回想一

 生きる理由とはなんだろうか。まだ六月というのに降り注ぐ強い日差しを汗ばんだ肌で受け止めながら、私は考える。人生を楽しむためとかだろうか。世界を廻すためとかだろうか。それとも、生まれてしまったことがもはや生きる理由なのか。あんまり大層なものじゃないといいな。そう思いながら私は見慣れたアスファルトを辿る。無意味。無価値。無意義。私のこれまでの人生を小説にしたら、白紙で始まり白紙で終わりそう。それが私の人生。これからもそうなると思う。用意された日常を、ただ繰り返すだけ。満足ではないが、刺激がほしいわけではない。めんどくさい。強いて言うなら生きていたくない。残念ながら貴方の手に取った小説の主人公はつまらないです。私が小説になったら最初にこう警告してやろうと思う。靴で地面を規則的に叩きながら私は今日も日常を繰り返す。駅のホームにまもなく着きそうだ。

 別に飛び降りるつもりは全くなかった。そう断言すると嘘になるけど、まだ「今死ぬか今度死ぬか、それともせいぜい最後まで投げださずがんばるか」を決めあぐねていたくらいの段階であって、だからその青年が愚かにも線路を眺めていた私の肩を引いて、さらに愚かにも「早まってはいけないよ」と優しそうな顔で忠告をしてきたのは私にとって迷惑以外何者でもなかった。

「わざわざありがとうございます。でも、余計なお世話です。むしろ貴方のせいでもっと死のうと思いました。人と関わるのは嫌いです。」

では、と言ってその場をあとにしようとする私を彼はさらに引き留めた。一体何が彼にそうさせるのか。インターネットが発達したこの時代で余計なお世話の意味を検索したこととかないのだろうか。いや、普通はそんな単語、わざわざ検索しないか。

「まあまあ。余計なお世話も、たまには役に立つもんだぜ。どう?辛いことがあるなら、なにか話聞こうか?」

「いえ。話すほどのことはないです。ここ最近でもっとも困ってることは今貴方に話しかけられていることと断言できます。私のことを思うならほっといてほしいです。」

では、と言う私にしつこく彼は話しかける。いい加減にしてほしい。悪気はないのだろうけど、いささか強すぎる正義感とか優しさというものは、はた迷惑であるということを自覚してもらいたい。私は別に人生が疲れたとか辛いとかつまらないとかそういう理由で死のうと思ったわけじゃなくて(ないわけでもないけど)、生きる理由がわからないから死んでもいいかもと思っただけで、だから相談できるようなことはなにもない。それに彼も、せっかくの日曜という休日を私なんかに使いたくないだろうに。それでも今カフェで彼の正面に座っているのは、しつこい彼に、話さないより話した方が金輪際絡まれなくなって楽かもしれないと判断したからだ。もしかしたら、その優しさがいつまでもつか試してやろう、と少し意地の悪い理由もあったかもしれない。さすがに駅ホームで話すことではなかったので、私はカフェで話すと提案した。奢るよ、と言われ遠慮をしなかったのは、そもそもわざわざカフェにくるはめになった原因が彼にあると思っていたからと、まだ財力が0に等しい中学生にとって、たかが苦いだけの飲み物に五百円は高かったからだ。注文を終えてすぐにさっさと説明する。

「生きる理由がわからなくなっただけです。」

限りなく端的に、私の本心を伝えた。窓に反射した私の顔は、さっき自殺に成功したのではないかと疑うほどに生気のない顔をしていた。

「うん?」

「だから。生きる理由がないので、別に生きている理由もないかなって思っただけです。」

「うーん、生きる理由なんてなんでも良いんだよ。君が君の好きな理由を見つければさ。そもそも、君は生きる理由がわからないって言うけど、死ぬ理由も思いつかないだろ?」

「そうですか?私は別に誰にも求められてないので、生きる理由なんてないです。死ぬ理由がなくても、どんなものも求められなければ失われていくじゃないですか。使わなくなったものって捨てる理由がなくても、取っておく理由がないから捨てるじゃないですか。まあそういうことですよ。生きる理由がないなら、死んでもいいんじゃないかなって。」

「まあまてまてまて。君のいいたいことはよくわかったけど、親御さん悲しむと思うぞ。それに、俺がいう生きる理由ってのはそんな大層なものをさしてるんじゃなくてさ、もっと個人的なものだ。例えば、俺はいま、君を説得している。それが今の俺の生きる理由だ。君に、生きる理由なんて些細なもので、瞬間的かもしれなくて、しかも個人的なものでいいのだと説くことが、俺の今生きている理由。」

