やっぱり俺は死んだ方がいいかもしれない。

「ちょっとあんた、何してんの!?」

 耳に届いたのは、二日ぶりに聞く日向の声だった。

「ああ……。世話になったな」

「ふざけんな!」

 俺の自宅であるところの、古びた洋館。無駄に広いこの建物なら、首を吊り放題である。

「一回しかできないだろ!」

「いやそういう意味じゃなくて」

「とにかくその手に持ったロープをこっちへ寄越して! 早く!」

 掴みかかってきた日向を押しのけるだけの力も残っていなかった俺は、なされるがままにロープを奪われる。

「あんた本当バカじゃないの!?」

「バカだよ」

「知ってるよ!」

「……」

 二階の廊下で修羅場を繰り広げた俺達であったが、その後日向に連れられ、俺は寝室に収監された。

「――つまりこの数日間で、翡翠館高校吹奏楽部は会合で晒し上げられ、美月は喘息の発作に見舞われ、理事長先生は緊急入院して黒星さんも事故に遭ったと。極めつけに玲香のフルートは壊れちゃったって訳ね」

 ……もう本当に死にたい。

「それだけじゃねえよ。絵理子は辞めるとか言ってるし、お前だって消えるとか言い始めただろ。プレストは謎の臨時休業だし、台風のせいで練習も減った」

 ぼそぼそと供述する俺を、日向は複雑そうな目で見つめている。

 ――時刻は夜の八時を回っていた。外では、ただでさえ老朽化の進んだこの洋館を痛めつけるような荒々しい雨風が続いている。

 数時間前のショッキングな事件を引き起こした俺を責め立てるように、屋内でも轟々と風の音が響く。

 玲香の件だけじゃない。並べてみれば一目瞭然だが、見事に俺の知り合いが次々と不幸に見舞われているのだ。

「少なくとも台風は関係無いでしょ。それにあたしや絵理子先生は不慮のアクシデントとは違うし」

 日向が冷静に指摘した。

 だが俺にとって、彼女の言葉はなんの気休めにもならない。

「美月や京祐は? 玲香に至っては完全に俺のせいだろうが!」

 事ここに及んで日向に八つ当たりをしている俺は、救いようの無いクズだ。

「だからって死ぬことはないでしょうが。どうしていつもはイライラするくらいまどろっこしいのに、絶望的な決断だけはメーターが振り切れる勢いで高速なの?」

 そんなの、絶望的な状況だからに決まっているだろう。

 玲香の楽器は、数カ所のキーが完全に外れてしまったのだ。急いで楽器店に電話したものの、応答したのは定休日を告げるアナウンスだった。とことんタイミングが悪い。ただ、もし修理の依頼ができたとしても、県大会の本番までに間に合うかは微妙だった。

 また、京祐は今朝運転中に後続車両から突っ込まれたらしい。加害者は典型的な脇見運転だったらしく、鞭打ちと打撲を負った京祐はしばらく絶対安静の状態とのことだ。骨折などの大怪我を負わなかったのは不幸中の幸いだが、こちらも県大会の前に練習指導を行うのは無理そうだ。

