漂う月

「知ってるかい? ハリセンボンは煮込むとコラーゲンがでて美味しいらしい」

 知りません。

「海老は刺身がいいね。ああ、でも小エビのかき揚げを乗せたうどんも捨てがたい。君は汁に漬け込んで一緒に食べる派かい? それとも半分くらいでサクサク感も残すタイプ?」

 後者ですかね。

「日本で捕鯨が行われているのは有名だが、実は海豚も限られた地域で食べられているんだよ」

 少なくともイルカショー見ながら知りたくなかったです。ところで、僕が一度も返事をしていないことに先輩は気付いておられるでしょうか? 



「もうやだ泣きたい」

 ギブアップ気味にトイレ宣言をして先輩から離れた僕は、半泣きで幼馴染に電話をかけた。

「だからデートに水族館は辞めとけって言ったじゃん。都会の有名なところならともかく、ど田舎のこの辺じゃ照明のせいで顔色悪く見えるし、ショーで生臭い水被るかもしれないから女子ウケあんま良くないってあれ程忠告したのにさぁ」

「違う!!」

 マシンガントークで僕をボコボコにしようとする幼馴染を一喝して止めると、流石に只事じゃないと感じたのか電話の向こうが静かになった。

 暑い日差しのせいか、はたまた大声を出したせいか、額に滲む汗を乱暴に拭って言葉を続ける。

「先輩さ……魚見ながらずっと魚食べる話しかしないんだよ……知ってた? 日本でイルカ食べるところあるんだって」

「知りたくなかった」

「ごめんなさい」

「……まぁ、あの変人ならそれくらい予想出来たといえば出来たでしょ」

 先輩と同じクラスである幼馴染の辛辣な言葉に「それはそうなんだけど」と肩を落とす。確かに先輩は変人変態の巣窟と言われる演劇部でも頭ひとつ抜けた変人だ。しかしながら、初対面で植え付けられるであろう"超美人"というファーストインプレッションは、後付けで貼り付けられていく変人具合の前でも霞むことがないと断言できる。現在演劇部で裏方雑用に奔走してる僕が言うんだから間違いない。

「まだ行くところあるわけ?」

「あと行ってないのは入り口にあった触れ合いコーナーと特別展示のクラゲコーナーくらいかな……」

「水族館の触れ合いって何?」

「ナマコとかヒトデとか……あ、ウニもいたかな」

「何が楽しいわけそれ」

「小学生男子は大喜びだよ」

「あんたら高校生じゃん」

 一刀両断されたものの、二人とも触れ合いコーナーの存在に目を輝かせていたのでノーコメントである。入り口直ぐにあるのにメインディッシュに取ってあるあたり察して欲しい。

「まぁ、これで懲りたなら大人しく諦めたら?」

「ええ……」

「顔が美人だけでほぼ1年追いかけられたのは凄いけど、二人きりで会って私に電話してきてるのがもうアウトじゃん。終わり。最後までエスコートは忘れずに、程々で帰ってきなよ暑いしさ。じゃあね」

 無情な現実を突きつけて通話は切れた。溜息混じりに電話アプリの開かれたスマホを見ると、時計が五分ほど進んでいる。生憎プリンセスではないので、そろそろ花を摘むのも限界だろう。

 確かに先輩の話すことは、とても水族館で優美に泳ぎ回る魚たちを前にする内容ではない。男女二人で来てるんだし、意識されたらという下心を粉々にするには十分だ。でもなぁ……と別れたベンチに戻ると、強い日差しの中でも真っ直ぐ背筋を伸ばして座った先輩は、スマートフォンを横持ちにして親指を猛スピードで動かしていた。


「やぁ、一度きりの人生を退屈そうに生きている若人。他人の人生の美味しい一幕をつまみ食いしてみないか?」


 春の太陽を背にしながらそう言った先輩の姿は、1年経っても僕の頭の中から消えてはくれない。残念ながら大根役者を極めていた僕は、演者ではなく裏方の才能を磨いているのだが。