どう?わかりそう?とはにかむ自慢気な彼を見ていると、もうなんか反論する気もなくなってきた。彼みたいな人だったら人生楽しいのだろうか。少なくとも私はこうはなれないだろうなと思った。運ばれてきたコーヒーを彼はブラックのまま飲む。私も強がってブラックで飲んだけど美味しくないことを再確認しただけで、あまり収穫はなかった。

「じゃあ、あなたが私に生きる理由を下さい。」

気付いたら私は彼にそんなことをお願いしていた。自分でもなぜ名前も知らない、めんどくさいとさえ思っている彼にそんなことを聞いたのかわからないけど、まあでも彼みたいな変に生真面目な人に頼むくらいがちょうどいいのかもしれない。後付けでそう思った。

「なんでもいいですよ、別に。私は私がどうこうなって悲しむ親を持っていないので。あ、死ぬ理由でもいいですよ。」

「俺?この間まで赤の他人ったんだよ?まあそうだな、生きる理由なんてきっとそこまで深いものじゃなくて、毎日を楽しもうと生きればそれでいいんだよ。」

「それは毎日を楽しもうと思ってる人にだけ伝わる考え方ですよ。」

私はここにきて少し逡巡した。今日たまたまおせっかいで話しかけてきただけのこの男性に私が生きる理由にこだわる理由を話すかどうかを。でも、五百円のお礼と、目の前にいるお人好しで優しいな男性の人懐っこい微笑みを重い話で崩してやろうという魂胆で話してみることにした。私にしては珍しく、むきになっていたかもしれない。

「私が生きる理由にこだわるのは、母がそういう人だったからです。私は父を知りません。母はいわゆる虐待をする人で、家事全般は基本私の仕事で、母の気が立っている日と何か失敗をしたときは必ず「なんのために産んだと思っているの」「あなたは私が求めているから生きているのよ」みたいな言葉と暴力を浴びせました。まあ、言ってることはめちゃくちゃでしたが、幸い下される命令自体は家事とか、あまり大したものじゃないことが多かったですし、命にかかわりそうな暴行は加えられたことがないので、そこまで致命的に困ったわけじゃなかったのですが。でも先日、母が死にまして。それで生きる理由を失くした私は困り果てていたんです。」

淡々と、ただの事実を伝えてるだけな風を装いながら私は話した。実際、私にとってそれは異常だと気づくまではただの日常だったし、異常だと気づけた頃には母はもう死んでいたから、もう今となってはただそういう過去があっただけという話ではあるんだけれど。こんな重い話をしたらさすがに尻込みして身を引いてくれるのではないか。そんな私の期待は、彼の涙によって裏切られた。

「…なんで泣いているのですか?アラサーの涙ってあんまり需要がない気がするのですが。」

「え?」

彼は自身が涙を流していることを気づいていなかったように、目元に手をあてがう。

「あぁ、ごめんよ。俺が想像してたより何倍も壮絶な環境にいたから、辛かったんだろうなって思うと涙が…」

彼はそう言いながら私の頭を優しく撫でてくれた。嫌だと言えなかったのは、人の温もりを感じたのが初めてで、思ったより幾分か温かかったからかもしれない。それにしても、なぜ彼は初めてあった名前も知らない少女の話を聞いてこんなに泣けるのだろうか。私は彼のことを改めて変な人だと思った。

「わかった。君が誰かに生きる理由を作ってほしいなら、俺が作ってあげよう。とりあえず、生きる理由を見つけるために生きるっていうのはどうかな。そうしてくれたら、君が飽きるまで毎週君とあって、生きる理由を探すのを手伝って上げられる。」

涙をぬぐった彼は、思い立ったようにそう言った。こじつけと思ったけど、もうなんでもいいやと思った。なんでもいいから生きる理由がほしかった私は、飽きるまでは彼の善意に付き合ってあげることにした。

「ありがとうございましたー」

私の話を終えた後、ちょっとばかりの雑談をしてすぐにお会計をする。店員さんの言葉に軽く会釈した彼と一緒に店をでた。あの店員さんは私たちをどういう関係だととらえただろうか。親子?年の離れた兄弟?従兄弟?まさか今日あったばかりの他人だとは想像してないだろうな。そんなことを考えながら、今日あったばかりの他人を見上げる。彼は相変わらず優しそうな顔をしていて、少し癪だった。

