短編集②

卯月

川の間の

 バシャッと大きな音を立てて頭から水をかぶる。本当はもっと丁寧にやるべきなんだろうけど、誰も見てないんだし、たかが川の水を被るくらい適当にしたって構わないだろう。

 肌に張り付いた白い肌襦袢に2月の風が冷たい。小さなくしゃみを繰り返して身を震わせると、水が入った桶を乱暴に手元に引き寄せた。すると大きく波打ってこぼれた水は、障子の隙間から覗く月を映して板の間に広がる。どこまでも広がる星空が、狭い水溜りに切り取られるように床に飾られた。


――これは名誉なことなのよ。

「うん」

 手で掬った水を肩にかける。


――大じょ……お前は……サマと一体に……みんな……見守るん……。

「うん」

 次は足。手の感覚が麻痺してきた。


――……! ありがとう!

「う、へっくしゅ!」

 このままだと儀式に臨む前に凍え死ぬ。冷えきった体を自分で抱きしめ、乱暴にさすってみるが、そもそも頭の天辺から足の先まで濡れているのだから意味がない。きっと今なら内臓まで冷たい。

――どうしていっちゃうの?

 頭の中で聞こえていた家族親戚ご近所さんの声に混じって響いてきたのは、幼い自分の声だった。誰に言ったのかも、その人がどう応えたのかも全て覚えている。とんでもないことを訊いたものだと、今更自分の残酷さを思い知らされた。

 声を殺して笑うと、髪の先から大きな雫が床に落ちる。それに続くように、震える身体から大量に水分が出て行く。抱きしめた両手の下はいつまでも冷たいままなのに、頭と胸に無駄に熱が集まっていった。

「そろそろお時間です。ご準備はいかがですか?」

 背後の障子の向こうから、神社のお姉さんの声がする。参拝に行くたびに「ありがとう」と笑ってくれた顔が思い出された。

「大丈夫です。すぐに出ます」

「……はい。人の身でいられる最後のお時間ですので、時間の許す限りはお待ちします」

「ありがとうございます」

 気の毒そうな色と気遣いをのせた声は、最近聞いた中で一番人間味があった。一昨年神主だった父親を亡くしたばかりだから、死ぬ人間には感傷的なのかもしれない。

 桶の横に置かれていた柄杓を手に取ると、残り少なくなった水をゆっくり口に含む。あまりの冷たさに驚いて喉を鳴らすと、温かった体の中で水が通っていくのがありありと伝わってきた。

「……まっず」

 泥臭い味を消すように舌で口内を舐め回すと、歯が小さく頭を出している感触に行きあたる。ようやく最後の乳歯が抜けて、折角生まれたのに一度も使われないなんて可哀想に。

「……俺も大人になりたかったな」

 ぽつりと口から出た言葉は床にこぼれた夜空に溶けて消えていく。いっそ俺の身体もこのまま溶けてしまえばいいのに、温度を下げ続ける体は硬くなるばかりだった。





「それでは……村を宜しくお願い致します」

「……はい」

 神社の奥、カミサマの寝床、神域……色々な名前をつけられて村人に恐れられる洞穴の前で、俺はお姉さんや両親に向かって笑顔をみせた。

 川のカミサマに身を捧げるのは村のためになる名誉なこと。俺は決して死ぬ訳じゃなくて、村を永劫見守るカミサマの一部になるだけ。これは決して悲しい別れではない。

 は? ふざけんな。

「……」

 村に背を向けて洞窟に入ると、無性に怒りが込み上げてきた。でも足を止めるわけにはいかなくて、振り返ることは許されなくて、走らない程度に早歩きで洞窟の奥に進んだ。

 人の目も月の光も届かなくなった頃、もつれる足のままにその場にしゃがみ込んだ。近くなった地面から、先程飲んだ水と似た苔っぽい匂いがして吐き気が込み上げてくる。

「なんで、なんで俺が」

 大人達による適当なくじ引きの結果だ。なんの意味もない。大した理由もなく選ばれて、そのくせ選ばれたのは名誉だの好きに言いやがって。

「……嫌だ、絶対嫌だ」

 頭を必死に横に振って身を守るように膝を抱える。誰も助けてなんてくれない。自分すら自分の助け方が分からなかった。

「……」


――どうしていっちゃうの?

――……逃げられないから


 近所のお兄ちゃんは泣きそうな顔を隠すように上を向いて、俺にしか聞こえない声でそう言った。あの日以来、俺は形ないものに願いを託すことをやめた。

 ああ、そうだ、逃げられない。

「……」

 啜り泣く自分の声と、誘うような水の音が洞窟の全てじゃないか。目が溶けたんじゃないかと思うほど泣くと、不思議と思考はクリアになっていた。嗚咽を噛み殺しながらノロノロと立ち上がり、一歩一歩を土に刻むように足を進める。

 この儀式があると、子供達は大人がいいというまで川に近寄ってはいけない。川のカミサマが生贄になった子供と同化する期間だから、他の子供が近寄っては機嫌を悪くするからだと大人達は言う。

 儀式に向かったお兄ちゃんの、目も当てられない遺体を引き上げている父親を見なければ、俺もそれを盲目的に信じられただろうか?

 洞窟の奥は村近くに流れていく川の上流部だ。わきに置かれている祠を松明で一瞬照らすと、眉間に皺をよせて川の淵で足を止めた。

「誰がお参りなんかしてやるか。儀式なんか失敗しろ」

 恐らく意味のないこの行為を精一杯冒涜して唇を歪めると、再び自分が怯える前に大きく一歩を踏み出した。

 この世に神様なんていない。自分を守れるのは自分だけ。それを村の奴らは思い知ればいい。

「……カミサマカミサマ……どうかあの村に……」

 俺の最後の願いは口の中で水と一緒になって流れていく。その願いが叶ったどうかは、きっと数百年後もこの地を流れる川だけが知っている。


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