「玲香、楽器どうするの?」

「……明日、俺の楽器を持っていく。玲香さえ良ければ、とりあえず使ってもらうことにするよ」

 厳密に言えば俺のではなく父の遺品の一つなのだが、細かい話はどうでもいい。

「あんたさ。全然絶望的なんかじゃないじゃん。ふざけてんの?」

 日向は心底見損なったと言わんばかりに呆れた目をしている。

「病院組は命まで取られた訳じゃないし、玲香の実力なら楽器が変わったって大丈夫でしょ」

「なんでそんな楽天的なんだよ。じゃあ指揮者の件は? いろいろ起こり過ぎて、まだみんなに伝えられてすらいないんだぞ」

「それはあんたに勇気がなかったからじゃん」

「簡単に言うんじゃねえよ!」

「じゃあこのままメソメソ引きこもって、状況が良くなるって言うの!? 意味わかんないんだけど!」

「引きこもってた方が、これ以上のトラブルを回避できるかも――」

 日向と泥沼の応酬を繰り広げていると、突然腰のあたりに激痛が走る。

「……痛ってえな」

 苦悶の表情を浮かべる俺の額には脂汗が滲んだ。

「ち、ちょっと、大丈夫……?」

 さすがの日向も心配している。

「やっぱり、これは呪いなんだ」

「……」

 患部を擦りながら、俺は小さく呟いた。

 そこは言わずもがなかつて刺された場所だ。

 きっと、十年間も大人しくしてたことで弱まっていただけなのだ。こうして再び他人と関われば、最初から決まっていたことのように災厄が発生する。

 何故このタイミングなんだろう。

 もう少しだけ待ってくれてもいいじゃないか。

 部員達がようやく認められようとしているのに。

 彼らはただひたすらに音楽が好きなだけなのに。

「どうして、今なんだ……」

 古傷が疼き続けるのを無視して、俺は固く拳を握った。爪が皮膚に食い込む感覚も、もはや無かった。

 瞳からは勝手に涙が流れる。悔しさや悲しさがそうさせるのか、はたまた罪悪感や劣等感が駆り立てるのか、俺にはもう何もわからない。

「なあ、いったい俺が何をしたって言うんだよ」

「……」

「こんな人間がまだのうのうと生きていてもいい理由を、教えてくれよ……」

「……」

 暗黒の象徴みたいなセリフを太陽のような少女である日向に浴びせるという行為は、禁忌を侵しているとしか表現できないほど邪悪であった。もし再び彼女のワンピースが漆黒に染まることがあれば、それはきっと俺の存在が原因に決まっている。成仏しかけている日向を地縛霊たらしめているのが、俺という男なのだ。

「お前が最初に言ったことが、やっぱり正しかったんじゃないか」

「……なんの話?」

「半年前の吹奏楽部の惨状も、楓花やお前の事故も、諸悪の根源は俺だったってことだろ」

「それはあんたを焚きつけるための方便だってば」

「じゃあ今の状況はどう説明するんだ?」

「だから、まだ絶望的な状況なんかじゃないって――」

「この後もっとひどくなるに決まってるだろうが!」

 俺と日向の会話は全く噛み合わない。それはそうだ。俺は問題が起きたこと自体に目を向けていて、日向は起きてしまった問題をどう乗り越えようかと考えているのだから。どちらがまともな思考をしているかなど、問うまでもない。

 だが、まともである日向ですらどこか悔しそうに下を向いてしまった。

 コンクールの地区大会が終わって、二週間足らず。

 たったそれだけの時間で、俺はまた組織を潰してしまったのだ。

 皮肉にも、智枝が玲香へ言った通りになった。死神は災厄をもたらす、と。

 ――心なしか、外の雨が弱まってきたような気がする。室内にまで響いていた暴風も収まりつつあった。それでも、しばらく無言を貫く俺と日向にとって気まぐれな雨風の音は耳障りであった。

 これまで散々爆音を鳴らしてきたコンポが、今はひっそりとオブジェのように佇んでいる。その横に置かれた時計を見ると、ちょうど九時を過ぎた頃だった。まだ就寝していない者の方が多いだろうと推定した俺は、ポケットからスマホを取り出して文章を入力し、部員宛に一斉送信する。

 内容は至極シンプルだ。『明日は集合次第ミーティングを行う』という、たったそれだけ。

 珍しく、考えるよりも行動が先になった。

 ただ、ぐちゃぐちゃに乱れた頭ではあれこれ思考するなどできるはずも無い。

 ミーティングの内容を検討し始めた瞬間、俺は逃げるように眠りに就いた。


 ♭


 どこかで見たことのある白い階段を、俺は淡々と下り続けている。辺りは真っ暗闇で、階段だけがぼんやりと不気味に発光している。背景に流れるのは『幻想交響曲』の第四楽章、『断頭台への行進曲』である。

 俺はこれが夢だとわかっていながら、どんどん下に向かう己の足を止めることができない。

 春先に栄養失調で生死の境を彷徨った際に見た景色を彷彿とさせるが、何もかもが正反対だった。

 黄昏に染まる美しいグラデーションと天国に向かうような軽い足取り。そして背景に流れる『ザ・グレート』の響き。そんなロマンティックな要素は皆無である。

 まるで俺自身が断頭台に向かっているようだった。この楽曲が作曲された当時は、処刑も立派なエンターテインメントである。観衆を煽るように響く勇壮な金管楽器のファンファーレと、罪人を責め立てるティンパニのロールが容赦無く俺に降り注ぐ。

