第26話 出立

 海千山千の上位貴族の相手は骨が折れるはずだ。ヴィクトルはあっさりと「断ってこい」と命じたが、一筋縄ではいかないことは予想がつく。


 アレクシアを鼓舞するように、ルカは添えた手に力を込めた。


「愛してる、アレクシア。僕は何があっても君の味方だよ」


 抱き寄せた腕の中に、世界で一番好きな人がいる。


 この感触が、ぬくもりが、幸せというものなのだろうと深く実感した。


「うん、知っている」


 アレクシアも微笑する。


 領地経営に悩みは尽きないし、我の強い上位貴族と渡り合うのも面倒だが、絶対的な一番の味方がいてくれることは心強い。


「ルカは私を愛してくれている。だから私も、それに恥じずにいたい」

「……!」


 揺らぎのない青いまなざしが、まっすぐに突き刺さる。


 致死量のまぶしさに、ルカは震えながら顔を覆った。

 

「……結婚して……!」

「もうしている」


 アレクシアに片思いをしていた頃。これ以上好きになるのは無理だと思っていたが、そんなことはなかった。


 結婚してからの方が、もっと彼女を好きになった。


 一緒にいられることが何よりも嬉しくて、無限に幸せを感じられる。彼女が自分の愛を疑わずに信じていてくれることが、泣きたくなるほど誇らしくなる。


 ルカが心のしっぽを盛大に振っていると、アレクシアは背後を振り返った。 


「……モニカは遅いな」

「そうだね。どうしたんだろう?」


 今回の王都行きには数人の従者が同行する予定になっているが、そのうちの一人がモニカだ。


 モニカはルカに従ってこのリートベルクに移住してきた女性だ。出身も王都で、長く城下で暮らしていたため、アレクシアよりもよほど都会に詳しい。


 モニカの実家は今も王都にあるので、滞在中に家族と会う時間を設けることもできるだろう。彼女は学識に優れ、教養も一通りのマナーも申し分なく身に付いているので、メイドのかわりも担うことができる。


 そんなわけで今回、同行するメンバーの一人に選ばれた……のだが、まだ姿が見えない。


「モニカが約束の時間に遅れるなどめずらしいな」

「うん、モニカさんはいつもしっかりしているのに……何かあったのかな?」


 ルカが首をかしげた時。風もないのに葉擦れの音がした。


 アレクシアは植栽の向こうに視線をやって、指を口元に当てる。

 

「どうしたの?」

「しっ……」


 植栽の影から反対側をうかがうと、男女が一対一で向かい合っていた。


「モニカさん……それに、エヴァルトさん……?」


 女の方はモニカ。旅装束をまとい、四角い旅行カバンを近くに置いて、とまどいがちな表情で立ちすくんでいる。


 男の方は執事のエヴァルト。その場に片膝をつき、黒いベストの胸に手を当てている。

 

「モニカさん、どうか私と結婚してください!」


 エヴァルトは眼鏡のレンズごしに、モニカをまっすぐに見上げた。


「あなたほど聡明な女性には、これまで出会ったことがありません。あなたは私の理想……いえ、理想以上です!」


 モニカはたじたじと後ずさりながら、顔の前で手を振った。


「わ、私はエヴァルトさんよりも年上ですし……」

「それが何か? うちのお嬢様だってルカ様より年上ですが」

「なぜ私を引き合いに出すんだあいつは……」


 アレクシアがぼやいたが、プロポーズ真っ最中の二人には聞こえていない。


「エヴァルトさんは優秀な方です。私などではなく、もっと若くて綺麗な女性がふさわしいはずですわ」

「年齢などただの数字ですし、私にとってあなたより綺麗な女性など存在しません」

「わかるぅ……!」


 ルカは両手で口元を押さえて、真横のアレクシアを凝視した。

 

 恋をした男にとって、相手より美しい女性などこの世にいない。他にどんな美女がいようと、比較にはならないのだ。


「あなたの豊かな知識、柔軟な発想、常に周囲を気遣う謙虚で美しい心……すべてを尊敬し、愛しています」

 

