フィクション症候群

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フィクション症候群


Chapter 1  メスガキと殺し屋のいる診察室にて


「おにぃちゃん、フィクション症候群だね♡」

 ウチの目の前では、裾を盛大に余らせたブカブカの白衣を身にまとったメスガキが、マウスをカチカチ、画面に映っているウチのカルテをじっくり、ときどき煽るような目でウチのことをチラチラ見てくる。

「はぁ……、フィクション症候群、ですか。聞いたことがないです」

「あれれ~~、もしかしておねぇちゃん、普段ニュースとか見ないタイプ? 今けっこう話題になってるんだよ、そんなことも知らないの? ざぁこざぁこ♡」

 初めて聞いた単語だ、と俺が白状すると、メスガキは口元に手をやって実にオーバーなリアクションを返してくれる。うーん、すごくワカラセたい。俺は欲望のままに行動しようと席を立ちかけるが、メスガキの側に控える伝説の殺し屋に見咎められたような気がして、ごまかしにぴゅ~、と口笛を吹いた。かすれた音しか出なかったが。

「どのような病気なんですか?」

 私は気を取り直してそう質問する。まったく真面目に訊ねただけだったのだが、私の言葉を受けてメスガキも殺し屋も目を丸くし、二人の間でなにやらヒソヒソと耳打ちの応酬があった。

「もしかしてぇ、棚橋ちゃんは自分で気づいてないの?」

「なににですか……?」

「ふ~ん、そっかぁ♡」

 メスガキはそれだけ言うとキーボードをカタカタカタと意外に早い速度で打ち込む。おそらく僕のカルテに『自覚症状なし』とでも入力したのだろう。

「あのねあのね、ちょっと簡単な質問があるんだけどぉ。棚橋くんにはアタシって今どんな風に見えてる?」

「どんな……って、由緒正しきメスガキですが。ワカラセたい感じの」

 伝説の殺し屋が、突然吹き出して笑いをこらえ始める。

「めすがき? ってなぁに?」

 首を傾げて頭の上に疑問符を浮かべるメスガキは、年相応のあどけなさを感じさせ、不覚にも気を許してしまいそうになる。いや相手はメスガキだぞ、気を引き締めろ、某! 某が葛藤している間に、伝説の殺し屋が注釈を加えてくれる。

「年上に対して、クク、挑発的な言動で煽ってくる生意気なガキのことだ……。ここ数年の流行りでもある……。『ワカラセ』というのはしばしばR18要素を孕むから検索するときは気をつけろ……。ッ、ククク、先生が、メスガキ……、実に面白い」

「へぇ~~、おっもしろ~い! おねぇちゃんにはアタシがそんな風に見えてるんだね♡ じゃあ……、助手ちゃんはどんな風に見えてる?」

「引退したはずの伝説の殺し屋です。鉛筆一本で三人はヤれるオーラがあります」

「あははは! 飼い犬殺されて復讐心のままに皆殺しするタイプのやつ?」

 今度はメスガキが愉快そうに笑い声をあげ、殺し屋は困惑気味に眉をひそめた。メスガキはひとしきり笑った後、ふうと一息つく。そして白衣のポケットをごそごそと探り、一枚のカードを取り出した。病院の職員証だった。

「ほら、ココ見て。アタシの顔写真があるでしょ? これはどんな風に見える?」

 メスガキは「本来なら常に提示しておくものだ……」という殺し屋の小言をスルーしつつ、小生にカードを差し出してくる。

「どうもなにもメスガ……、先生の顔が写ってるなぁ、としか」

「もっと具体的に表現して♡ 髪型は? お肌のハリはいくつくらい? メスガキ?」

「えっと、頭は坊主で、口とあごにひげが生えていて……、目元のしわの感じは四十代前半でしょうか。少なくともメスガキには見えません」

 余が断言すると、メスガキは職員証をポケットに戻しつつ、訳知り顔で「にゃるほどにゃるほどぉ」と頷いている。

「おにぃちゃんは今、そんな四十代のオヂ、ホントは今年で五二になるんだけど♡ とアタシがわけだ。なのに、

 先生は実にメスガキらしい嗜虐的な笑みを浮かべながら、あたしの認識の矛盾点を容赦なく見破ってしまった。あたしはもう完全に青天の霹靂って感じで、むしろ今までなんで自覚してなかったの、って不安になった。