 テンポが上がると、突如として数段先にギロチンが現れた。

 周囲に誰かがいる訳ではない。俺は自らギロチンへ首を差し出していた。

 ふっと音が消えると、クラリネットが儚く『憧れの人』のモチーフを奏でる。

 ――次の瞬間、研ぎ澄まされた刃が俺の首を刎ね飛ばした。

 高く舞い上がった首は重力に逆らえずそのまま落下し、白く光る階段を真っ赤に染めながら、弦楽器のピチカートのリズムに合わせて転がっていく。

 その先には、ただ深淵の闇が広がるばかりであった。首だけになりながらも意識を保っている俺は為す術も無く、吸い込まれるように闇の中へ堕ちていった……。

「――ああああああ!!」

 絶叫と共に、俺は目を覚ました。反射的に右手が首元を擦る。

 当然、皮は繋がっていた。

「はあ、はあ……」

 喉がカラカラに渇いている。寝汗もひどい。だが起きたばかりにも関わらず、目だけははっきり冴えている。

 そんなギラギラした瞳が時刻を確認する、と。

「あああああ!?」

 間抜けにも、俺はもう一度叫んだ。

 完全なる寝坊であった。

 ――準備もそこそこに、俺は家を飛び出す。日向が起こしてくれれば、という大人げない責任転嫁も多少あったが、そもそも彼女の姿は無かった。最近、彼女が消える頻度は格段に増えている。

 台風一過の例に漏れず、朝から雲一つ無い青空が広がっている。濡れた路面の上を走りながら、俺は「断頭台」の夢に思考を巡らせた。

 恐ろしかったのは、首を刎ねられたことではない。俺自ら首を差し出したということに鳥肌が立つ。まるで現実世界においても、深層心理では俺が誰かに介錯されたがっているのだという暗喩に思えた。そしてその介錯の現場こそ、俺自身が招集を指示したミーティングなのではないか。

 無意識のうちに、俺は断罪されることを望んでいたのかもしれない。今回は十年前と違って、勝手に逃げられないから。

 そこまで考えて、俺はある事に思い至った。

 そもそも、コンクールの自由曲に『ワルプルギスの夜の夢』を選んだのは、果たして正しかったのだろうか?

 翡翠館高校吹奏楽部そのものが、十年前に『断頭台』で絶命したようなものなのだ。

 復活を期するのであれば、その続きを演奏するというのはあまりに縁起が悪い。だって、復活も何も無い訳だ。死後の世界が『ワルプルギスの夜』なんだから。

 このところ俺はこの曲のフィナーレの解釈についてずっと思い悩んでいる。結局、悪夢は醒めないし、狂気は最高潮に達するし、モチーフとなった主人公に救いなんてものも無い。それにも関わらず熱狂のフィナーレを飾るのは、まるで純真無垢で清楚の象徴みたいなハ長調――単純明快な「ドミソ」のフォルテシモなのだ。

 この部分の解釈だけが、どうしてもわからないのである。

 普通、これだけグロテスクで前衛的で気が触れたとしか思えない音楽なら、もっとおどろおどろしい結末が待ち受けていないだろうか。もしそうであれば、俺も最初からそんな楽曲は選曲段階で見向きもしなかっただろう。

 頭の中で、次から次へと良からぬ仮説が浮かぶ。

 もしも取り憑かれたように練習する部員だけが、この楽曲の中毒になったのではないのだとしたら。

 もしも『断頭台』を演奏した十年前から、俺自身も麻薬に侵され続けているのだとしたら。

 もしもこの楽曲のフィナーレが、『悪夢は終わらない』ことを表現しているのだとしたら。

 ――翡翠館高校吹奏楽部は、これからもずっと悪夢を彷徨うのではないのか。

「……おはよう」

 なんとか遅刻を免れたものの練習開始ギリギリで講堂に到着した俺は、虫の息になりながら挨拶した。

 既に部員は集まっていた。心の準備も無いまま、指揮台の上に丸椅子を置いて腰掛ける。先ほどまで考えていたことは頭の隅に追いやって、怪訝そうに俺を見る部員達と対峙する。

