第2話 夫婦の共同作業

 ゆるやかな傾斜を帯びた丘陵地は一面、見渡す限りに葡萄ぶどうを植えた畑が広がっていた。

 

 葡萄畑はどこも川の近く、斜面を利用して作られる。この川の流れが葡萄を豊かに育てるのだ。 


 休眠期である冬を乗り越えたこの時期、葡萄の木はぐんぐんと成長し、どんどんと枝を伸ばしている。


「立派な農園だな……」


 丘を埋め尽くして広がる葡萄の木を見わたしながら、アレクシアが言った。

 

 藁を編んだ帽子に質素な革の靴。葡萄畑で働く農夫たちと同じ地味な色のトラウザーズ。化粧っけもなければアクセサリーの一つも見当たらない、完全なる作業着姿だ。


「うん。見事な畑だね」


 弾んだ声で答えるルカも、似たりよったりの素朴な作業服に身を包んでいた。


 新婚夫婦の共同作業といえば、もちろん農作業である。農作業以外ありえない。異論は認めない。


 アレクシアが「夜は長いからな」と言ったのもこれである。


 時刻は日の出前。あたりはまだ薄暗い。


 早朝から始まる農作業に従事するため、二人は夜を徹して馬を駆り、広大な果樹園の広がるこの村までやってきたのだ。他意は何もない。泣いてなんかいない。


「グルナート製の農耕具を導入して半年になる。実際の反応を見たいからな」


 昨年の夏、アレクシアは農業大国として知られる隣国グルナートで開発されている最新の農耕具の存在を知った。


 その後、父の辺境伯の承認を得て手配し、領地内の各農園に支給。


 各所に行き渡ったのを見届けたアレクシアは、農民の役に立っているか直接自分の目で見たい、自分の手で使い心地を確認したいと言い出した。


 訪れたのはリートベルク辺境伯領でも最西端にあたる小さな農村。二人の暮らす城からはかなり距離がある。


 村人たちは辺境伯の一人娘であるアレクシアの存在や、最近結婚したことはもちろん知っているだろうが、城下で行われた二人の結婚式までははるばる見に来ていないだろう。顔は割れていないはずだ。


「楽しみだな、ルカ」

「うん!」


 目を輝かせながら麻のシャツの袖をたくし上げるアレクシアに、ルカも腕まくりしつつ答える。

 

 軽率に民間に潜入する貴族などそうそういないのだが、彼女のそんなところも好きなので異論はない。自分も同行させてもらえるのだから尚更だ。


(どんな格好でも綺麗……! 好き……!)


 ルカはアレクシアの洗練された華やかなドレス姿も、花嫁衣装すら見たことがあるのに、質素で素朴で地味な作業着姿にも、変わらず胸がときめいた。


 こちらの格好の方が彼女が心底楽しそうだからだろうか。アレクシアが生き生きしていると、ルカまでとても嬉しくなる。


「今日はよろしくお願いします!」


 農園の主人にルカが明るく挨拶するとと、小太りでちょび髭を生やした主人は感心したように帽子を脱いだ。


「お……おお。こちらこそよろしく頼むな」


 農園主は二人をまじまじと見比べた。


「こりゃあ……可愛い兄ちゃんと格好いい姉ちゃんだなぁ……」


 一人はにこにこふわふわきらきらとした青年。もう一人はやたらに迫力と威厳のある長身の女性。


 二人とも服装は地味だが、中身は全然地味ではない。

 

「王都から休暇を利用して観光に来た二人組で、農園の仕事を体験してみたいと希望している。報酬は要らないから使ってやってほしい」という触れ込みだったが──もっともこれは城の執事のエヴァルトが用意した適当な肩書きなのだが──それにしてはずいぶんと華のある、目立つ二人だ。


「じゃ、じゃあまずは芽かきから……」

「はい! 何でも言ってください!」


 農園主が案内した畑では、新梢と呼ばれる新しい芽が続々と生えていた。


 この新梢しんしょうが葉を茂らせ、実をつけて、今期のシーズンの葡萄に育つのだ。


 展葉期と呼ばれる今の時期に行う作業は「芽かき」「せん定」そして「誘引」である。


 「芽かき」は余分な芽を取り除き、樹木の中に養分を残して、やがて実る葡萄の房を均一にするための作業。


 「剪定」は適切な数に間引いた芽以外の枝などを切り落とし、全体をバランスよく育てるための作業。


 そして「誘引」は新梢を支柱に結びつけたりして固定し、どの枝にもまんべんなく太陽の光が当たるように調整する作業だ。


 いずれも葡萄の栽培において欠かせない重要な作業である。


「こうですか?」

「お、おお……すごいな」


 可愛い顔をした青年は、一を聞いて十を知るタイプらしい。


 葡萄畑での農作業は初めてらしいが、たった一度説明しただけで、的確に芽を除いたり器用に枝を切り落としている。

 

 一方、凛々しい雰囲気をした女性は、見た目以上に男らしかった。


 芽かきや剪定、誘引の作業のかたわら、土壌を耕す作業も同時に行う。冬の間に冷えて固くなった土にくわを入れて、土をほぐすのだ。


 アレクシアが鍬を手に取ったのを見て、農園主は首をかしげた。


「そいつは若い姉ちゃんには重いだろう? 村で女たちが炊き出しの支度をしているから、そっちを手伝ってもらっても……」

「いや、大丈夫だ」


 アレクシアは鉄製の鍬の中でも一番重量のある一本を手に取り、軽々と振り下ろした。固い土は卵を割るようにたやすくえぐられ、みるみるほぐれて柔らかくなっていく。


「す……すごいな!」


 農園主は感嘆した。からすきを曳く馬や牛よりも力が強いかもしれない。


「この農具は使いやすいな」

「あ、ああ。そうだろう。旦那様が支給してくださったんだ」


 領主である辺境伯が手配して取り寄せた耕耘のための器具類は、旧来のものより丈夫で掘削力も強い。


「外国製だって話だけどな。使い勝手もいいし手入れもしやすくて、重宝しているよ」

「そうか。良かった」

 

 作業の効率も上がり、助かっているのだと話す農園主に、アレクシアは柔らかく頬をゆるめた。


「おお、いい土だ。今年の葡萄はきっといい出来になるな」


 一通り耕耘し終えた後、ほぐれた土を手ですくって感触を確かめながら、農園主はしみじみとつぶやいた。


「何しろ今年の冬は一段と寒かったからなぁ。冬の寒さが厳しいほど、葡萄は旨くなるものと決まってる」

「そうなのか?」

「ああ、そうだ」


 葡萄の栽培に、暖冬は適さない。高い気温の中では、葡萄は酸化してしまうのだ。傷みやすいし、腐敗も進行しやすくなる。


 だから越えた冬の気温が冷たければ冷たいほど、畑が寒ければ寒いほど、翌年に実る葡萄は甘くて上質なものになる。


「強い寒気にさらされた方が、より甘い実になる……」


 アレクシアは伸び盛りの葡萄の芽を、指で愛おしそうに撫でた。


「……まるでルカのようだな」


 いつも明るくて、朗らかで、誰にでも優しい夫。


 極寒の冷気の中で、葡萄の甘みが育ったように。

 過酷な環境の中で、彼の優しさは育ったのだ。


「え? 何か言った?」

「いや……」


 振り返ったルカが天真爛漫に尋ねる。


 アレクシアは照れたように、そっと首を振った。

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