第弐話 0歳とステータス

 



「あ~ぅ」


「どうしたのかしら」



 目が開かない。

 言葉を発しようとしてもできない。

 誰かがすぐそこに居て何か話しているのに、理解することができない。


 腹が空いた。

 駄目だ……上手く考えることができない。

 いったい俺の身に何が起こっているんだ。



「あ~う~」


「サイ様はお腹が空いているのでは?」


「そうね! じゃあお乳をあげなくちゃ。ほ~らサイ、いっぱい飲んで大きくなるのよ」


「んむ」



 唇に柔らかいものを押し付けられる。

 自分の意思とは関係なく反射的にそれを咥えて、ちゅぱちゅぱと音を立てて飲んでいく。


 ほのかに甘い味がする液体がどうしようもなく美味で、身体が必要に欲していた。まるでそれが、生きていく上で大切な行為であると言わんばかりに。



「まぁ、良い飲みっぷりね」


「流石は旦那様と奥様のお子様です」


「あぅ~」


「あら、沢山飲んだら眠たくなっちゃったのかしら?」



 腹が膨れる程飲むと、急激に眠気が襲ってくる。

 抱っこされている心地良さにも抗うことはできず、俺は一瞬のうちに眠ってしまった。



「赤ちゃんの寝顔ってなんて可愛いのかしら」


「天使ですね」



 ◇◆◇



「おぎゃ~! おぎゃ~!」


「どうしたのかしら。ねぇリズ、サイが急に泣き出しちゃったわ。お乳をあげようとしてもダメなの」



 寝ている時、お尻のあたりが冷たくて不快だ。

 そう感じた瞬間、目が覚めてまた同じように自分の意思とは関係なく泣き叫んでしまう。別に泣く必要なんてないのに、身体が勝手に泣く行為をしてしまう。



「奥様、サイ様はお漏らしをしてしまったのでしょう。おしめを取替えれば泣き止むと思います」


「そうだったのね。わかったわ、取替えてみる」



 優しく抱き起こされると、濡れた下着を剥ぎ取られる。

 さらに布で尻を拭かれた後、新しい下着を履かされた。

 気分が良くなった俺は、嘘のように泣き止む。



「正解だったみたいね。ありがとうリズ、助かったわ」


「いえ、私も赤ん坊の世話をする経験がありましたから」


「ふふ、それは心強いわね」



 ◇◆◇




「ねぇディル、サイが全然目を開かないの。何かの病気かしら……」


「どうだろう……苦しんだり熱があったりする訳でもないんだろう?」


「はい。身体自体は健康そのものです」



 相変わらず目は開かず、声は出せるが言葉を発せない。

 すぐ寝るし、起きたら腹が空いてしまう。腹一杯飲んだらまた眠る。

 誰かの声は聞こえるが何を言っているのかは分からず、頭も全く働かない。



「心配よ……サイに何かあったらどうしましょう」


「大丈夫さ。無事に生まれてきてくれたんだ、きっとすぐに目も開く。もう少し様子を見てみよう」


「ええ……そうね」



 訳が分からない。

 俺の身体はどうなってしまったのだろうか……。



 ◇◆◇



「あうぅ~」


「サイ様? まぁ!? 奥様、サイ様が目を開かれましたよ!」


「本当!?」



 飲んで寝るという二つの行為を十、二十と数え切れないほど繰り返していた頃、固く閉ざされていた瞼がようやく開けるようになった。



(ここは……)



 久しぶりといえばいいのかわからないが、景色を見ることができた。

 視界に入ってくる映像は、木造の天井。恐らく俺はどこかの部屋で寝ているのだろう。



(いいぞ、思考も働くようになってきた)



 目をひらけたお蔭なのか、数秒すらまともに考えることができなかったのに今は思考が働いている。

 他の景色を見ようとして視線を動かすと、どたどたと慌ただしい足音を立てながら誰かがこちらに近付いていきた。



「サイ! あ~よかったぁ……私はあなたのママよ」



 若く美しい女が嬉しそうに笑って上から覗き込んでくる。

 その女は空のような澄んだ青色の長髪で、瞳も髪と同じ色だった。鼻が高く、目も大きい。日本でこんな奇怪な女は見たことがない……まさか“南蛮人”か?



