夢葬

 突然だが、世界が滅んだ想像というのは皆が一度はするものだろう。

テロリストが自分の目の前に現れるとか、急に超能力に目覚めるとかと同じ類の「現実に滅多にないけど漫画とかではよくある展開」に巻き込まれる妄想をする機会というのは、人生で誰しも一度はあると思う。

 何故こんなことを言い始めたかというと、僕が現在、人類最後の生き残りだからである。別にどこかの国が核兵器をところ構わず撃ちまくったとか、宇宙人が攻めてきたとかそういうことはない。

 ただ、寝て起きたら僕以外の人間が消えていた。

 つまり、これは夢である。

「いてっ」

 残念ながら頬を抓っても痛いだけで目が覚める様子はない。僕は半目で自分の部屋の中を見渡しながら、頭をポリポリ掻いた。

 そもそも部屋から一歩も出ていないのに、外に誰もいないと断言できる時点でこんなものは夢だ。荒唐無稽な夢の設定に何故か順応しているとき特有の「そういうもの」という謎の納得感。

 確かに普段起きる頃に聞こえるお隣さんが朝の支度をする騒がしい音や、向かいにあるファミリーマンションから聞こえる子供の声、道を散歩している犬の鳴き声など、生活を構成していた雑音は聞こえない。でも、それだけで〝世界でたった独り〟だとは判断できない。ブラジルあたりに一人くらい残っているかもしれないだろう。いや、フランスでもロシアでもどこでもいいのだが。

 とりあえず街を歩いてみるか、と決めて僕はベッドから降りた。白を基調とした部屋におろした足の裏がひやりと冷たかった。

 黒いTシャツにジーンズという一見不審者ぽい全身黒の服装に身を包むと、途端にお腹が鳴った。少し動いただけなのに随分と欲望に忠実な体だ。夢の中ならお腹が空かないくらいの非現実性が欲しい。

 ついでにスーパーで何か買うか、と考えて財布に手を伸ばす。そこではたと手を止めた。

 僕以外の人類が滅びているならば、別にお金を払わずとも構わないのではないか。そもそもスーパーにモノは並んでいるのか。

 疑問が脳裏をグルグルと回り、僕は念のためにそのまま財布をお尻のポケットにつっこんだ。万引きした途端にどこからか警察が飛び出してくるとかいう面白い展開もあり得る。備えあれば患いなしだ。




 自分の部屋を出ても、相変わらず辺りはひっそりしていた。人っ子ひとりおらず、僕の心臓が動く微かな音すら大きく感じる。僕は扉の前で深呼吸してから廊下を歩き始めた。

 カサカサとコンクリートを靴が擦る音だけが響く。普通なら聞こえてきそうな自動車の排気音など、人間が奏でる音は何も聞こえない。前髪を揺らした風に安堵するほどに。

「本当にいないのかなぁ」

 ふと思い立って真横にあった扉に手をかけた。自分が出てきたのと同じマンションの一室。何の変哲もない鉄の扉の横には二〇三と書かれた真新しいプレートがかかげられている。しかし、緊張しながら回したドアノブは固い感触と共に止まってしまった。

「……」

 何度回しても半回転で止まる。鍵がかかっているらしい。なーんだ、つまらない。

 しかし、確認できない以上はヒトが住んでいる可能性も否定できないということだ。僕がガチャガチャやっているのに対して「うるさい」と思いながら息をひそめているかもしれない。リズミカルにドアノブを回し続けてみるが、残念ながら怒鳴りながら内側から鍵が開くことはなかった。

 飽きたので大人しく扉から離れてエレベーターに向かう。果たしてエレベーターは動いているのか。当たり前だが僕はエレベーターの操作なんかできない。この世界に本当に僕以外がいなくて、電気が通っていなければエレベーターは動かないだろう。僕はエレベーターが止まっているところなんて見たことがないので、これが初体験ということになる。

 ワクワクと期待感を込めてスイッチをおすと、いくつもの電球で形作られた矢印に明かりがともる。微かに駆動音が聞こえたかと思うと、軽やかな動作で扉が開いた。

「結局夢か」

 僕以外いないはずなのに動く鉄の箱を見ながら鼻を鳴らす。僕の都合のいいように全てが用意されている。きっとスーパーに行ったら自動ドアは必ず反応してくれるし、陳列棚では僕の好物が〇円セールをしているに違いない。

