ペリペティア

「一番星見つけたっ!」

 頭の上から大きな声がして、バタバタ動いた足が胸を蹴る。

「痛いよ」

 嗜めるように言いながら足を押さえて軽く首を逸らした。後頭部にあたる柔らかく温かな感触を落とさないように手で抑え、頭上の少年が必死に指差す先を見る。木々の隙間から西の空に見えるそれは、たしかに一番星だろう。

「本当だ。じゃあ先に見つけたからお願い事していいよ」

「やった! なにがいい?」

「僕に訊くの? じゃあ明日饅頭が食べたい」

「わかった!」

「いいんだ……」

 自分のことを願えばいいのに、この斜向かいの家に住む少年は律儀に僕の言ったことを繰り返している。随分遅くなったので、多分大人たちは心配していることだろう。僕はゆっくり動かしていた足を少しだけ早めながら大きく息を吐く。白くなったそれが空気に消えていくのを見ながら、抑えている足を軽く叩いた。

「晴太は何かお願い事はないの?」

「えーと、お兄ちゃんとずっと一緒がいいな」

「僕と?」

「うん、お兄ちゃんの肩車が一番好き!」

「流石にずっと肩車はできないや」

 きっと肩車出来なくなる頃には、こんなこと言ってはくれないだろうけど。大きくなった少年の姿を思い浮かべながら肩を震わせて笑うと、小さな手が弱く僕の髪を握った。

「じゃあ大きくなったら俺が肩車するね!」

「そしたら僕も大きくなってるよ」

「俺の方が大きくなるの!」

「ならないよ」

 晴太のお父さん小さいし……と心の中で付け足していると森を抜けた田んぼの先に、村の光が見えた。寒い時期に見える光はその見た目だけで温かくなるから不思議だ。

「お父さん達怒ってるかな」

「怒られるとしても僕だろうなぁ」

 こう言う時に歳下は少しだけ羨ましい。早く大人になりたい恐怖と、子供でいたい甘えを天秤にかけてしまえば恐怖が必ず勝つのだけど。

 怒声を覚悟して晴太の家に向かうと、道中で僕の親を含む大人たちが集団になってこちらに走ってきた。

「晴太、何かした?」

「え?」

「良かった!」

「何処かで眠り損ねた熊にでも襲われたかと心配で……」

「少し遅くなったけど、そんなに大袈裟な」

「馬鹿言うんじゃないよ。今年の儀式の主役が」

「……え?」

 顔が強張ったのが自分でもわかった。肩に乗せた重みすら感じられなくて、自分の足でちゃんと立てているかも分からない。視界の中で、笑顔の大人たちだけがぐるぐると回り続ける。

「お兄ちゃん?」

 開いた喉の奥から叫び声が出そうになったところで、頭が強く二回叩かれた。驚いて冷たい空気を勢いよく取り込むと、肺が冷えて咳が込み上げてくる。

「ゲホッゴホッ」

「ああ、大丈夫か? 明後日まで風邪をひくと大変だ。早く中に……」

「ほら晴ちゃん、家に帰ろう」

 僕の肩から晴太の父親が小さな体を持ち上げる。小さいと思っていた大人は、それでも僕より大きかった。

「ええ! まだお兄ちゃんといる!」

「晴太……」

「お兄ちゃんは大切なお役目をいただいたから、晴ちゃんとはもう遊べないんだよ」

 宥めるように自分を抱っこする父親を、晴太は「嫌だ嫌だ」と叫びながら叩く。小さな子供の我儘は、その程度じゃ大人には通じない。僕を囲む輪から離れていく背中と、その肩から覗く泣きそうな晴太の顔が光に照らされた。

「……」

 僕は何も言えなかった。



 儀式の当日、禊を済ませて神社にある一室から出ると、そこには月明かりに照らされた晴太が座り込んでいた。

「どうして……」

 儀式前には大人だって容易に近寄れないのに、と言う疑問はムスッとした顔の晴太の言葉ですぐに晴れた。

「お姉ちゃんが入れてくれた」

「ああ、あの子か」

 二個ほど下の神社の娘さんの顔が思い出されて苦笑する。本当はやっちゃいけないんだろうけど、幼い子供の駄々に対処できるほど大人でもなかったんだろう。

「……」

 あの日以来会っていなかった晴太は、特に変わりない。ただとても不機嫌そうだった。

「晴太、これは名誉なことなんだよ」

「……」

 大人たちの常套句を言ってみるが、晴太は眉間の皺を消してはくれなかった。困ったな……と思いながら晴太の隣に腰を下ろす。ぽたりと冷たい雫が廊下の板に落ちた。

 お互い何も言わず、晴太は床を、僕は星空を見ているだけの時間が流れる。あまり遅いと誰か来てしまうため、別れを言うならば今すぐにすべきなのだが、一昨日と同じように言葉は見つからない。

「……どうしていっちゃうの?」

 不意に隣から声が聞こえた。首の角度はそのままにチラリと視線だけを向けると、晴太も膝を抱えた姿勢のままこちらを見てはいなかった。

「……」

 なんと答えるのが正解だろうか? お役目だからとか、皆んなの為にとか、様々な大人らしい言葉が水泡のように浮かんでは弾ける。

「……逃げられないから」

 口から出た声は、情けないくらい掠れていた。隣の晴太がこちらを向いたような気配がするけれど、僕はそちらを見なかった。今下を見たら、もう顔を上げられない気がした。

「……あの」

 控えめな声が廊下の角から聞こえてくる。晴太を入れてくれたことといい迎えに来てくれたことといい、この子には感謝しかない。

「……じゃあ、元気でやんな」

 動かない晴太にそう言って僕は歩き出した。玄関で大人達が総出で待っているのが見えて少しだけ足が重くなったけれど、止まることだけはなかった。

 大きな体に囲まれて神社の奥の森を歩く。冷えた体に夜風が当たって自然と背中が丸くなった。くしゃみを数度繰り返したが、両親は一昨日のように心配してくれない。

 まぁ風邪をひく時間的な余裕もないか……と自嘲しながら顔を上げると、右手にひときわ輝く星が視界に入った。

「……一番星みーつけた」

 小声で宣言すると、先頭を歩いていた神主さんが立ち止まる。

「ここからは一人で……」

「はい」

 小さく笑ってみせて、黒く口を開ける洞窟に足を一歩踏み出した。

「寒い。真冬に頭から水被るとか馬鹿だよ」

 手に持った松明だけが頼りの暗闇に呟く。あと1年で成人の儀だったのにとか、もっと美味しいものを食べたかったとか、可愛いお嫁さんが欲しかったとか、叶うことないことをつらつら並べる。今日は僕が先に見つけたから、僕は僕のために沢山願い事を言う。

「あ、晴太見つからなかったかな……もし見つかっていても怒られてませんように」

 辿り着いた先、本当は村の豊穣を願うべき祠にも個人的なお願い事を託して、松明を地面に置いた。轟音を響かせながら流れている川の淵まで歩いていくと、側面に当たって弾けた水が足を濡らす。覗き込んだ川面は絶えず白く泡立っていて僕の影すら映らない。

「……」

 暫くそれを眺めていると、吸い込まれるように頭が前に倒れていった。閉じた瞼の裏に星を指さす少年の笑顔が浮かぶ。

――やった! なにがいい?

 もう願うことは思いつかなかった。

これは、子供の僕が残す最後の我儘だ。

「……ひとりは、寂しいなぁ」


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