「急に集まってもらって悪いな。実は、みんなに大事な話があるんだ」

 指揮台の上では、ほんの少し冷静さを取り戻すことができた。

 俺は、素直に事実だけを述べることにした。

「県大会の指揮は、絵理子に振ってもらうことになった」

 そう告げた瞬間、部員達の間に動揺が広がる。

「ちょっと、どういうこと?」

 第一声は最後列から上がった。

「淑乃ちゃん、もう少し話を聞こうよ……」

「話も何も無いでしょ!? なんでこんな直前に指揮者が変わるの!?」

 隣に座る萌波が宥めたが、淑乃は物ともせずに逆上する。これでは萌波がかわいそうだ。ただ、部員の大半は淑乃と同じ気持ちなのだろう。責めるような視線がそこら中から俺に突き刺さる。

「県の理事会で決まったことなんだ。俺はコンクールの指揮者に相応しくない、だと」

 力無く呟くと、皆から次々と質問が飛んでくる。

「誰がそんなことを言ったんですか?」

「じゃあ、どうして地区大会は出演できたんですか?」

「練習も絵理子先生が指揮するんですか?」

「秋村さんはその場にいたんですか?」

「あの絵理子先生が、自由曲を振れるんですか?」

 収拾のつかなくなった状況に俺が狼狽していると、目の前に座る一人の部員がすっと立ち上がった。

 ぴたりと声が止む。

 この場にいる奏者の中で、唯一楽器を持たない部員――玲香が俺をじっと見据えた。

「そんなことを急に言われても困ります。別にこのままあなたが振ればいいじゃないですか」

「……それはできない」

「できない? そんな外野の一言で、簡単に指揮棒を誰かに譲るんですか?」

「……」

「わかりました。結局、あなたもその程度の気持ちだったんですね」

「そんな訳ねえだろ」

「じゃあ振ってくださいよ!」

「だから無理なんだよ!」

「どうしてですか!?」

「失格になるからだ!」

「……は?」

 俺の口から飛び出した言葉に、玲香だけでなく部員全員が固まった。

「し、失格って……」

 玲香の後ろに座る璃奈が震えた声を上げた。

「ねえ、それ誰が言い出したの? 誰が決めたの? 教えなさいよ!」

「淑乃ちゃん、落ち着いてってば……」

 思わず立ち上がった淑乃を、必死で抑える萌波。

 淑乃の質問に答えることはできない。どう考えても躑躅学園の名前を出すべきではない。あの温厚な京祐ですら乗り込んで抗議をすると豪語したくらいだ。血を見るような事態になってもおかしくない。