「女性を待たせてボーッとするのは感心しないな」

「え」

 いつの間にかベンチから立ち上がり、目の前数センチまで迫っていた先輩。似たような身長のため、真っ直ぐ正面に茶色がかった黒目が見える。長い睫毛の影が落ちていることや薄ら色付いた唇まで分かるほど近くに先輩がいることに頭も心臓も騒がしいのに、石にされたように指の一本も動かない。

「どうした?」

「ち」

「血? 怪我でもしたか?」

「ちかい、です」

「……」

 僅かに眉を顰めた先輩は黙って僕から距離をとった。サンダルから伸びるヒールがコンクリートに当たる小さな音がいやに大きく聞こえる。

「……あの、先輩が嫌だったわけじゃ」

「触れ合いコーナー、いこうか」

「はい」

 簡潔に言い残して背を向けてしまった先輩に、僕は大人しく返事をするしかなかった。姿勢の良い影を人混みの方から避けてるのではないかと疑いたくなるほど、先輩の歩く線は真っ直ぐだ。二歩ほど後ろをついていくと、肩ほどで揃えられた黒髪が左右にリズムよく触れているのもよく見える。

 本当なら数歩下がって歩くのは女性の方の筈だが、そこを考えたらきっと負けだ。僕は先輩の背中を守ろう。



 たどり着いた僕達の腰ほどの高さしかない水槽は、案の定幼稚園から小学生くらいの子供達しかいなかった。保護者らしき人たちはそれを取り巻くように少し離れていて、偶に小さな子が水槽の生き物を手掴みにしてそちらに向けている。

 その端っこで僕たちはナマコとヒトデをそれぞれ指先で突いて遊んでいた。

「ぷよぷよしてるな」

「そうですね」

「見た目のままでつまらないな。もう少し面白いかと思ったんだが」

「むしろどういった感触なら良かったんですか?」

「うーん、触れた瞬間バラバラになりそうな感じだな。爆笑したのに」

 それは危ないけど見たかったな。そう思いながら、なんとなく両手を水槽に突っ込んでナマコを鷲掴みにする。

「うっわ気持ち悪い。先輩、僕のスマホで写真撮ってください」

「何故」

「幼馴染に送ります」

「ああ……」

 以前公演を見に来た際にウザ絡みしていた姿を思い出したのか、先輩は一度頷いて僕のポケットからスマホを抜き取る。

「パスワードがわからない」

「横にスライドしたら写真は撮れるんですよ」

「……本当だ」

 今日で一番目をキラキラさせて先輩がスマホを見ている。もしかして先輩は機械音痴なんだろうか……。その笑顔を見ていたい気持ちはあるが、手の中がぬるぬるぽにょぽにょで気色悪いので早くして欲しい。

「先輩……はやく……」

「ああ、すまない」

 先輩がこちらにスマホの背を向けたので、ナマコと唇の端を持ち上げる。うっかり手から滑り落としそうになって、それが両立できたのは数秒だったが……。

「すみません、撮れました?」

「ああ、落としそうになって驚いてる君が」

「……」

「仲が良いんだな。わざわざ写真を送るとは」

「ああ、まぁ腐れ縁なんで」

 さっきも電話してましたとはいえず、僕は頬をかきながら笑う。

「先輩も撮りましょうか?」

「要らない。自分の顔を送る相手がいないからね」

 独特な返しに「なるほど?」と戸惑いを残した返事をすると、突然頭上から僅かにノイズが入った音楽が聞こえてきた。


【特別展示は十六時で入場締め切りとなります。どうぞ皆さまクラゲ達の幻想的なダンスをご覧になってください。会場は二階……】


「だそうだ。最後に観に行こうか」

「先輩クラゲ好きなんですか?」

「キクラゲは好きだよ」

 それはクラゲ違いでは? とつっこみたい気持ちが湧いてきたが、もし知らなかったら恥をかかせるかもしれないと飲み込んだ瞬間「因みにキクラゲは海の生き物ではないよ」と横から言葉が続いた。

「……知ってましたけど」

「だろうね」

「いや、本当に!」

「そうだね」

 どこか楽しそうな気配が伝わってくる。なんだか悔しいけれど顔を見る勇気はなかった。



 先程のアナウンスのせいか、到着した展示室は中央にある円柱型の水槽を取り囲むようにごった返している。先輩を見失わないように気をつけながら少し背伸びしてみるが、高校男子の平均より低い僕の身長では水槽の上の方しか見えない。似たような目線の先輩も同じだろう。