「ほら、それがおねぇちゃんが発症しちゃったフィクション症候群♡ 現実世界に虚構フィクションが流れ込んじゃってるの。かわいそ~~♡」

 くっ……、このメスガキをワカラセたい……。だがワイを全力で煽ってくる甲高く甘ったるい声も、ワイが作り出した幻覚に過ぎないってことなのか。

「どうやったら直るんですか?」

「うーん、明確な治療法はまだないんだよねぇ。なにしろ最近出てきた病気だからサ。ひとまず、しばらくは映画でも小説でも漫画でもなんにせよフィクションには触れないでね。その上で積極的にニュースとか人文書をあさるとプラスで効果的かも♡ 意思よわよわのざこざこおにぃちゃんでもそれくらいできるよね?」

「で、出来らあっ!」

 おらが握りこぶしを作って力強く宣言すると、メスガキは一転して大人びた微笑みを見せ、なるほどこっちが先生本来の笑顔か、と本能的に理解する。

「にゃはは、それなら大丈夫だね。それとぉ……、こんな変わった病気だけど、けっきょくは精神疾患の一種にしか過ぎないわけ。だから棚橋ちゃんの周りに、発症の原因がどこかに存在するはずだよ♡ なにか思い当たる節はある?」

 メスガキが拙の目を下から覗き込むように接近してくる。拙のほんの些細な変化も見逃してやらない、という確固たる意志を感じ、ここ最近の生活を軽く振り返ってみるが、それらしい出来事はなかったように思う。

「うーん、わからないです。すみません」

 少しバツが悪くて頭を掻く。また罵倒されるかと思ったけれど、メスガキは「そっかそっか」とわたくしを安心させるように微笑むだけで案外のほほんとしている。

「えっと、そういえば、仕事は続けてもいいんですか?」

 勝手に感じた気まずさをごまかすため咄嗟に仕事の話を持ち出してみたが、案外重要なところだ。我としてはこれまで通りに働けるなら働きたいが、休職するなら会社側には早めに連絡したほうが吉だ。我の質問に、メスガキは頤に人差し指を当てて考えるそぶりを見せる。

「ん? ん~~、おねぇちゃんはどんなお仕事をしてるの?」

「顔料メーカーの国内向け営業です。まぁ普通のサラリーマンですね」

「営業さんかぁ、なら休んでおいたほうがいいかもネ。五二のオヂが子どもに見えちゃう今の状態じゃ、マトモに働けないでしょ♡ 診断書書いてあげるから、ちょっとオ・ヤ・ス・ミしよっか♡」

 確かに、取引先の担当者さんをメスガキ扱いしてしまったらまずい。契約を打ち切られかねない。少し判断が軽率だったと反省する。

「わかりました。よろしくお願いします」

「は~~い♡ まぁ初診だし、今日のところはこれくらいにしといてあげる。焦らずゆ~~っくり直していけばいいから。じゃあまたね~、ざこざこおねぇちゃん♡」

 メスガキらしい小馬鹿にしたような嘲笑を背に、診察室を出ようとしたところで「あ、そだ。最後にひとつだけ」と先生に呼び止められる。

「あなたが今見ているものは、偽物フィクションだからね。それだけは絶対に忘れないで、棚橋あきらさん」

 そう言った先生の顔は迫真に満ちていて、病院を出て家に帰っている間も、私をまっすぐに射抜くその瞳は頭の片隅に残り続けた。



Chapter 2 流動的な我が家にて


「おう、帰ったか」

 我が家のリビングルームでは同居人が座布団を敷いてくつろいでいた。ハチマキハラマキモモヒキに釘を咥えて新聞と渋い顔でにらめっこしている老人、ウチの恋人のハルだ。

「ただいま」

「どうだった、病院は。センセはなんか言ってたか」

 新聞からわずかに顔を上げ、俺のほうを見遣る目は一抹の不安を映している。ハルはいつも俺を気遣ってくれていた。俺はそんな優しい恋人の心配を払拭するために、あえて少し能天気な言い方を選ぶ。