「淑乃、それを知ってどうするの?」

「決まっているでしょ!? 殴り込みに行くのよ!」

「そんなことをしたら、出場そのものができなくなるでしょうが!」

 玲香が叫ぶと、共鳴したティンパニが微かに響く。

 淑乃は何も言い返せない。

 講堂は静寂に包まれた。

「――聞くべきなのは、そんなことじゃない」

 沈黙を破ったのは、再び俺の方を向いた玲香だ。

「秋村さん。今の話って、いつ決まったんですか?」

 彼女の目には不審の色しか浮かんでいない。

「……合宿の、二日目だ」

「どうしてすぐに言ってくれなかったんですか?」

「それは……」

 明確な意図や理由などない。トラブルが続出したのを言い訳にして逃げていただけだ。

 俺が言葉を濁すせいで、玲香は途方に暮れたように困惑している。

「とにかく、俺は本番に出場できないんだ。もしも今日の練習から絵理子が指揮をした方がいいと思う者が多ければ、それに従うよ」

「あなたはどうするんですか?」

 強引に話を纏めようとした俺に、玲香が無機質な声を上げる。

「本番だけ絵理子が指揮をするのであれば、練習は今まで通り俺が振るよ。どちらにしてもセクション練習は俺が見る。京祐もいないしな……あっ」

 俺は正真正銘のバカだ。うっかり彼の名前を出してしまった。まだ部員達は何も知らないのに。

「え? 黒星さんは今日来てくれるはずですよね?」

 案の定、低音パートから質問が飛ぶ。

「いや、あの……」

 しどろもどろの俺を見る皆の目が、いっそう厳しくなった。

「あいつは、昨日事故に遭ってしまって……。命に別状は無いんだが、練習を見てもらうのは難しいんだ」

「そ、そんな……」

 部員の中には察しが良い者もいるようで、薄々俺が原因なのではないかと感づいているように見えた。

「絵理子先生は、なんともないの?」

 その中の一人であるホルンの芽衣が、いつもよりも刺々しい雰囲気を放ちながら尋ねる。

「絵理子は大丈夫だよ。あいつにも何かあったら、県大会どころじゃなくなる」

 退職の件は俺から言うべきではないし、今すぐどうこうする問題でもない。俺の回答を聞いて一同はほんの僅かに安堵したようだが、俺に対する不信感は消えていない。

 俺は静かに指揮台を下りた。

「この一番重要なタイミングで、色々と迷惑を掛けて申し訳無い。この通りだ」

 深々と頭を下げる。こんなことで許されるほど甘くないことは、自分が一番よくわかっている。それでも、言いたいことだけ言って勝手に音楽室を飛び出した十年前と同じようなことはしたくなかった。

 それこそ、断罪されるならそれでもいい。コンクールの主役である奏者の総意なら、どんなことでも受け止めなければならない。それが指揮者の責任なのだろう。

「……今日の午後は、全て合奏練習でしたよね?」

 頭上に玲香の声が響く。

「あ、ああ。そのつもりだ」

 顔を上げると、目の前に玲香がいた。

「とりあえず、今日は秋村さんが指揮を振って下さい」

「……わかった」

「それから、今日は一時間早く練習を切り上げてもいいですか?」

「え? ああ、構わないが……」

「みんなで一度ミーティングしたいので」

「そうか。わかったよ」

 こんな時に場違いなことを感じるのは不謹慎だが、本当に玲香は部長らしくなった。

 彼女が言うなら、俺に断る権利など無い。この一大事なのだ。ミーティングだって必要に決まっている。

「みんな、そういうことだから。限られた時間を大切にしましょう」

 玲香の言葉で、この場はお開きとなった。

 部員達は動揺を隠せないまま講堂を出ていく。

「それで、秋村さん」

 そそくさと部屋の隅に避難してじっと固まっていた俺に、玲香が寄ってきた。

「楽器は持ってきてくれたんですよね?」

 頭が真っ白になった。

「音楽準備室ですか?」

「い、いや、その……」

 寝坊をして急いで学校に来たので忘れました、などと言おうものなら殴り殺される。

「二十分……いや、十五分だけ待ってくれ! 本当にごめん!」

 それだけ叫んで、俺は自宅へと走った。玲香の冷たいため息を背中に感じながら。

 ――午後の合奏は、俺にとって地獄のような時間だった。

「あれ、おい、どうしたんだ……」

 いくら鍵盤を押しても全く音が鳴らないハーモニーディレクターのトラブルに始まり。

 そういう時に限って課題曲の音程の乱れが気になり。

 自由曲に至っては本当に発狂しそうだった。今まさに悪夢の中にいる俺が、悪夢の音楽を指揮するのだ。執拗に繰り返される『怒りの日』と『魔女のロンド』が、俺の精神をごりごりと削っていく。

「八分音符の感じ方が甘い。もっと鋭く!」

 つい感情が昂ぶった俺は、普段なら絶対しないにも関わらず指揮棒で直接指揮台を叩いた。これではなんのために菜箸を用意しているのかわからない。ついこの前に菜箸ですら簡単に折れたということも、俺の記憶から完全に消えていた。

「クラリネット! テンポに追いついて――」

 パキン。

 ……カーボンで作られた細い指揮棒は、俺の目の前で容易く折れた。それはもう、綺麗なほど真っ二つに。

 自然と演奏が止まり、居たたまれない空気が流れる。

 もう限界だった。

 俺の心も、完全に折れた。

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