 そう思いながら僕はエレベーターへ一歩踏み出した。




 自分の住んでいるマンションのエントランスでは、普段猫を抱いて目を光らせている管理人も勿論いなかった。彼が腰かけているロッキングチェアも今日は役目を忘れてぴったり静止している。彼が飼っているのか、野良を毎回捕まえてきているのか分からない猫もいなかった。まぁ、このマンションはペット禁止なので飼っていたら大問題なのだが。二年前にお隣さんがコッソリ犬を拾ってきた時には、マンション中に噂が広がった挙句、一斉捜査で他にも四室ペットを飼っている世帯が見つかって大変だったものだ。

 一歩マンションから出ると、ふわりと生ぬるい風が吹いた。それに思わず目を瞑り、もう一度開く。そこには僕の予想とは少し違った光景が広がっていた。

 歩道にはやはり人影のひとつもなくて、ただ太陽がコンクリートを焼いているだけだ。しかし、車道には何故か車が数台停止していた。驚いて一番近くにあった黒の軽自動車に近寄っていく。もちろん、中に人はいなかった。しかし後部座席に引かれたカーテンや座席に置かれた敷物から、持ち主が愛車を非常に大切にしていたことが伝わってくる。フロントガラスから見えるように置かれたリンゴ三個分の猫のぬいぐるみを尻目に扉に手をかけたが、そこはマンションの一室と同じように固く閉ざされていた。

 周囲を見渡し、少し大きめの石を拾い上げると、助手席の窓に向かって強く投げつける。ガンッと音が鳴ったが、ガラスにはヒビが入ることもなかった。二度、三度と同じことを繰り返したが、結果は同じ。

 やめよう。

 五度ほど石を叩きつけて、石の方が欠けたのを見た瞬間、僕の心がそっちに傾いた。どうやらこの世界のものは現実より相当強く出来ているらしい。車のガラスがどの程度の強度なのか僕はよく知らないが……もし、現実でもこの強度だったら車上荒らしを生業にしている連中はゴリラの集団に違いない。

 疲れてコンクリートの上に座り込む。何も得るものがなかっただけに徒労感がすさまじい。じりじりと肌が焼ける感覚に唸っていると、ポケットの中から軽い金属音が聞こえた。その存在には心当たりがある。僕は一縷の望みに突き動かされるように立ちあがった。

 向かった先はマンションの駐車場。その中に停められた一台のスクーターに手を伸ばす、先ほどまで散々動かすことを拒絶されていたので、普段より力いっぱいスタンドを蹴ると、驚くほど簡単に解除されてつんのめった。どうやら、僕の所有物なら自由にできるらしい。

その後もすんなり通った鍵に喉を鳴らしながらゆっくりとエンジンボタンを押す。聞き慣れた排気音のはずなのに、初めて聞いた時と同じくらい胸は高鳴っていた。流れるような動きで発進し、車道に出る。車道で停止した車が障害物のように思えてきて。ハンドルを右にきり、左にきりと滑らかに避ける。だんだんと楽しくなってくるのを感じながら、道を走っていると赤信号が見えてきた。

いつものようにブレーキをかけようとした瞬間、ふと悪戯心が胸をくすぐった。この世界には僕しかいない。つまり、ここで信号無視をしたって僕を咎める人間などいないのだ。

急ブレーキをかければ止まれるギリギリまで逡巡が続いた。そして……僕はアクセルをぶん回した。誰も通っていない田舎の深夜のような交差点を猛スピードで走り抜ける。爽快で、悪いことをしたという興奮が背筋を撫でた。こみ上げるままに漏れた笑い声が通った道に残されていく。それすらこの上なく愉快だった。




 それからは、なし崩しのように所謂犯罪行為を重ねた。といっても、スーパーで盗みをしたことに関してはレジが開かなかったし、店員もいなかったのだから仕方ない。僕の好きなカップ麺がなかった腹いせに入口の自動ドアを壊したことは完璧な犯罪だが。エレベーターと同じく作動していた自動ドアは、僕が出る頃には閉じなくなってしまった。以前、近所の少年が開けっぱなしになるようにしていたのを思い出して試してみたが、どうやらセンサーがイカれたらしい。まぁ、僕以外いないのだから構わないだろう。あそこは僕専用の食糧貯蔵庫だ。