「うーん、なんか、フィクション症候群? って病気らしい。あんまり大したことはなさそう」

「え、それって今ちょっと話題になってるやつ? 流行り病じゃん、ヤバいじゃん」

 ハルはソファから勢いよく腰を上げると、私に詰め寄って至近距離からじろじろと身体に異常がないか確認し始めた。精神的なものらしいので、おそらく私の肉体に変化はないだろうけどされるがままになっておく。一通りチェックを終えたハルは私に向き直ってスマホの画面を見せてきた。

「ほら、これフィクション症候群に罹っちゃった人が起こした事件……、というか事故?」

『埼玉県さいたま市大宮駅構内で無差別殺傷事件 一人死亡 六人重軽傷 容疑者はフィクション症候群患者か』という見出しはハルの細く白い指にスクロールされてすぐに見えなくなる。ハルの指は、手はこんな見た目だった気もするし、全然違う気もする。

「『警察によると、容疑者は取り調べに対し「ゾンビ討伐の依頼を受けていただけだ」などの発言を繰り返しており、現在精神鑑定中。重度のフィクション症候群とみられる』だってねぇ。心配だよ、ちょっと。こうなってしまうんじゃないの」

 ハルは年相応に刻まれたしわをさらに深めながら僕の肩を掴む。僕は安心させるために、その手を優しく握り返した。ざらざらして、しかし暖かい手だった。

「大丈夫だよ、大丈夫。なにがなにに見えて、とても恐ろしくなっても絶対に傷つけない。先生にも忠告はされたしね」

「本当かい? 信じていいんだね?」

 某がしっかり頷いたのを確認すると、ハルはふっと少しだけ安堵したように肩の力を抜いて座布団に座り直した。某もその隣に陣取る。正面のテレビは『笑点』を垂れ流していて、ときどきハルが演者のネタに合わせて「あはは」と笑った。

「そういえば、しばらくフィクションは見ないで、って言われちゃった……」

 小生の残念無念な気持ちをこれでもかと乗せて嘆いてみたが、ハルはそのあどけなさの残る顔には似合わない呆れ切った苦笑を見せるだけだった。

「まぁ、……でしょうね、としか。引くほどエンタメ中毒者でしたもんねぇ。むしろ良かったじゃないですか、ちょっとくらい距離を取ることもまた必要なことです。この機会になにか資格でも取ったらどうですか?」

「えぇ、例えば?」

 ハルはかぶったキャップのつばに軽く触れて少し考えた後、言った。

「色彩検定とか? 仕事に役立つかもしれません」

「五年以上働いてて必要になったことがないよ」

「じゃあ、準中型自動車免許」

「……なんで? 二トントラックを運転しろと?」

 冗談はよしてくれとばかりに肩をすくめてみせたが、眼鏡レンズの奥から余を見つめるハルの瞳は真剣だった。余は困惑して口をつぐみ、ハルはぼそっと「引っ越しのために……」と呟く。

「この家は広すぎるし、家賃だって馬鹿にならない。もっと狭くていいから家賃の安いところに引っ越さなくちゃ、これから苦しくなる。だから荷物を運び出すとき、トラックが使えないと困る」

「あぁ、そういう理屈……。いや、うん? でもいきなり引っ越す理由なんてないし、もしそうなるとしても、きちんとした業者さんに頼むだろうから免許はいらないんじゃないかな」

