第五話   伝播する呪縛 Ⅱ

 二日続けて合奏練習をしない訳にはいかない。そもそも昨日は部員達もほとんど楽器を吹いていないのだ。今日も限られた時間の中にあっては、いつもと同じ感覚でゆったり個人練習をするのではなく、ハードな基礎合奏練習で密度を上げた方が良い。

 俺もそこまではなんとか考えが及んだ。しかし基礎合奏は淑乃に任せればいいとして、その後楽曲を指揮できるのかと問われれば、自信を持って肯定できるような精神状態とは到底言えなかった。

 それでも俺は指揮台に立たなければならない。ここまでぐちゃぐちゃな感情を抱えたまま指揮棒を振るのは、それこそ十年前に退部を決意した時以来である。直近では合同演奏会の本番前も怪しかったけれど、あの時は動揺が大きかっただけだ。今は状況が全く違う。渋川も心配だし、京祐に至っては安否すらわからないのだ。

 ――そんな中で聞く『幻想交響曲』は、かつて俺が喩えた通り「麻薬」でしかなかった。

 まるで俺自身が『ワルプルギスの夜』に放り込まれたような錯覚すらあった。こんな状況でも無理矢理ポジティブなことを言うなら、そこまでのリアリティを醸し出す部員達が素晴らしいのだろうが、正常な思考が働いていない俺が褒めたところで無価値である。

 というか、錯覚なんかじゃない。俺が今、悪夢の中にいるというのは紛れもない事実なのだ。

「……よし、今日はここまでにしよう」

 ふらふらになりながら、時間の経過に伴い俺は合奏を終わらせた。まともな指導ができたかどうかなど、言うまでもない。「合奏をする」という行為そのものが奏者達のアンサンブルの感覚を維持させただけで、そこに何か積み上げがあった訳ではないのだ。

 どう見ても様子がおかしい俺のことを、当然部員達は不審に思っただろう。もともと練習が大好きな変態集団なので、半日で撤収するとなれば消化不良を起こしてイライラする者もいるかと思っていた。しかし、俺が消化不良どころか脱水症状のようにげっそりしているので、話し掛けてくる部員すらいなかった。合宿二日目の朝に俺を奇襲してきた三年生達も、あの時のような悪戯っぽい明るさは皆無だ。普段から切れ味の鋭い淑乃や芽衣まで萎縮してしまっているように見えたので、これはもうよほどのことである。

 そして、美月の件があって以降、含みを持たせた視線を俺にぶつけ続ける玲香は常に何か言いたそうな顔をしていた。

 昼食の用意をしていた部員もいたので、解散はそれを待ってからにした。台風のスピードが遅いらしく、この辺りは夜の始めくらいから雨風が激しくなるようだ。撤収時間を伝えたことで、部員の中にはさっさと食事を済ませてギリギリまで練習する者もいる。なんと立派なのだろう。

 俺はというと、何も手につかず音楽準備室でぼうっと虚空を見つめていた。粗大ゴミと同じだ。

 頭の中では、『ワルプルギス』のフレーズがループしている。イヤーワーム、とか言ったか。チューバが奏でるどっしりとしたメロディーだ。モチーフはグレゴリオ聖歌の「怒りの日」である。キリスト教における終末の日――全ての人間が、天国と地獄のどちらに行くか審判を受ける最後の日のことだ。『幻想交響曲』では、現世で「憧れの人」を手に掛けてギロチンの刑に処された主人公が死後の世界に飛んだということをパロディ的に表現するために用いられている。

 そんな物騒な旋律が脳内で流れ続ける理由は、俺に後ろめたいことがあって、今後「生か死か」みたいな審判が待ち受けているのだと感じるからに違いない。チューバ吹きの京祐が大変な事態になっていることも一因だろう。

 今、最も気になるのは彼のことだ。事故に遭って病院に運ばれたことしかわかっていないので、良からぬ想像まで頭をよぎる。もちろん、こんな状態で部員になど言えるはずもない。とくに懐いている低音パートの面々は、ショックでまともに楽器が吹けなくなるかもしれないのだ。バンドの底を支えるパートが崩れるということは、バンドそのものの瓦解を意味する。

 無意識のうちに、俺は両手を合わせて祈るように目を閉じていた。

 ――瞑想を中断させたのは、これまで一度も鳴ることのなかった内線電話のコールであった。ナンバーディスプレイに映るのは、第三職員室の文字だ。

「もしもし」

『恭洋? 今しがた京祐の家族から連絡が来たわ』

 電話越しの絵理子のセリフを聞いて、俺は反射的に立ち上がった。

「無事なのか!?」

『落ち着いて。命に別状は無いみたいよ』

 今度は力が抜けたように着席する。

「良かった……」

『もし詳しい話を聞きたいなら今すぐ来て。いい? 今すぐよ』

「わかったよ」

 急かされるまでもない。受話器を置いた俺は、その瞬間から全速力で走り始める。

 慌てて準備室のドアを開けて転がるように廊下へ出ると、帰宅する準備をしていた部員が何事かというような目を向けてきた。

「気をつけて帰れよ!」

 それだけ叫ぶと、俺はそのまま第三職員室を目指す。廊下は走らない、などと行儀の良いことを言っている場合では――。

「きゃっ!!」

「うわ!!」

 ――角を曲がった瞬間、出会い頭の事故のように誰かとぶつかった。

 そして。

 ガシャン、と無機質な落下音が響く。

 それは俺がこれまで生きてきた中で、もう二度と聞きたくないと思った音。

「あ、ああ……」

 俺と衝突した玲香が、絶望的な声を漏らした。

 ほんの数秒で、発生した出来事の全容が理解できてしまった。

 背後からは、残っていた部員達の視線を感じる。その先にある物を、俺と玲香も見つめていた。

 ――無残にも廊下に転がる玲香の譜面台。そして、その下敷きになっている彼女のフルートを。

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