第一章 二
昔ながらの喫茶店。
黒枠のドアを開けると、微かにドアベルが鳴った。焙煎したコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
間違いない。彼の顔。
スーツ姿に、短く髪を刈りこんだ、小ざっぱりした髪形の男。
年齢は三十代半ば。そう言えば、知り合いとは言え、今まで具体的な年を聞いたことはなかった。
会うのは久しぶりだが、様子は少しも変わっていない。
「久しぶりだね、日奈君」
顔をほころばすようにして、男が微笑んだ。つられて、日奈も笑みを浮かべる。
「
彼とは、日奈の子どもの頃から知り合いだった。
子どものときは樋口の父と一緒に会うことが多かったが、彼の面倒見の良いところは昔から変わっていない。
一緒に遊んで悪ふざけをすると、さすがに樋口も注意はしたが、やんわりとした物言いが人並み以上に上手かった。子どものときから人の心を良くつかみ、気づけば近所の悪ガキからも慕われている。昔から、そんな人だった。
「
樋口の言葉に日奈は首を振る。
「いえ、晴だったら、いつも通りです。短大を卒業してからは図書館で司書の仕事をして、空いた時間に書店でアルバイトしたり。とにかく本がある場所にこだわりが強くて。ただ、やっぱり過去のことが」
日奈は一旦、言葉を切った。
朝未晴。彼女は日奈の従妹であり、かつては妹のような存在だった。だが、晴が子どものときに起きた事件が、今も晴の人生を狂わせていると日奈は思う。
「晴ちゃんのことについては、実は、父からも遺言があってね。定期的に見守るように言われているから、こちらでも本人の動向は把握しているつもりだ。ただ、一見、明るくふるまってはいるようだが、どこか気持ちに乖離している部分があるような——まあ、本人の内面にまで私も入っていくことはできない。遠巻きに見ていることしかできないが」
手を動かして語る樋口に、日奈は軽くうなずいた。
過去の事件。
それは、晴が小学生時代に人質事件にあい、誘拐されたことだった。犯人から暴行こそ受けなかったものの、誘拐の目的は不明。犯人も未だ逃走中のまま。
時折、銃を突きつけられ、二日の間、大人しくするよう犯人に脅されたと、晴は言っていた。
共犯者として、晴の世話をする女性の犯人もいたと言う。だが、二人の犯人は覆面をかぶっており、素顔の様子はわからなかった、と。
居場所のわからない晴を救い出してくれたのが、探偵であり、樋口の父親だった。
他にも情報提供があり、樋口の父がそれらの情報を総合的に判断し、先陣を切って晴を救い出したと聞いている。
それ以来、晴も日奈も、大きな恩を樋口家には感じている。
日奈の視線に何か思うところがあったのか、樋口は片腕をテーブルに置き、わずかに身を乗り出した。
「大丈夫。晴ちゃんも過去を吹っ切れて生きることができる日が必ず来る。日奈君は心配するよりも、希望を持って晴ちゃんと会ってあげるべきだ。穏やかな日々の中にいることが、何よりも彼女の幸せなのだから」
日奈は何と言って良いかわからず、曖昧な表情を浮かべる他なかった。
樋口もそれ以上は、晴の件について言いはしなかった。
「ところで、今日、ここに来た目的なんだが」
樋口が、さりげなく話題を変え、テーブルを指でコツ、と音を立てる。
「ええ。御札のことですよね。勿論、持ってきてあります」
日奈は椅子に掛けたリュックから、細長い封筒のような白い紙の包みを取り出して、樋口に渡す。
包みの中を確認して、樋口は満足そうにうなずいた。
御札は独特の文字で書いてあり、素人には何が書いてあるかわかり辛い。だが、その御札が霊障避けに効果を発揮することを日奈は良く知っていた。
御札作りの名人から持たされた札。幽霊や霊障をはねつける霊験あらたかな札。
この御札を持っている限り、たとえ見えなくとも不可思議な現象にあうことは、御札が切りつけられない限り、ないことだろう。その効力は、日奈も以前に試して知っている。
「その御札をつくった人、あの『マギ ルミネア』卒業生だと口にしていましたし」
樋口が頬杖をつき、考え込むような表情を見せる。
「確か、一度だけ見たな……あの丸眼鏡の子だろう? 普段から着物を着て、大正時代の書生みたいな恰好をしていた」
「はい」
軽く笑いながら日奈はうなずと、なおも言葉を続けた。
「しばらくは御札を携帯し、また何かあれば相談してください。俺が樋口さんを助けられるのは、こうした種類の相談事だけですから」
「日奈君、助かるよ。御札は絶対に手放さない。それだけは約束する」
眉を下げ、苦笑しながら樋口は言った。日奈はその表情に、ほっとしたものを覚えた。
