第一章 一

 はっとして、真木まきは目を覚ました。

 夜明けが近いのか、部屋は薄暗く、朝日はカーテン越しに、ほんのりとその気配を漂わせていた。

「夢か……」

 汗をかいた額に手をやって、真木はつぶやいた。

 ベッドの中から起き上がり、部屋の様子を確認する。

 八畳ほどの空間に、ベッドと机、収納棚が置かれている。

 棚の上には、一葉の写真がフォトフレームの中に、おさめられている。その写真は家族写真であり、真木のそばには今は亡き母と父、それから母の妹である叔母と叔父が映っていた。

 

「何で今さら、あんな夢を……」

 

 先ほど見ていた夢は、子どもの頃から繰り返し見ていた夢でもあった。夢を見始めた頃から次第に霊感が宿り、人には見えないものが見えるようになっていた。

 周囲の人間でこのことを知っているのは、世界でも、家族ともう一人の人間しか知らなかった。

 真木には幽霊が見え、思いが強く残った事件現場のような場所に行くと、霊視ができるということは、他の誰にも秘密だった。

 

 真木はベッドを離れると、棚の上にある家族写真へと近づく。家族写真の隣には、手のひらサイズの丸い鏡が立てかけてあった。薄ぼんやりと日の光が差し込んだ部屋では、鏡も霞がかったように灰色っぽい部屋を映しているだけだった。

 

 ふと、鏡の中で何かが動いた気がして、真木は鏡を手に取った。同時に後ろを見る。だが、そこには彼以外には誰もいなかった。

 おかしいと思いつつ、鏡の中をのぞきこむ。

 鏡は真木一人の顔を、ぼんやりと映していた。

 寝ていたから髪は少し乱れているものの、見慣れた、いつもの自分の顔。少し長めの茶髪に黒い瞳。

 長い前髪にはウェーブパーマをかけてサイドに流し、スタイリングがうまくできないところを何とかごまかしていた。

 最近では、大学から出された美術の課題により、幾分、憔悴しているようにも見える。

 その顔の横、肩の近くに何やら黒い霧が漂っている。

 影はすぐさま人の姿へと変わり、背後から真木を見ている——。

 さっと後ろをふり返って、鏡の中に見えたものを確認する。

 そこには、やはり、誰もいない。

 真木の自室なのだから、他に誰かがいるはずもなかった。

 空がようやくにして、日の光を増し、どこかから小鳥の軽やかな鳴き声が聞こえた。

 

 

「オカルト雑誌ライター、ですか」

 その日、真木は来客を自宅の一階、アトリエと称している広い部屋で迎えていた。

「そう。まっ、でも、僕の方が年下ですから」

 真木に対して、来客はぺこりと頭を下げた。確かに、見た目は、高校卒業したてのように見える。まだあどけない顔立ちで、明るい金髪のマッシュヘア。知的な印象を添えるつもりなのか、少し大きめで、分厚い黒フレームの眼鏡をかけている。身長も真木より大分低く、160センチ代に見えた。服装は紺色のポロシャツにベージュのダボっとしたチノパンを履いている。

 真木の方はネクタイこそしていないものの、来客を迎えると言うことで、スーツを着込んでいた。

 相手の肩書と言い、外見と言い、何だか全体的にちぐはぐな印象を持ってしまう。真木は何度も名刺に目を通し、目の前にいる人物と確認をする。

「ええと、名前は、澤小木 想さわおぎ そうさん?」

「そうです」

 相手はくすっと笑う。ダジャレっぽく聞こえる返答だからだろう。親もそのつもりで命名したのかもしれない。

「高校卒業して小さな物流系の倉庫の事務で働いているんですけど、副業でライターもしていまして。いろんなツテを頼って話を聞かせてもらって、書けるものだけ書かせてもらっている。そんな感じです」

「はあ……」

 何と言って良いかわからず、真木は言葉にもならない相槌をうった。

「メールには、そこら辺のことを書かずにいて、すみませんでした。でも、真木さんの絵を取材したいっていうのも嘘ではないです」

 眼鏡のフレームの奥から、悪戯っ子のような目がのぞく。真木は『自分の絵の取材』という言葉に、浮かれるような高揚感を味わった。

「あ、それじゃあ、ここに用意した絵を——」

 イーゼルに立てかけたキャンバスを翻し、相手に向けようとしたが、澤小木に手で制された。その上、空咳をした後、澤小木は来客用の丸椅子の上に座る。

「すみませんが、本日ここに来たのは、真木さんの違う才能を、ある事件に使ってほしいからなんです。それも、昨年夏に起きた未解決事件に」

 真木の嬉しそうな表情が、ゆるやかに消えていった。

 その代わりに、少し怯えたような表情が顔をのぞかせる。

「ある方から少し前に聞いたんです。真木さんには霊感がある。それも、事件の霊視ができて、過去に迷宮入りになりかけた二つの事件を解決させた、と」

「何でそれを」

 わずかに震える声で真木は言った。フレームの奥から相手は上目遣いに真木を見た。まるで、こちらを観察するような視線だった。

「二年前の事件の関係者の方からです。真木さんから口止めされたけれども、本当は、もっとその才能を使ってもらいたい、と」

「やめてください、俺は——」

 真木は一瞬、目を伏せた。だが、澤小木に対して強い口調で言った。

「いや、俺には、そんな力ありません。すみませんが、帰ってもらえませんか」

「いやでも」

「俺には、本当にそんな力は」

「ただ、烏堂うどうさんと言う方に、こちらを紹介いただいていまして」

 