(“この女は誰だ?”)



 そんな疑問が浮かんだ瞬間、突如その女の顔の横に何かが浮かび上がってくる。



『ステータス

 名前・ミシェル=ゾウエンベルク(母親)

 種族・人間ヒューマン

 レベル・10』


(何だこれは……)



 自分でも信じられないが、このような文字が空中に羅列されているのだ。

 さらに信じられないのが、俺はその文字を見たことがない筈なのにもかかわらずどういう意味なのか何となく理解できてしまう。



「あぅ……」


「サイ? サイ! どうしたの、大丈夫!?」



 その文字を見ていたら、不意に激しい頭痛が襲ってくる。

 突然苦しみ出す俺に女が慌てて声をかけてきたり優しく頭を摩ってくれるが、痛みは全く収まらない。



「奥様、どうされました?」


「サイが急に苦しみ出したの。どうしたのかしら!?」



 くそ……もう駄目だ。

 頭痛に襲われた俺は、そのまま気を失ってしまった。



 ◇◆◇



「あぅ~」


「サイ?」


「起きられましたか、安心しましたね」


「ええ、でもまた目が開いていないわ」



 腹が減ったのか、ふと目が覚めた。

 だが、何故か目を開けることができない。理由わけを考えようにも頭が働かないし、腹が空いて仕方がない。兎に角栄養が欲しい。


 あ~う~と言葉にならない声を出して食事を求めると、恐らく南蛮人の女が俺を抱っこする。



「はいはい、お乳ね。ほら、ゆっくり飲みなさい」


「んく……んく……」


「本当に良い飲みっぷりよねぇ。取れちゃわないか心配だわ」


「奥様、それはあり得ませんのでご心配無用です」


「や~ね~、冗談にきまってるじゃない」



 ほろ甘い水を腹いっぱい飲んだからだろうか。

 身体に力が溢れてきたと同時に、目を開くことができた。すぐ目の前には南蛮人の女の顔が広がっている。



「あ、目が開いたわ」


「本当ですね。お乳を飲ませたからでしょうか?」



 俺を見下ろしているのは南蛮人の女だけではなかった。

 隣には、怪訝そうな表情を浮かべているもう一人の若い女。その若い女は金髪で、瞳の色が緑で、肌が色白だ。それと乳房ちぶさが途轍もないほど大きく、黒くて奇怪な服を着ている。


