第三章 二

 真木まきは周囲を見渡した。

 四方の壁を見慣れない壁紙がおおっている。

 炎が波打つように縦に続いている。今までに見たことない模様が壁を覆い、天井の真ん中で合流し合う形で炎が続いている。

 部屋の広さは六畳ほどだが、壁を見ていると、ずっと狭いようにも感じられた。

 家具もなく、窓もなく、部屋の中には真木以外には誰もいない。

 唯一ある扉はしまり、取っ手付きのドアノブが水平の状態を保っている。

 熱い——。

 

 袖をまくろうかと、ふと思う。

 何となく、部屋自体も揺らめいて見えるのは気のせいだろうか。

 部屋の温度が少しずつ上がり続け、じっと湿った暑さが焚火の熱を受けたような熱さに変容している。

 このまま、ここにいるのはまずい。

 真木は天井を見た。

 丸い不透明なガラスに包まれた白熱灯以外には、何の家具も取り付けられてはいない。脱出先は自然と一つしかないように思えた。

 扉の方をふり返る。

 ドアノブに手を掛けようとして、ふいに真木は立ち止まった。

「ふふっ」

 かすかな音を立てて、扉が半開きになる。扉の先には何もなく、ただ、闇しか広がっていない。

 扉の先へ行くべきか一瞬迷う。だが、この部屋に長居することもできない。早く、ここを出なければ——。

「ふふ、ふふふっ」

 おかしくて仕方ない、そんな笑い声が、どこからともなく聞こえる。大人の声ではない。子どもの声だった。

「何が、おかしい」

 真木はその場を動かずに言った。

 また少女の笑い声が聞こえ、扉の奥から進み出て来る者があった。

 少女はパッチワークキルトのように、赤の生地、黒の生地、白地に黒の水玉模様と、三種類の生地を形状もバラバラに組み合わせたワンピースを着ていた。スカートは中世の夫人のように長くふんわりとしていて、右の裾には大きな赤いリボン。頭の左には小さな赤いリボンのバレッタをつけている。ワンピースの下には白のフリルが何重にも寄せられたシャツを着ていた。

 少女が嬉しそうに小首を傾げる。見上げるようにこちらを見るその目は、幾分、大人びた醜悪さが共存しているようで、真木は背筋が寒くなるものを覚えた。

「おかしいわ。だって、その部屋は、あなたの記憶を象徴しているものだから」

 またしても嬉しそうに少女が言う。

 真木は、心にひやりとしたものを感じた。

 

 子どもの頃、真木は実の母親を亡くしている。父親は物心ついたときには病死していて、それ以来、母一人で真木は育てられた。

 ——突然の火事にあい、母を失うまでは。

 部屋で寝ていたからわからない。逃げるのに精いっぱいで、そのときの記憶はほとんど思い出せなかった。

 火が部屋に侵入しかけたときの熱さ、外から建物を見たときの炎。

 それ以外の記憶は良く覚えてはいない。思い出そうとも、悲しみが胸を締め付けて思い出すことができなかった。

 そのときの記憶がこの部屋に——?

 

 真木は、はっとしたような表情で部屋の中を見渡した。

 いたるところ、炎の模様が壁中を這うように続いている。

 逃げ場のなかったあのときの記憶が、この部屋を生み出したのかもしれない。そう言われれば、納得できそうな気持ちもした。

「どう、子どものときを思い出せそう?」

 嬉しそうに、こちらの心を突き刺すような言葉を少女が言った。

 言葉からは強い悪意が感じられ、真木は横目で少女の方を見た。

 長い黒髪。顔立ちはどこかで見たような印象もあるのだが、思い出せない。

 ただ、少女が現在の真木を知っているのは、どうも確実なようだった。

「いや、思い出せないね。この部屋は、記憶を映し出してもいないし、そもそも、ここは夢の世界でもあり得ない」

 少女の動きが止まった。真木を凝視するように、じっと眺めている。

 真木は少女の様子を確認すると、口を開いた。

「さっきからおかしいと思っていたのは、こっちの方。この部屋は、光源と影の位置がどうもおかしい。影の付き方がリアルじゃない、、、、、、、んだよ。四隅の影の付き方が、光源から見ると全部バラバラ。想像で描いたみたいに見える。つまりは、この部屋——この場所は、夢の世界ではありえない。その上、三次元でもあり得ない」

 真木は少女に向き直った。

「ここは、一体、どこなんだ? 夢ではないと言うなら、俺と君は、一体、どこで対話しているんだ」

 少女は真木の言葉に動揺するかと思ったが、すぐさま嘲笑うような笑みを口元に忍ばせた。

「ご名答。そう、ここは夢の世界ではあり得ない。そこまで感づいたのは、あの医者——そう言えば、視神経にくわしいらしいから、すぐにわかって当然だったかもね。でも、真木君に指摘されるとは思わなかった」

 少女は両手を左右に広げた。

「あなたの記憶を探るのは中々楽しいよ。あなたを傷めつけるのもね」

「どういう意味だ」

 真木が、いぶかしげに言った。少女は薄い笑みを浮かべた。

「それは、あたしの口からはちょっと——。そうそう、聞かなければいけないことが一つあったんだった。なぜ、霊視ができることを人に黙っていたの?」

 少女の言葉に、真木は気圧されるようなものを感じた。

 まさか、本当に記憶を探っているのだと言うのだろうか。

「何の話だ」

 冷静さを取り繕いながら真木は言った。

「ふふっ、嘘をついているのがバレバレ。嘘をつくと、こめかみの片方が、ぴくっと動くの。『私は嘘を言っています』って言っているようなもの」

 言い当てられて、真木は、わずかにたじろいだ。

 少女が愛らしく、人差し指を口元に当てた。

「そう言えば、名乗っていなかったね。あたしの名前は、チェシャ猫。『アリスの不思議な世界』の『チェシャ猫』をイメージしたの。よろしくね、真木君」

 くるくると良く変わる表情と言い、確かに有名な『チェシャ猫』と似ていないでもない。

 少女は嬉しそうに笑むと、踵を返し、さっとワンピースの裾をひるがえした。

「待て、チェシャ猫!」

 真木が呼びかけても、チェシャ猫はふり返らない。

 その代わりに、闇の中から少女の声が、ぼんやりと響いた。

「バイバイ、真木君。また、会うときまで——」

「チェシャ猫、話は、まだ終わっていない!」

「君を見ているよ。遠く、遠く離れたところからね」

 手をのばし、闇の先にいる彼女をとらえようとした、その瞬間だった。

 

 はっと気がついて、真木は目を開ける。

 良く見慣れた自室の天井が目に入った。

「今のは、夢——?」

 夢にしては、やけにリアルで、夢らしくはなかった、、、、、、、、、

 真木は額に手をやり、汗をぬぐった。

「一体、今のは——」

 何度考えても、答えは出なかった。真木の脳裏にチェシャ猫の不思議な笑みだけが強く焼きついている。

 ふと、体が全体的に重く感じる。起き上がろうにも、体に力が入らない。

 まさか——?

 記憶も曖昧で、チェシャ猫と会う前に何をしていたかも判然としなかった。

 思考しようにも、意識が眠気とともに絡み合っている。

 混濁した意識の中、真木は過去の記憶、『マギ ルミネア』にいた頃のことを思い出していた。



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