残り香に別れを
目が覚めたとき、貴方が隣にいたことがあっただろうか? 私の記憶の限り、それは最初の一度きりだった。窓を少しだけ開けて煙草を吸う背中を今でも覚えている。
「ん……」
薄っすら浮上した意識を引きあげるように、右手が冷たいシーツを掻いた。二度、三度と滑らかな化学繊維の感触を味わったあたりで瞼が自然と開く。ぼんやりと視線を彷徨わせた先は、ぽっかり空いたシングルベッドの半分。誰かがいたような乱れはなく、ただ私が指を走らせた跡に皺が寄っている。
「……」
再び目を閉じたくなってきた気持ちに喝を入れるために体を起こす。すると上半身から落ちた掛布団からふわりと煙草の香りがした。寝癖のひどいセミロングをかき回し、欠伸をひとつ。大きな口を開いたまま足の裏を地面につけると、ベッドの横に置かれたテーブルが目に入った。緑と黄色、お揃いのデザインで色の違う二つのマグカップは片方だけに冷めた珈琲が少しだけ残っている。
「……あれ、私これ叩き割らなかったっけ?」
目の前を煙が通った気がした。
「……」
目を開くと、真っ白な天井だった。数度瞬きをして体を横に向けると、巨大な犬の抱き枕と目が合う。
「捨てないでってアピールのつもり?」
思ったより寝起き感あふれる自分の声を聞きながら犬の鼻をつまむ。フェルト生地の少しかさついた肌触りと布の温もりに、なぜか笑みが浮かんだ。
勢いよくベッドから飛び起き、はね回っているショートヘアを掻き上げると、鼻孔に苦みが刺さった。匂いの元を辿ると、夢の中でマグカップがあった場所には残り一本になった煙草とライター、そして半分ほど吸って灰皿に押し付けられた吸殻が置かれている。白地に赤い丸が印象的なそのパッケージを眺めること数秒。私は箱とライターを片手で握りしめてベランダに出た。
「あつ……朝くらい涼しくなりなさいよ」
まだ、はるか階下に見える地上を歩く人はまばらだ。時計は確認していないが、恐らく普段より三時間は早く起きている。なのにこの暑さとは……この国はどうなってるのよ、まったく。
ぶつぶつ文句を言いながら最後の一本を咥えて空箱を握りつぶすと、ジャージのポケットにそのまま突っ込んだ。すっかり慣れた手つきで白い筒の先にライターの火を近づけると、あまり深く煙をいれないように息を吸う。特有の辛味の中に、仄かな甘みや香ばしさ、旨味を感じるようになれたのは、いつからだったろうか。
「ああ、この煙草は燃えるのが早いから普通に吸っちゃだめだよ。あと、吐くときは煙を出さない程度に慎重に呼吸しないと」
喉の奥でクツクツ笑う男の顔を塗りつぶすように、勢いよく煙を空に吐き出した。朝早くで淡い色合いだったキャンバスが白で曇る。途端にあり得ないほどの痛みが舌と喉を刺激して咳き込んだ。背中を丸めて大きく震わせると、二本の指で挟んだ煙草から灰色の塊が足元に落ちる。
「はあ……けほっ」
呼吸を整えていると、ツンとした苦みが鼻を突き抜けて涙が頬をつたった。でも、やっぱりこの匂いは嫌いじゃない。
その人固有の体臭と、歳を気にしてつけ始めた香水と、歳を気にせず吸い続けていた煙草。全てが入り混じっていたあの人の匂いの中で、これが一番強かった。いつだってあの人という存在の中で最初に知覚するのはこの香りだった。
私が再び身をおこす頃には、手の中の巻紙は既に半分になっていた。それをもう一度、大量の空気と共に吸い、口の中で少し遊ばせた後にゆっくり吐き出す。
もう、上手くなったと褒める声はしない。それに満足すると、すみに置かれていた携帯灰皿に吸い残しを突っ込んだ。
今日は不燃ごみの日だ。
短編集 卯月 @kyo_shimotsuki
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