「あれ、そうだっけ? そっか、そうだったね。ごめん、忘れて」

 ハルはそれっきり黙って、YouTubeをテレビで再生しながら『しっとりチョコ』をつまむ。画面の向こうからダイソーの便利グッズに感激する声が聞こえてくる。あたしは手持ち無沙汰になって、休職中もこんなに暇なのは少し辛いな、となんとなく思う。ハルと一緒にどこかへ旅行するのもいいかもしれない。

「そうだ、コーヒー淹れようか? それだけじゃ、口のなかパサつくでしょ」

 ハルが好きなのは苦みが強く酸味の弱いイタリアンブレンドで、ワイは酸味と甘味重視のモカブレンド。いちいちドリッパーとコーヒースプーンを洗うのは面倒だが、ハルは味覚が優れているらしくて少しでも酸味が混じっていると渋い顔をする。だから大抵はイタリアンブレンドから淹れて、同じドリッパーとスプーンでモカブレンドも淹れてしまう。真のコーヒー好きからは説教を食らいそうだが、多少混じってしまおうがワイは気にならなかった。

 ワイはキッチンに立って、いつものようにドリッパーにフィルターを敷いて、イタリアンブレンドをスプーンで掬おうとする。「あ、」というハルの間の抜けた声で手が止まった。

「コーヒーはべつにいらないよ。お気遣いありがとう」

 ソファに寝転がったハルは長い髪を滝のように垂らしながら、鬱陶しそうに広告をスキップする。おらがいつまでも名前を覚えられないK-POPアイドルの、テクノポップなイントロがこだまする。

「え? そう? じゃあ……、自分の分だけ淹れる」

「うん、それがいい」

 モカブレンドをドリッパーに入れて、平らになるように軽く振る。蒸らしもしないでそのまま熱湯をゴー。たぶん拙はコーヒーが好きなわけではないんだと思う。なんとなく、飲んでいる。マグカップの底に落ちる「コツ、コツ」というかすかな音はだんだん聞こえなくなって、そのかわりにやたら激しいテンポのサビが部屋中を埋め尽くした。

「仕事……、休職になったからどこか遊びに行こうよ。なにかしたいことある?」

 クッションの上で丸くなっていたハルは、私の問いかけに「みゃあ」とだけ応じて悠々自適に伸びをする。黒くてつやつやしている毛並みは、とても触り心地が良さそうだった。



幕間 ある病院内にて


「その、非常に心苦しいのですが、──さんは、もう……」

「どうにかならないんですか、どうにか。あの、臓器でも、なんでも、提供しますから。あ、もちろん、お金も。だから」

「落ち着いて聞いてください、──さん。我々もできることは最大限、手を尽くしました」

「いや、まだなにかあるはずだ」

「──さん」

「そうじゃないとおかしいでしょう? ねぇ?」

「…………申し訳ありません」

「ッ」

「えっ、──さん⁉ どこへ! ちょっと、──さん! 待ってください!」



Chapter 3 ヒーローが着替えるための電話ボックスにて

 