「あ、あそこ少し空いてます」

「ああ」

 水槽は設置されてないが、どうやらクラゲの生体に関する説明が置かれてるらしい。退屈そうな顔をした大人が少しいるだけで、他より人口密度は圧倒的に低い。

 先輩の腕を細心の注意を払った力加減で掴むと、人混みを掻き分けてそちらに向かった。僕は今ほどモーセになりたかったことはない。

「……」

「あ、すみません痛かったですか?」

 珍しくとても静かな先輩に勢いよく手を離す。ハンドボール部の幼馴染くらいしか手を繋いだことがなかったので、力加減がうまく分からない。あれでも強かったのだろうかと自分の利き手を睨みつけていると、先輩はクスリと笑った。

「いや、人混みを親の仇みたいに睨んでる君の横顔と手元の優しさのギャップが面白くて」

「……」

 口元に手を当てて肩を震わせている姿なんて初めて見た。僕は今死んでもいい……なんて、ありがちなことが当然のように頭に浮かんでくる。少しカッコ悪いところを見せたということだが、今日で一番充実した気持ちだ。

「特別という言葉が人間は好きだね」

「心躍るじゃないですか」

「一時間自転車に乗ったら私でも海に行ける地域なのに。海岸に海月なんて幾らでも落ちてるよ」

「死んでる姿と水槽で泳いでる姿を同列で語らないでくださいよ。クラゲに失礼ですよ⁉ それに近所の海より色々な種類がいるし! ほら、このクラゲなんてアメリカの方にしか生息してないって!」

 職員さんの手作りなのだろう、マッキーで可愛くデフォルメされたクラゲの絵と説明を一個一個眺めながらそんな会話を続ける。喧騒に背を向けて壁側に設置されたそれを見ていると、まるで2人きりのような感覚になってくる。

「……君はどの表記が好きだい?」

「え?」

「『くらげ』の漢字さ。海の月と、水の月と、水の母」

 先輩は豆知識コーナーと銘打たれたところを指差した。そこに並んだ三つの単語を前に僕は腕を組む。

「……水の母ですかね。月って綺麗だけど水に映ってる限りは永遠じゃないし」

「素敵だね」

「先輩は?」

「海の月だよ。ゆらゆらして、形をとどめてなさそうな雰囲気が良い」

 僕が嫌いな理由は先輩の好きな理由だったらしい。それが可笑しくて仕方ないようで、気不味いことを顔に出していた僕を見て先輩はまた笑った。

「……そろそろ人が少ないですし! 水槽の方行きましょう!」

 誤魔化すように体を180度回転させると、抑えた笑い声がついてくる。遊ばれているようでムッとしたものの、背中に感じる先輩の気配が無性に嬉しかった。

「……綺麗」

「青いライトに浮かぶ白。まさに月だね」

 珍しく素直に生き物を褒めた先輩は、目を細めて水槽の中を揺れる半透明な姿を追っていた。

 お互いの作り出す水の動きに流されるように気儘なその様子は儚くて自由だ。傘のような部分が開いては閉じる。不規則な動きを追うように流れる触覚がカーテンのように水に広がった。

 ライトアップのために他より暗く設定された展示室の水槽のガラス。そこに映る隣の顔がクラゲではなく僕に向けられていることに気付いて横を向くと、薄暗い中で夜の海のようになっている先輩の目に視線を絡め取られた。

「……何かついてます?」

「目と口と鼻」

「いや」

「……今日、楽しかったかい?」

「え?」

 予想外の言葉に間抜けな声を出すも、先輩は凪いだ目で僕を見続けるだけだった。

「……その、ちょっと戸惑うこともありましたけど、かなり楽しかった、です」

「…………」

 どもりながら素直に吐露しても、先輩は表情を変えずにじっと僕を見たままだった。それが居た堪れなくて、でも視線をずらすことも出来ないまま唇に力を入れて真面目な顔を必死に作る。長い沈黙の後、先輩は顔の向きを前の水槽に戻した。

「……そうか……良かった」

 横髪に隠れて見えない表情は、水槽の中で月と共に揺れた。


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