 会社に行って、会社の窓を全部割った。腹の立つ上司の机には腹の立つポイントをひたすら書き連ねてやった。説教が長い、女性社員と男性社員の扱いが違う、たまに加齢臭が酷い……等々、最終的に上司の顔が頭から離れなくなってきたので、机を蹴とばしておいた。ついでに社長室に行って椅子に座らせてもらった。最近新調されたばかりの黒い革張りの椅子は、立派な見た目ほど座り心地は良くなかった。動くたびにキュウキュウ音が鳴るので不快だ。椅子は座り心地が最優先だろう。

 残念ながら、銀行強盗は出来なかった。流石に銀行の厳重な金庫をぶっ壊すほどの破壊力は僕の身体には備わってはいない。ATMならば壊せるかと思って近くにあった植木鉢を放り投げてみたが、植木鉢の方が割れただけだった。どうやら車と同様、この世界のATMはゴリラでないと破壊できない仕様らしい。残念だが、別に構うことではない。この世界では貨幣なんて必要ないのだから。僕が最初に家から持ち出してきた財布も無用の長物になっている。

 デパ地下の試食コーナー巡りもやった。高そうなワインを棚から取り出して全て一口ずつ飲んだ。味の違いはいまいち分からなかったが、酒の味が強くなくて美味しかったのはたしかだ。勿論、その後の移動は全て飲酒運転。

 そこまでやって、ふと足が止まった。確かに僕は今、好き勝手な一日を送っている。しかし、それは本当に僕がやりたかったことなのか。僕がやるべきことなのか。僕がやっていいことなのか。

 ふと背後から視線を感じた気がした。しかし、振り返った先にいたのはショウウィンドウに映った自分の怯えた顔だけだった。

自分は見てるって? バカバカしい。

昔、祖母に言われたことを頭の中で否定しながらスクーターにまたがった。そうだ、花火でもしよう。綺麗で派手なものを見たら気分が晴れるかもしれない。確かおもちゃ屋さんに年中売っていたはずだ。そう決めてハンドルを目的地に向ける。目の前に見えた赤信号は逃げるように走り去った。

 おもちゃ屋には人数が書かれた色とりどりの花火が売られていた。僕は一番数字が大きい、打ち上げ式の花火も入っている袋を手に取る。昔はこれに誰が点灯するかで兄弟と喧嘩したものだ。二番目だった僕は「危ないから年上が」という兄と「末っ子に譲りなさい」という親のせいで一度たりとも火を点けさせてもらったことはなかったが。

 花火に追加してチャッカマンも手に取ると、もう慣れた動きで無人のレジの隣を通った。マンションの横にある小さな公園でやろう。ファミリーマンションの近くなせいか、わざわざ花火禁止の看板があるのはよく覚えている。あそこの前でやればいい。




 朝以来に戻ってきたマンションにスクーターを停め、花火とチャッカマンだけを持って公園に行く。水場はないが、小さな砂場があったはずだ。そこで火は消せるだろう。

 いつもは子供と母親で一杯になっている公園は、静かにブランコが揺れていた。滑り台とブランコ、砂場だけがある簡素な公園には異様なほどベンチは沢山ある。井戸端会議をしている奥さんをよく見るのはそのせいなのだろう。隣のマンションに住んで十三年になるが、そんなことも知らなかった。

 雑に粘着テープの袋を剥がし、中から手持ち花火を取り出す。打ち上げ花火は最後がいい。

「……」

 無言で色鮮やかな炎を見つめる。気まぐれで足元の砂や石を焼いてみた。頭の中で親が「足を焼くんじゃないよ」と叱ってきた。青、赤、黄色、緑……どの炎色反応を見ても子供のころのように心は踊らなかった。二本見てしまえば、そこで手持ち花火は飽きた。どうして昔の自分はあそこまではしゃいでいたのだろうか。今となってはそんなことも分からなかった。