『ハイ、安藤です』

「もしもし、安藤? 棚橋です。お疲れ」

『あぁ、お疲れサマです』

 電話ボックスのなかは空気の通りがないからなのか、少し蒸し暑くて息苦しい。ウチはシャツの襟元を軽く煽ぎながらカメムシ色の受話器を握り直した。

「病院、促してくれてありがとうね」

『いえ、大しタことではありませんノデ。それで、結果は?』

「フィクション症候群だってさ」

 受話器の向こうから、ため息の音がかすかに聞えた。予想はついていた、と言わんばかりだ。

「あんまり驚かないんだね」

『まァ……。ある日突然、同僚のことを高性能アンドロイドだ、なんて言い出したらイヤでも察せるというものデス。ワタシはれっキとした人間のつもりなんですが』

「しょうがないよ、そう見えるんだもの」

 二度目のため息をつかれてしまった、それも今度ははっきりと聞こえるように。

『仕事のほうはドウするんですか?』

「休職することになった。まだ休職届は出してないけど、そのうちそっちにも正式にアナウンスがいくと思う。迷惑かけてごめんね」

『イエ。少し忙しくなるでショうが、一応まわりますカラ。それよりもヨク休んでくださいよ』

 今度はため息ではなく、俺を気遣った言葉で応答される。呆れられているのは病気に罹ったことそれ自体ではなく、俺の態度があまりに能天気なものだからかもしれない。

「うん、そうするつもり。なんならどこか近場……、茨城とか栃木とかへ小旅行でも行っちゃおうかと思ってるくらいだよ」

『ソれはお一人で行かレルんですカ?』

「え? いや、二人でだよ。前に話さなかったっけ、恋人がいるってこと」

『あァ、ソウでしたね……、すっかり失念しテおりましタ』

 安藤は高性能アンドロイドなのに意外とうっかりしている。

「お土産はガソリンで良い?」

『良いワケなイでしょう!』

「あ、そっか。最新型だから全個体リチウムイオン電池だよね」

『それはマダ開発途中だったト思いますが……。イエ、そうではなくソモそもワタシは食事でエネルギーを摂取すル人間だと言っていルでショう! まったく、つくヅク変わった病気ダ』

「それは同意。なにしろ感じ取っている世界は全部偽物フィクションらしいから」

 私にはその自覚がないけど、頭の一部は「この状態はおかしいんだな」と冷静な判断を下している。メスガキ系の医者も高性能アンドロイドの同僚も確実に存在するが、ということを知っているような気もする。

「ついでに思い出したんだけど、先生いわくフィクション症候群を発症してしまったなんらかの原因があるんだって。同僚の目から見て、思い当たる節とかある?」

 返答はない。

「安藤?」

 料金をケチったせいで通話時間が終わってしまったのか。まぁかけ直すほどのことでもないか、と僕が受話器を置こうとしたら、小さな声でなにか喋っているのが聞こえて耳に当て直した。

「ごめん、なんて言った?」

『…………知リません、とただ一言言っタだけです。知っていたとシても、ワタシの口から申し上げることはデキないでしょウ。ワタシは臆病だから、自分の発言に責任を負いたくな』

 プー、プー、プー、プー、……

 今度こそ本当に通話は終了した。某は少しだけ名残惜しく感じながら、ガチャンと受話器を置いた。伝えるべきことは伝えたし、某が抱えていた案件も安藤なら上手く引き継ぐだろう。高性能アンドロイドは伊達ではないのだ。

 


Chapter 4 冷酷な魔女が支配する旅館の一室にて


「なかなかいいところだね」

 ウチとハルは、八百万の神を唸らせ夢中にさせてきたことで有名らしい湯屋に泊まっていた。温泉はいろんな種類があって、食事もすごくおいしかった。おまけに部屋に戻ってみればふかふかの御布団。本当に大満足だ。

「また来ようよ、値段もびっくりするくらいお手頃だしさ」

「ああ、うん」

 休職中なのに悠々と羽を伸ばすのに抵抗があるのか、ハルは生返事を返す。右耳のアイビーを象ったピアスに軽く触れながら、居心地が悪そうだった。なにも、遠慮することなんてないのに。

 俺はハルの不安をかき消すように、努めて明るい声音を選ぶ。

「薬湯って言うのかな? わざわざ調合までしてくれて、温泉の効能をいろいろ選べるなんてすごいサービスだよね」

「マジでね。めちゃくちゃ良い湯だった」

「だからって全部の薬湯を試そうとするとはねぇ。三十種類は軽く超えていたし、あのまま引き留めなかったら今頃ゆでダコになってるか、ふやけすぎてお湯に溶けちゃってたんじゃない?」 

 大仰に頷くハルが面白くて、つい意地悪なことを言いたくなってしまった。私が呆れて肩をすくめるようにすると、ハルはほのかに頬を赤らめながらそっぽを向いた。首の動きに合わせて小さなハート型のネックレスが揺れる。