確かに、都内ど真ん中の土地で広告がある以上、かなりの人気と発信力を持った女性なのだろう。日奈が知らなくとも、彼女は時の人なのだ。
声をひそめながら樋口は続けた。
「ああ。それにね、調査中の事件の被害者である作詞家の女性、彼女も相当な才能の持ち主でね。一曲出すたびに大ヒット。作詞提供をすれば、その度に大ヒットの連続だ。周囲の中には、こんなに人の心をつかむ歌詞を書けるのは『マギ ルミネア』卒業生だからではないか、そう疑問に思って本人に聞いた者もいたらしい」
「本人は何て言ったんですか」
好奇心に駆られて日奈は聞いた。
「それがね、本人は笑って否定したらしい。まあ、社会に出れば特異な才能を発揮している人間が山ほどいて、しかも『マギ ルミネア』卒業生だと言うと、今や一目置かれる状況になっている。周囲が冗談で聞いたにしろ、本人にとっては誉め言葉の一つでしかない」
『マギ ルミネア』。同世代の話でもあり、日奈もその私立中学校のことは良く知っていた。
才能ある中学生を育成するカリキュラムと、国内、海外から選び抜かれた豊富な教師陣。山の奥深くでの寮生活により、勉強に打ち込み、自立した人格を育てる。
そのうたい文句に、全国から応募者が殺到し、数回の選抜試験と最終面接を行い、合格者を決定していたと言う。
ただし、学校の人気もそう長くは続かず、七年ほど活動していた後、寮から一名が失踪し行方不明となったことで、マスコミ各社から大バッシングを受けることとなった。その事件を契機に、学校へ向ける社会の目も激しさを極め、また近隣の村とも仲良い関係を築くことが難しかったようで、『マギ ルミネア』はその後すぐに自然消滅していった。
しかも学校関係者の内部告発によれば、『マギ ルミネア』は裏では、ある小規模な宗教団体『古来九子』と繋がっており、スポンサーとして学校に金が流れていたという報道までなされた。
かなりの物議をかもした学校ではあったが、成長した卒業生が社会の様々な分野で活躍しているのを見ると、一転して『マギ ルミネア』を再評価する人達まで現れた。そのことが日奈には驚きだった。
中には、『マギ ルミネア』卒業生だと一言口にするだけで、羨望の眼差しで見られることさえあるらしい。
日奈から見れば、卒業生は学校に対して何らかのトラウマ的な思いを抱えている者がいるように見えて仕方ないが、そうではない人間もいるのだろう。高低差の激しい評価が、かえって議論を呼び、逆にステータスだと考える偏狭的な人間も、実際に世間の一部には存在している。
日奈からすると、全く理解できない考えではあったが。
樋口が、ふいに口を開く。
「あの学校で失踪して行方不明になった女の子が一名いただろう。しかも卒業間近の二月になって。あの事件も未解決のまま」
「ああ、確かそうでしたね」
当時のことを思い出して、日奈はうなずく。
「そう。しかも、驚くことに、あの学校は名前こそ表に出ないものの密かに研究所として存続しているという噂がある」
「研究所、ですか」
樋口が考え込むように、顎に手をやった。
「そう。それも、小さなプロジェクトをつくっては、社会実験と称して内部で結果をまとめているらしい。絵や文字が、どのように人に影響を与えるかと言うテーマのもとにね」
「もし、『マギ ルミネア』が密かに存続し社会で活動を続けていたと仮定すると……。あの学校の卒業生は、君も知るように、全員が高校または大学卒業後に、何らかの特異な才能を発揮して異常ともいえる稼ぎを得ている。元々経済的に裕福な家庭出身者が多いとは言え、卒業生全員が、卒業後に非凡な才能を発揮するなんてこと、あり得ると思うかい。いずれにせよ、卒業生の才能がこのまま社会の役に立つ才能であれば問題ない。だが、もし、その才能が悪い方向へ向かえば——。いや、それは流石に言いすぎだろうね。卒業生も、かなりの努力をした上で、あのような地位と名誉を築いたと言うべきだろう」
確かに、卒業生の非凡な才能は誰しもが認めるところかもしれない。そのことは認めざるを得ない事実だろう。
だが、日奈の心には『マギ ルミネア』と卒業生達に対する評価に、納得できない感情が残っている。
当時の学校生活で何があったかについてはブラックボックスというか、報道がなされていた記憶はない。卒業生達も口にすることは、ほとんどない。
そのことがかえって、『マギ ルミネア』の失墜に一層の影を添えていた。
——樋口さんの身に何も起きなければ良いが。
日奈はそう思いながら、ウェイターが運んできたエスプレッソに口をつけた。
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