 そのどれもが奇妙であったが、女の見た目で一番奇妙な点は耳だった。耳が大きい……というより横に長く伸びている。


 この耳はなんなのだ。南蛮人……というより妖怪の類ではないだろうか。そんな疑問を抱きながら妖怪女を見ていると、また変な文字の羅列が浮かび上がってくる。



『ステータス

 名前・リズ

 種族・エルフ

 レベル・???』


 だからこの文字はなんなのだ。

 俺はおかしくなってしまったのか。それに、前回と同じように頭痛が起こり眠気も襲ってくる。くそ……いったい何がどうなっている。



「またサイが苦しんでるわ。何が原因なの?」


「今、微かですがサイ様から魔力反応が出たように感じられました。もしかしたら魔法的な何かをされているのではないでしょうか」


「そんな……嘘でしょ? サイは生まれたばかりの赤子なのよ。魔法なんて使える訳ないじゃない」


「私もそう思いますが……苦しそうにされるのも、気を失ってしまわれるのも魔力欠乏症の症状ですし、それならば辻褄が合います」


「そんな……じゃあ本当にサイが魔法を?」


「その可能性は高いです」


「う~ぁ」



 駄目だ……もう耐えきれない。

 なんとか意識を保とうとしたが叶わず、俺は意識を失ってしまったのだった。



 ◇◆◇



「あぅ~」


「おや、起きたみたいだね」



 腹が減って目が覚める。

 やはり目を開くことができず、頭は全く回らない。身体が栄養を欲していて、甘くて美味しいあれを飲ませろとせがむように声を発する。



「う~ん、目は開かないね」


「ええ……だけど私が乳を飲ませると目が開くのよ」


「ですが、すぐに苦しんでから意識を失われてしまうのです」


「成程ね。サイが起きている間に目を開かないのは、一種の防衛本能かもしれない。体力……というより魔力が枯渇した状態で目を開いてしまうと、自動的に発動してしまう魔法に身体が耐えられないんじゃないかな」


「だからサイ様は敢えて目を開かずにしているという訳ですか?」


「単なる予想に過ぎないけどね。多分この子の意志ではないだろう。身体が守っているんだと思う」


「あぅ~」



 おい、さっさとあれを飲ませてくれ。

 腹が減って仕方がないんだ。



「はいはい、今あげますからね~」


「んむんむ」



 出し惜しみされた分、むしゃぶりつくように飲む。

 満足するまで飲むと、小さくげっぷを出した。身体に力が漲ってきたお蔭か目を開くことができた。



「おや、目が開いたね」


「やはり奥様のお乳を飲ませた後に開きますね」


「じゃあミシェルの乳にはそれだけの力があるが備わっているってことかな。僕もちょっと飲んでみたいかも」


「何を馬鹿なこと言ってるのよ。ただでさえサイが沢山飲んで痛いんだからね」


「出来れば私が変わって差し上げたいのですが、私のは乳が出ませんので」



 談笑が聞こえる。

 視界に入ってくるのは空色の髪の若い女と、金髪で耳が長い妖怪のような女。それともう一人は黒髪で瞳も黒く眼鏡をかけた日本人らしき若い男。だが顔の形は南蛮人寄りだ。



(こいつは日本人なのか?)



 同郷かもしれないと思いながら見ていると、男の顔の横にまた不可解な文字が浮かび上がる。



『ステータス

 名前・ディル=ゾウエンベルク(父親)

 種族・人間ヒューマン

 レベル・78』



 三度目のことだから流石にもう驚きはしないが、相変わらず何の文字だかは不明だ。だが、文字が示している意味が“名前”であるということは何となく理解した。


 ということはつまり、この男は“でぃる”という名前らしい。

 それを理解した瞬間、また激しい頭痛が襲ってくる。



「あぅぅ……」


「サイ、大丈夫?」


「今、サイ様から微かに魔力の反応がありました」


「うん、僕も感じ取ったよ。魔法かどうかは定かではないけれど、サイが魔力を使って何かしたのは確かだ」


「どうすれば治るのかしら? このままじゃ、サイは目を開ける度に気絶してしまうわ」


「う~ん、どうだろう。正直魔力を使って何をしているのかが分からないんだよね。発動の条件が“目を開けて何かを見た時”であるとは思うんだけど、それで何が行われているのかは分からないし、治せるものなのかも分からない。恐らく魔法だとは思うんだけどね」


「どうすればいいのかしら……不安だわ」


「僕の予想では、サイが魔法に耐えられるまで成長すれば目を開け続けていられるようにもなると思う。それまで僕達も根気よく待ってあげよう。何、大丈夫さ。僕とミシェルの子なんだからね」


「旦那様の言う通りですよ、奥様。サイ様は大丈夫です。逆に奥様が心配して身体を崩してしまわれたら、サイ様に乳を与えられなくなってしまいますよ」


「そうね……うん、分かったわ。サイが大丈夫になるまで私も頑張る」



 駄目だ……今回は長めに耐えられたが眠すぎる。

 頭も回らなくなってきたし、抗わずに寝るか。


 はぁ……俺はいったいどうなってしまったんだ。

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