「それはちょっと気分が高揚してただけ。『全種類試す』だなんて、ただのリップサービス。だから蒸し返すのは、あんまりよくないと思うの」

 珍しく舞い上がってしまった自分が恥ずかしいのか、ごまかすように嘯く恋人がとてもいじらしい。もっとからかいたいと思うけど、機嫌を損ねたら悪いので泣く泣く自粛。話したいことは他にもたくさんあるし。

「夕飯にどーんと大きな豚の丸焼きが運ばれてきたのは流石に驚いたよ。絶対あんなの食べきれるわけないって思ったのに、案外いけるもんだね」

 僕が風船のように膨らんだお腹を撫でながらドヤ顔を作ると、ハルは「ふふふ」と口元に手を添えてお淑やかに笑った。僕はたったそれだけのことで、途方もなく嬉しくなる。やっぱりハルは笑顔がいい。

「確かに、美味そうな肉だった」

「調理のパフォーマンスもド派手だったよね。真っ赤な炎が上がって、火の粉がこっちまで飛んでくるんじゃないかとハラハラしたよ」

「あの顔は傑作だったな」

 某の間抜け面を思い出したのか、ハルは腹を抱えて豪胆に笑う。白い歯の周りのゴワゴワとしたひげは、触れるとちくちくと刺さりそうだった。

「ちょっと、笑いすぎでしょ」

 目尻に涙すら浮かべるハルに小生は形だけの抗議をする。すぐに小生も破顔して、二人でしばらく笑い合った。すごくくだらないのに、すごく愛おしい時間だった。

「……ずっと続けばいいのにね」

 余は気づけばそう呟いていた。なにが? 自分でもよくわからない。突然変なことを言って申し訳ない、とハルの表情を盗み見ると案の定困った顔をしている。某だって自分の言葉の意味をよく理解できていないのだから、ハルはもっと困惑しているだろう。

「そうだね。だけど終わりはある、どんな物事にもね」

「え?」

 ハルは小生の顔を見ながら、困ったように、聞き分けの悪い子どもを諭すように微笑んだ。少しぎこちない、不器用な笑みだった。リムレスの眼鏡レンズの向こう側には、底抜けに優しく、そして諦めたような眼差しがある。

「もうとっくにわかっているんだろう?」

 なんのこと? わからないから、余は黙りこくってハルの次の言葉を待つしかない。

「目覚めのない眠りはない」

「……目覚めのない眠りはない」

 ハルと最後に見た映画でそんなようなセリフがあったような。いや、あれは『目覚めたければ眠れ』だったか。思いのほか内容が難しくて、二人ともそのセリフしか頭に残らなかった。…………最後? どうしてそんな表現をする? それじゃあまるで、 

「幕引きは、拍子抜けするほどあっさりしていたほうが良い」

 たしかにハルはそういう物語フィクションを好んだ。

 趣味の悪い三角帽を目深にかぶったハルは、あやしい笑みを浮かべている。

 そうして、私にかかった魔法フィクションは解ける。



Chapter 5 一台の黒電話が置かれた告解室にて


ヂリリリリリリリィ……、ヂリリリリリリリィ……、ヂリリリリリリリィ……。

 

 黒電話が鳴った。誰からだろう? 出たほうがいいのか? こういうとき、電話番号が表示されないのは不便だ、とウチが考えている間にも、呼び鈴は止まらない。


ヂリリリリリリリィ……、ヂリリリリリリリィ……、ヂリリリリリリリィ……。


 鼓膜を突き破って頭のなかで乱反射するような不快な音は、俺が受話器を手に取るまでは途切れないだろう。なんでだかわからないけど、そういう確信がある。年季の入った黒い筐体は全体的に埃っぽくて、ダイヤルの回転盤は黄ばんだ垢汚れが目立つ。 