 ——友人の烏堂。同い年でもあり、何かと面倒ごとを押し付けてくる印象がある。腐れ縁と言うことだろうか。

 都内の四年生大学に通い、二年ですでに司法書士の資格を取得したらしい。昨年、久しぶりに家に遊びに来たと思ったら、合格したことをやたら自慢された。そのことはいまだに真木自身、心の底では根に持っている。

 しかも、大学に入った二年間の内に、犯罪事件を解決する助言や、証拠発見にいたる推理まで警察にしてみせたそうだ。

 将来は司法書士になる予定らしい。だが、本音を言えば、探偵業の方が合っているような気もする。昔からの友人とは言え、彼の持つ才能と頭の良さに、何度、足の小指をタンスにぶつけてしまえと思ったか知れなかった。

 はっとした表情で、真木は相手を見た。

「烏堂は他に何か言っていませんでしたか」

「ああ、そう言えば言っていました。『この事件は、言葉では解決できない事件だ』、って」

 澤小木が、少しずれた眼鏡のフレームを両手で持ち上げる。真木の方をじっと見ていた。

「言葉では解決できない——?」

「それから、『真木を事件現場に連れて行けば、何か事件に進展があるはずだ』、とも。どういう意味かは、良くわからなかったのですが」

 真木が目つきを少々険しくした。澤小木に対して、指摘するように言った。

「まさか、烏堂に紹介料を渡していませんよね?」

「え? 当然、渡していますが……」

 澤小木が、とぼけるように言った。

「『俺の名前を出せば、あいつも断らないだろう』って、烏堂さんは言っていましたし、僕も良い記事書きたいですから。『お前は、もっと上に行ける人間だ』、って烏堂さんが——」

「あいつに持ち上げられたんですよ、それ」

 真木はイーゼルのそばに置いた丸椅子を引き寄せ、その上に座った。額に手を当て、少し困った様子を見せた。

 だが、やがて顔を上げると、真木は口を開いて言った。

「……事件のことを教えてくれませんか。ただし、俺の名は絶対に記事に出さないでください。大学に迷惑をかけることはしたくない。勿論、家族にも他の人にも——」

「記事には事件を特定されることは書かないつもりです。かなり詳細を省いて、霊視してもらったことを少し書き足すだけで——」

 軽く言う澤小木に、真木は少し驚きの感情を抱いた。

 聞いていると、何だか澤小木からは駆け出しのライターの持つ、考えなしの荒々しい勢いさえ感じられた。

「もしかして、事件を解決する気はないのですか」

「いや、したい気持ちはあります。だけど、真木さんが実際に『見えた』ことを話してもらわないと、こちらもどんなことを記事に書いて良いか、わからないですし」

 いなすように言う澤小木に、真木は、やや不満気な表情を見せた。確かに、外部の人間からは真木の持つ能力を推し量ることは難しい。だが、信用していないことを婉曲的に伝えられるのも、傷付きやすい真木にとっては胸が痛い。

 一方、澤小木は相手の葛藤などお構いなしの様子だった。

 持ってきた鞄から新聞を一紙取り出し、イーゼルのそばにあった小さなテーブルの上に広げた。

 紙面をめくり、『二十代女性殺害事件』と題された記事のところで、めくるのを止めた。

 

 真木も、のぞきこむように事件の記事を読む。読んでいく中で、事件については見覚えがあった。

 昨年夏、売れ出した若い作詞家が殺され、テレビでも取り上げられたからだ。

 

 事件は昨年——二〇二二年の七月二十四日、日曜の深夜に起きた。殺害されたのは掛浦輝恵かけうらてるえという二十八歳の若い女性。

 事前に睡眠薬を盛られ気を失ったところを、心臓を突き刺殺。それ以外にも何度も刺された跡があり、怨恨の線が高いと報じられていた。

 女性が夜に殺されたこと、都内であっても監視カメラのない路地で殺されたこともあって、目撃者や証拠が中々見つからず、未解決になっている事件だった。

 

「——これ、事件現場に連れて行ってくれませんか」

 真木は記事から顔を上げると、澤小木に対して言った。

 事件に対して自分の持つ能力が生かせるのではないかと言う、半ば賭けのような思いからだった。

 真木の言葉に、澤小木は嬉しそうな顔を見せた。

「安心しました。そう言ってもらえて」

「烏堂から面倒ごとを押し付けられるのには、慣れていますから。——もっとも、今回限りにしてもらいたいですけど」

 真木は立ち上がり、イーゼルにかけたキャンバスを持ち上げて、部屋の隅に置く。

 その横顔からは事件を押し付けられたことによる、厳しい表情が垣間かいま見えた。

 澤小木が真木を見ながら、ぽつりと言った。

「心配しすぎでしょう。何て言ったって、真木さんは烏堂さんと同じ学校を——」

「え?」

「いえ、何でもありません。事件現場に行くのは、今度の土曜日でどうですか。一週間後の。待ち合わせの時間は、また後日に連絡します」

 澤小木はそう言うと、挨拶もそこそこに真木の自宅を立ち去った。



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