っていた。それもあって元夫とは離縁し、もう誰とも結婚する気はないのだとも。
「……モニカ――」
「おめでとうございます、お嬢様。こんなに喜ばしいことはありません!」
モニカは顔をくしゃくしゃにして、満面の笑みを浮かべた。
「早くリートベルクに戻って、ルカ様に知らせてさしあげたいですわ!」
さぞ大喜びするであろうルカの顔が目に浮かぶ。モニカは昂奮を抑えきれない様子ではしゃいだ。
「ルカ様はどんなにか喜ばれることでしょう。泣いてしまわれるかもしれませんわね……」
そう言うモニカこそ、目元に涙がうっすらと浮かんでいる。
「そうだな……」
モニカの祝福に包まれて、実感のようなものがはじめて湧いてくる。アレクシアは愛おしそうに腹部をさすった。
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