「あぁ、もう」 

いい加減うるさいな。なぜだが根競べに負けた気分で私は電話に出た。

「はい」

『……もしもし? お久しぶりね、はるかの母です』

 神経質そうな声だ。いや、ひどく疲れているのかもしれなかった。

『さきほど警察の方から、あの子の司法解剖とDNA鑑定が終わった旨の連絡を受けました』

「はい?」

『だからッ、あの子の……、はるかの遺体が戻ってくるのよ! やっと、やっとあの子を見送れるのよ‼』

「ハルの、遺体?」 

 ハルの遺体って……、なんだ? そもそも、この人は誰だろう? 『はるかの母』だから、ハルの母親なんだ。あぁ、えっと、去年の正月、勇気を出して挨拶に行った。名古屋から、電車で少し揺られた先の郊外にある、リフォームしたばかりだと言っていた、普通の一軒家。そうだ、『恋人』の僕の姿を見て、驚いて、ショックを受けたみたいで、少し申し訳なくなったんだ。でも、別れ際になって、「はるかをよろしくお願いします」って頭を下げてくれた、あの、優しい人。

『ええ、そうよ! あなた、さっきから、なんなの。なんでそんなに平然としているの』

「話が、うまく理解できなくて」

 頭が痛くて、動悸がする。いますぐ電話を切りたい。

『ふざッ、ふざけないで! あなた、それでもはるかのパートナーなの? あのときも、そうだった。あの子の本人確認に応じなかったそうね。それでかわりに私たちが、警察署に出向いて……』

 ハルの母親は、とうとう泣きだしてしまった。赤子のような、なにかに縋りつくような嗚咽だった。

『あんなの、あんな状態じゃ、わからないわよ。何十年も、愛してきて、毎日顔を合わせてきたのに、誰だかわからなかった。ねぇ、ねぇなんであなたはあの子の最期を見届けなかったの? 私たちは、こんなに苦しい思いをしているのに』

「えっと、すみません」

『やめて。謝罪なんて……、いらない、欲しくない。余計に悲しくなるだけだわ』

 謝るな、と言うのに、その声音は某を拒絶し糾弾するかのように冷たい。反射的に再び「すみません」と言いそうになって、吐瀉物をグッと呑み込んだみたいな不快感を覚えた。

 理不尽だと思った。某だってつらくて、悲しいのだ。心にぽっかりと空いてしまった虚空に、フィクションを流し込んでごまかすほどに。そうしないと自分が壊れてしまいそうだったから。

「病院には、すぐに駆け付けました。でも、なにもできなくて、ただ、ハルが死んでいくのを眺めることしかできなかった。だから、逃げたんです。現実を受け入れられなかったんです。怖くて、どうしようもなく寒くて、どうにかなってしまいそうだったんです。ごめんなさい。ごめんなさい。……それでも、はるかさんを愛していました」

 小生はかすれた声で懺悔した。心の底に押し込んでいた後悔を告白した。本当はずっと、わかっていた。ハルはすでに死んでいて、小生はその残り香でままごとをしていただけ。

『……そう。口先だけなら、なんとでも言えるわね。あなたが本当にはるかを愛していたというのなら、葬儀には当然来るんでしょう? いいえ、必ず来なさい。逃げるなんて許さない』

 そう言い残して、ハルの母親は一方的に通話を切った。棚橋あきらは耳に当てていたスマートフォンの黒い画面を少しの間見つめる。それから閉ざされていた告解室の扉を開けて、外へ出た。そこは魔女が支配するの八百万の神たちのための旅館でもなんでもなくて、昭和の風情がかすかに残る素朴なホテルの一室だった。背後の告解室を振り返ると、洋式トイレがぽっかりと口を開けている。ウォッシュレットくらい付けてほしいものだ。

「やぁ、ないしょ話は終わったかい」

 ハルはツインベッドのうちの一つに腰掛けながら、やけにボウルの大きいパイプをふかす。名探偵も顔負けの鋭い眼光だ。あきらはふと、ハルが大の嫌煙家だったことを思い出して失笑した。我ながら、ひどいイメージだ。