 エヴァルトは真剣に告白したが、モニカは表情を曇らせてうつむいた。モニカには離婚歴があるのだ。

 

「……私は……もう誰とも結婚するつもりはありません」


 エヴァルトはこの世の終わりのような顔をしたが、モニカは「エヴァルトさんが悪いのではありません」とかぶりを振った。


「私は子供ができない体質なのです。前の夫と結婚していた時は何年経っても妊娠しませんでした……」


 モニカの前夫は優しい男だった。結婚前は。


 モニカがヴァルテン男爵家に雇用された時は称賛してくれ、仕事を続けられるよう応援すると言ってくれた……のだが、結婚生活に慣れた頃から、夫は徐々に横柄になっていった。


 女のくせにいつまでも仕事を続けるなんて自分が甲斐性なしだと思われる──と愚痴を言ったり。

 ちょっと成金男爵家に雇われているくらいで調子に乗るな──と怒ったり。

 子供ができないのはモニカが仕事をしているせいだ──と決めつけたり。


 モニカが夫よりもはるかに高い収入を得ていたことも、彼のプライドを傷つけていたようだった。


 仕事を辞めて家庭に入れと迫る夫には、せっかく男爵家でやりがいのある業務を任せてもらっているのだと、いくら説いても通じなかった。


 夫の両親も夫と同じ考えだった。

 結婚した当初は頭脳明晰で素晴らしい女性だと褒めてくれていたのに、三年が経つ頃には手のひらを返したように、子供も産めない嫁は去れと非難し始めた。


 そのタイミングでたまたま、ルカが男爵家をたたんで辺境のリートベルクに移住するとの話が舞い込み、モニカは心を決めた。


 夫と別れ、心機一転、新天地で仕事に生きようと。


「夫は私が離縁を申し出たことに驚いていましたが、揉めることなく同意してくれました。おそらくもう新しい女がいたのだと思います。彼は……私といると自分は一生子供を持てないからと言」

「なんて馬鹿な男だ!」


 エヴァルトは耐えきれずに言葉をさえぎって、愕然とした。


「この世に存在することが信じられないほど愚かな男ですが、あなたを手放してくれたことだけは良かった。そんな男のことはどうか忘れてください」


 エヴァルトは熱く語った。


 自分はモニカの有能な働きぶりにこそ惚れ込んだこと。だから仕事を辞めてほしいなどとは、モニカ自身が望まない限り絶対に言わないこと。むしろ全力で彼女を支えたいと願っている、ということを。


「それに私は子供が欲しいから結婚したいと言っているのではありません。あなたのことが好きだから言っているのです。あなたと生きていけるのなら、他には何も望みません」


 エヴァルトがきっぱりと言いきった時だった。


 先ほどから唸っていたつむじ風が、ひときわ強く吹いた。ルカとアレクシアの姿を隠していた植栽も風に揺られて大きくかしぐ。


「お嬢様!?」

「ルカ様!?」


 エヴァルトが眼鏡のフレームを押さえながら、つかつかと歩み寄ってくる。逆光で表情が見えない。怖い。


「……いつから聞いていらしたのですか?」

「そんなには聞いてない。少しだけだ。おまえがひざまずいてプロポーズしたあたりから……」

「ほぼ全部ではないですか!」

 

 アレクシアの返答にエヴァルトが声を張り上げると、モニカがおずおずと問いかけた。


「あの……エヴァルトさん、本当に私でいいのですか?」

「違います。モニカさんでいいのではありません。モニカさんがいいんです」


 エヴァルトはきっぱりと言った。すぐに答えをくれとは言わないが、自分は真剣だということを重ねて告げる。 


 モニカが少し考えてみることを約束してから、王都へと向かう馬車はようやく出立の時を迎えた。


「お嬢様! モニカさんをくれぐれもよろしくお願いします! 何があってもしっかり守ってくださいね!!」

「逆です逆! 私がお嬢様にお仕えするのです!」


 エヴァルトが叫び、モニカがあわてて否定する。


 男たちがいつまでも名残惜しそうに見送る中。

 女たちを乗せた馬車は、葡萄畑が連綿に続く丘陵をゆるやかに下っていった。

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