元・末端令息ですが、最強妻と辺境で幸せに暮らします!

sana

【本編】新婚偏

第1話 サイン

 ひらり。

 軽やかに紙上にひるがえったのは、鳥の風切り羽根を使ったペン。

 

 がんの左翼、翼端に近い羽軸を削ったものだ。

 その先端をガラス製のインク瓶にまっすぐ、ゆっくり、垂直に浸す。

 

 ペン軸がしっかりとインクを吸うまで数秒待つ。それから再びまっすぐ、ゆっくり、垂直に持ち上げる。


 ペンは深く寝かせずに、紙に対して45度の角度を保つ。

 

 筆圧は強すぎず、弱すぎず。

 線は太すぎず、細すぎず。

 力は入れすぎず、抜きすぎず。

 

 最後の一文字の留めまで気を抜くことなく、誠心誠意をこめて書き上げる。


 やがて丁寧で端正な文字で綴られたサインが、紙の上に燦然と輝いた。

 ──“Luca・Victor・Liedberg"


「ふう……!」

 

 ルカは満足そうに額をぬぐった。

 

 ただ名前を書いただけなのに、やりきった感がすごい。

 

「なんていい名前なんだ……!」


『ルカ・ヴィクトル・リートベルク』はルカのフルネームである。


 この名を名乗り始めてからはまだ日が浅いのだが、長年名乗ってきた旧姓よりもよほど愛着があるし、思い入れも深い。


「特にミドルネームとファミリーネームがいい……最高!」


 この国の貴族は通常ファーストネーム・ミドルネーム・ファミリーネームの三つの名を連ねて名乗る。


 通常、いうのはごくまれに例外があるからだ。

 そしてルカこそがその「ごくまれな例外」だった。


 ルカの実家はヴァルテン男爵家。ルカは当主であった父アウグストと平民の女性との間に生まれた。


 生後すぐにヴァルテン男爵家に引き取られたルカは、実父の名をミドルネームに与えられて「ルカ・アウグスト・ヴァルテン」と名付けられた。


 しかし、その名を自分自身で名乗ったことは一度もない。


 父が正式に結婚した相手──つまりルカの継母になった女性──の意向で、ミドルネームを剥奪されてしまったからだ。


 一度付けた名を戸籍から削除するなど前代未聞。横暴の極みなのだが、継母は譲らなかったし、父のアウグストも妻の剣幕に負けてしまった。


 そんなわけで、ルカはこれまでの生涯のほとんどをミドルネームのないただの「ルカ・ヴァルテン」として生きてきた。


 これがどのくらい異端かと言えば、貴族階級においてミドルネームのない人間など他に一人もいない、と言い切っていいほどには異端なことだった。


 どんなに没落寸前の貧乏弱小貴族であろうが、それこそ平民との間にもうけた庶子であろうが、貴族の籍に入るのならばミドルネームはあって当然。


 貴族の姓を名乗りながらもミドルネームを持たない者など、ルカ以外には誰もいなかった。


 そんな経緯もあって、ルカは貴族の中でも最下級の「末端令息」と陰口を叩かれてきたのだが、それも過去の話である。


 今のルカにはミドルネームがある。


 新たな姓と新たなミドルネームを得ることが決まったのは、焦がれに焦がれ続けたルカの初恋がついに実った時だった。


 新たな姓は最愛の妻アレクシアの姓である、リートベルク辺境伯の家名。


 新たなミドルネームはアレクシアの父であり、ルカの義理の父となるヴィクトルの名。


 現辺境伯であるヴィクトルの名を、ルカの新たなミドルネームとして付けることを提案された時は、嬉しすぎて倒れるかと思った。


 そして今、誇りと喜びを噛みしめながらこの名を名乗っている。

 ──ルカ・ヴィクトル・リートベルク。


 尊敬する義父の名と同じミドルネーム。

 愛する妻と同じファミリーネーム。

 

 こんな最高の名前が他にあるだろうか。いや、ない。あるはずがない。


 我ながら世界一の名前だと、ルカは心から信じている。


 毎回毎回、ただサインをしたためるだけで深く感動してしまう。


 こよなく慕う義父の名が含まれたフルネームを綴るのが、嬉しくて楽しくて幸せで仕方ない。

  

 ルカが熱くなる胸を押さえて、幸せの余韻に浸っていた時だった。


「ずいぶん気合いが入っているな」

「アレクシア!」


 妻に声をかけられて、ルカの顔がぱっと輝いた。


 アレクシア・ルイーゼ・リートベルク。

 黒曜石を溶かしたような漆黒の髪と、青玉を思わせる凛とした双眸。


 世界一の美女だと信じてやまない愛しい妻は、たかが名前を書くだけでいちいち感極まっているルカに苦笑しながら、手続きの済んだ書類に目を落とした。


「ありがとう。もう処理してくれたのだな。ルカはいつも仕事が早くて助かる」

 

 褒められて、ルカはぱあっと顔を輝かせた。


 彼女の姿を見るだけで、心が澄んで晴れわたる。声を聴いただけで反射的に胸が躍る。尻のあたりにシッポが生えたような心地がして、それが本能的にぶんぶん高速で振られているのを感じる。


 要するに大大大好きだということだ。

 アレクシアのことが大好きだから結婚を申し込んだのだが、結婚したらもっと大好きになった。

 

「すきぃ……!」


 手を伸ばして軽く抱擁し、頬にキスで触れると、アレクシアはくすぐったそうな顔をしたが拒みはしなかった。


「お疲れ様。今日はもう終わりにしてくれ」

「もう? まだ時間もあるし、もっと片付けておこうかと……」


 辺境伯家の人間として、やるべき仕事は多岐にわたる。いくら手をかけ、時間を注いでもきりがない。


 書類や資料を精査して適切な判断を下すのは骨が折れるが、最後にフルネームをサインする作業がすべてを癒してくれるから問題ない。むしろもっともっと何度でもサインしたくて、うきうきしてしまうほどだ。


「いや。体力は温存しておけ。今夜のために」


 アレクシアは黒いかぶりを振って、じっとルカを見上げた。


「……夜は長いからな」

「うん……!」


 煽るようなまなざしに、ルカの喉がごくりと鳴る。


 新婚ほやほやの二人は今夜から、夫婦の初めての共同作業に挑むのだ。

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