「終わったよ。それで……」

「それで?」

「用事ができたから、もう帰ろうか」



幕間 ある殺人事件のニュース記事


『埼玉県さいたま市大宮駅構内で無差別殺傷 一人死亡 六人重軽傷 容疑者はフィクション症候群患者か』

 ○○日午後二時半ごろ、埼玉県さいたま市大宮駅の構内で、男が刃物で利用者を次々と切りつけて男女七人がけがをした。このうち一人は男が持ち込んだとみられるガソリンで火をつけられ、重い火傷を負って病院に搬送されたがその後、搬送先の病院で死亡が確認された。死亡した方の身元はDNA鑑定の結果、同市内に住む水野はるかさん(三〇)と判明した。

 警察によると、容疑者は取り調べに対し「ゾンビ討伐の依頼を受けていただけだ」などの発言を繰り返しており、現在精神鑑定中。重度のフィクション症候群とみられる。水野さんの身体に火をつけたことについては「頭を刺すだけでは確実に死んだかどうか判断できなかった」と述べているそうだ。

 フィクション症候群患者が起こす事件・事故は後を絶たず、今年に入ってから本件で六件目となる。司法・行政の双方から早急な対応策を講じる必要に迫られているのは間違いないだろう。



Chapter 6 旅の終わり

 

 我が家──築九年の2LDKマンションの一室に帰宅して早々、ハルが荷造りを始めるのは当然のことだった。あきらとハルは帰るべき場所が違う。だからあきらはハルが荷物をまとめていく様子をぼうっと眺めて、ときおり独り言ちるように恋人の背に話しかけた。

「まったく困ったことになった」

 ハルは反応を示さない。小さなトランクに、ハチマキと釘が仕舞われる。

「一人で住むには、この部屋の家賃は少し高い」

 ジャラジャラとストラップのたくさん付いたスマホが仕舞われる。

「払えないことはないけど、払ったところで独り身には広すぎる」

 綿のへたり切った座布団が仕舞われる。

「やっぱり、引っ越すことになるんだろうか」

 どこかの野球チームのロゴが刺繍されたキャップが仕舞われる。

「職場から近くなるし、思い切って東京都内に居を構えようか」

 オシャレでもなんでもない黒縁の眼鏡が仕舞われる。

「ペットOKのところにしようかな」

徳用の『しっとりチョコ』が仕舞われる。

「ひとりは寂しいからね」

いつまでも名前を覚えられないK-POPアイドルのチェキが仕舞われる。

「そうと決まれば、なにを飼おう」

アイビーを象ったピアスが仕舞われる。

「ポメラニアンとか、小型犬がいいな」

 小さなハート型のネックレスが仕舞われる。

「それとも働きながらだったら、猫のほうがいいか」

 ゴワゴワとしたひげが仕舞われる。

「手がかからなそうだしさ」

 リムレスの眼鏡が仕舞われる。

「ねぇ、なにか言ってよ」

 ハルは相変わらず応えない。趣味の悪い三角帽が仕舞われる。

「つれないなぁ、もうお別れだっていうのに」

 やけにボウルの大きいパイプが仕舞われる。そういえば、とあきらは思った。ハルは元々そっけないやつだったな。

「…………あのさ、〔あきらを指す任意の一人称〕のことを、ちゃんと好きでいてくれた?」

 最後にイタリアンブレンドが仕舞われる。あきらにはもういらないものだからだろうか。ハルは立ち上がり、トランクの取っ手を掴んで、一切迷いのない足取りで玄関扉のドアノブを回した。

「はるか」

 反射的に手が伸びてその肩を掴もうとしたが、中途半端なところで止まった。はるかが振り返ったからだ。そうだ、はるかはこんな背格好で、こんな顔で、こんな表情をよくしていた。


「あきらが思っているより、もっとずっと愛していたよ。それじゃあ、さようなら」


 ガチャンと扉が閉じて、はるかはいなくなった。

 あきらはひとりになったリビングを見回して、小さく嘆息した。キッチンでしばらく悩んだ末に、イタリアンブレンドを淹れた。本物現実の豆はいつもと変わらない戸棚のなか、モカブレンドの隣に並んでいた。


 ずずずとコーヒーを啜る。

「苦いなぁ」

 すんとはなを啜る。




 


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