 代わりに、昔は親にイヤイヤ渡されていた線香花火をやってみた。最初はただの球体だったのに、じっと待っているとパチパチ火花が舞う。最初の二本のような煌びやかさも、勢いもないはずなのに、静かに見入ってしまうような不思議な感覚があった。一本目は半分ほどで風に吹かれて落ちた。二本目は身じろぎして落としてしまった。三本目も同じ。最後の四本目は息を止めて指先に全神経を集中した。この時ばかりは、今自分の置かれた状況を忘れていた。ただ、目の前で弾ける小さな命に縋っていた。

 しかし、花火の寿命は儚いものだ。根元まで燃やしても数十秒で終わってしまう。ただ、僕にとってはその数十秒は、今日が始まってから一番長いものだった。

 小さな火球が砂に落ちた瞬間、僕はそれを吹き飛ばさん大きさで息を吐いた。酸素が一気に身体を駆け巡る。生きている、そう感じた。

 視線が残された打ち上げ花火の方に向いたが、もうそこに僕の興味をそそる何かはなかった。

 額に滲んだ汗を拭いながら頭上を見上げる。太陽は、まだそこにあった。僕が起きてから散々遊び回ってもそれほど時間がたっていないのか。いや、そんなはずはない。

「そっか、夢だもんな」

 そう、これは所詮夢だ。きっと僕がこれから家に帰って布団に入って眠りについたって、太陽は依然空で輝き続けているだろう。それがたまらなく虚しかった。

 僕が世界に与えられるものなどありはしない。どんな権限を与えられようと、僕の想像を超えることなんか起りはしない。夢の中でさえ、僕は僕の世界から抜け出せないでいる。

 何をしても褒められない。何をしても叱られない。何をしても、誰も僕のしたことを認知してはくれない。

 叫び出したい衝動にかられながら僕は走った。がむしゃらに足を動かし、マンションに駆け込む。エレベーターは使わなかった。たった四階しかないマンションだから、屋上まで登るのもあっという間だった。

 乱れた息をそのままに、何かに突き動かされて柵に手をかける。

 ここは僕の世界だ。だったら、終わらせる方法なんてひとつしかないだろう。

 躊躇いはなかった。ただ、早く終わらせたかった。

 そして、誰かの声が聞きたかった。


 

 

 

 










「第一〇三番、死亡しました」

「そうか。ではいつも通り、待機中の次の者に移行するように。報告書は一週間以内だ」

 デスクに座ってモニターで飼い猫を見ていた上司は、事もなさげにそう言った。僕の顔を見ることもないその様子はいつもの通りだし、今更特筆すべき点ではない。

「了解です」

 僕が言うセリフもいつもと変わらない。

 ヒトが一人死んだのに、と僕も最初の頃は上司や先輩の反応を見て感じたものだ。しかし、正しくは死んだのはヒトではない。僕が観測していたのは、僕がここで働く条件として差し出した僕自身の記憶。それを植え付けられた人工知能の行動だ。僕の記憶を持ちながら、あらゆる場面に放り出され、その状況下でどう対応していくかということを観察する実験場……それがこの施設であり、僕の現在の職場というわけだ。

つまり、誰も死んではいない。死んだのはあくまで電子世界の僕の形をした別のもの。だからと言って、ヒトの形をしたものがモニター越しに死んでいくのを眺めるのはいい気分ではない。先輩たちのように、慣れてしまえば別なのだろうが。

 上司の部屋を出て病院のように真っ白の廊下を歩く。こうして真っ直ぐな廊下を歩いていると、先ほどまで観察していた僕の映像を思い出した。

 廊下。それは何処かに繋がっており、今とは別の場所に向かうための通路だ。しかし、あの世界では主人である人間が認知している以上のものは存在しないことになっている。リソースの問題だとか、難しいことを入社当時に言われた気がするがよく覚えていない。理由はどうでもいい。あの世界では、廊下は実はどこにもつながっていない。重要なのはその事実。

 僕が今歩いている廊下は、本当にどこかに繋がっているのだろうか。毎日歩いていることは繋がっている証明にはならない。なぜなら、繋がっていると感じた時点でそこは僕が認知した世界でしかないのだから。もしかしたら、僕は自分を観察している自分という「もしも」を観察されている僕かもしれない。

 それを確かめる方法はない。でもこの世界を終わらせる方法はひとつだ。

 ほら、そこに丁度いい窓がある。

「……なーんてね」

 まだ、その選択をしたいとは思わない。そう言える間は大丈夫だ。

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