「来週、またこれくらいの時間に、俺この場所にいるから。ここのカフェの前に。もちろん来なくてもいいけど、まだ君が生きる理由がわからなくて、あるいはそんなのじゃなくても誰かと話したい気分とかだったら、来てくれたら俺は嬉しいな。」

「…来週までに生きる理由が思い付かなかったら仕方なく付き合ってあげます。せいぜい待ち惚けてください。」

「お、言うね。じゃ、そうさせてもらうわ。じゃあ気を付けて帰れよ。」

彼はそう言うと駅のホームに向かっていった。私も踵を返して、私を引き取ってくれている叔母の家に向かう。まだ七月ですらないのに夕暮れに泣くヒグラシに、死にたくなった。

 ようやく最寄りの公園まで来た私は、そのままベンチに腰を下ろす。時計をみると短い針はを七を指していて、その針で代わりに私を刺してくれないだろうかと思った。今帰っても叔母さんと叔父さんはまだご飯を食べてそうなので、三十分程度この公園で暇を潰すことにした。叔母さんと叔父さんは基本私に無干渉だ。母親が私にしてたことを知ってて黙認してたのが気まずいのか、私がなにも話さないのが不気味なのか、それとも無干渉なのが私にとって最善だと信じているのか。最後のだったら愚かだと思うし、同時に事実そうだからすごいと思う。まあなんでもいいのだけど。こうして住まわしてもらって、ご飯がでてくるだけありがたいので感謝は当然している。ただ、そうした理由から、同じ空間で同じ食卓を無言で囲う気まずさが尋常ではないので、最近私は二人がご飯を食べ終わってるくらいの時間を見計らってから帰るようにしていた。幸い今日は一日が少し濃かったので、公園での暇潰しは困らなかった。ブランコに腰を下ろして、今日のことを思い出す。あの変わった性格の人の顔は、人の顔を覚えられない私にしては珍しく、今でも鮮明に思い出せる。いや。顔はやっぱり思い出せないかもしれない。それでもあの、優しげな笑みは確実に記憶に残っていた。お人好しって言葉はああいう人を罵倒するためにあるんだと思う。「来週、またこれくらいの時間に、俺この場所にいるから。」彼の言葉を思い出す。きっと彼は、死ぬほど聖人か死ぬほど悪人なんだろう。できれば後者であり、来週には私を誘拐し殺してほしい。下らないことを考えていたら冷たい風が肌を撫でて、くしゃみが出る。さすがにこの時間はまだ寒い。時間もいい具合に潰せたので、そろそろいいかと家へ再び歩き始めた。家についたときにはすでに夕食の支度はすんでいて、叔父と叔母はもう食事を終えたらしくそれぞれ自分のやりたいことをやっていた。私はいただきますといってテーブルに並べられたそれを胃に詰め込む。味覚はとっくの昔に失われていたので味に特に感想は持たなかったけど、今日はカフェをご馳走になっていたこともあってお腹はいっぱいになった。ご馳走さまを告げ、私は居心地の悪いその空間を自分から切り取るようにその場を後にした。部屋に戻った私はすぐさま椅子に向かう。恐ろしいほど散らかった机の上から描き途中の小説の原稿と与えてもらったシャーペン、消しゴムを探し出す。見つかった多少シワのよった原稿は拙い文字列が家具のようにページを飾っていて、私はようやく落ち着いた家に帰ってきた気がした。私が小説を書くようになったのは随分と前だ。母は私にこれといった娯楽をなにも渡さなかったので、私は現実逃避として妄想の世界に逃げるようになった。それを物語として綴り始めたのは、自分の形を目視できるようにしたかったのか、それともあの母になにかを期待していたのか、今の私ではもう覚えていない。幸いこの娯楽は紙とペンしか必要ではなかったので私でも充実してやることができた。そうして私は、理想を描いた。美しい家族愛を謳った物語だ。今思うと随分愚かなことをしたものだ。架空の愛を求めても、惨めになるだけだった。それがわかってて、それでもまだ足りない私は未だ架空を吐き続ける。今日も、明日も、その先も。決して満たされることのない心を満たすまで。ふと、こんな私の物語の終着点はどこなのだろうかと考える。エンディングは未だに描けない。

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