第六話   断罪のスケルツォ Ⅱ

 どこかで見たことのある白い階段を、俺は淡々と下り続けている。辺りは真っ暗闇で、階段だけがぼんやりと不気味に発光している。背景に流れるのは『幻想交響曲』の第四楽章『断頭台への行進曲』である。

 俺はこれが夢だとわかっていながら、どんどん下に向かう己の足を止めることができない。

 春先に栄養失調で生死の境を彷徨った際に見た景色を彷彿とさせるが、何もかもが正反対だった。

 黄昏に染まる美しいグラデーションと、天国に向かうような軽い足取り。そして背景に流れる『ザ・グレート』の響き。そんなロマンティックな要素は皆無である。

 まるで俺自身が断頭台に向かっているようだった。この楽曲が作曲された当時は、処刑も立派なエンターテインメントである。観衆を煽るように響く勇壮な金管楽器のファンファーレと、罪人を責め立てるティンパニのロールが容赦無く俺に降り注ぐ。

 テンポが上がると、突如として数段先にギロチンが現れた。

 周囲に誰かがいる訳ではない。俺は自らギロチンへ首を差し出していた。

 ふっと音が消えると、クラリネットが儚く『憧れの人』のモチーフを奏でる。

 ――次の瞬間、研ぎ澄まされた刃が俺の首を刎ね飛ばした。

 高く舞い上がった首は重力に逆らえずそのまま落下し、白く光る階段を真っ赤に染めながら、弦楽器のピチカートのリズムに合わせて転がっていく。

 その先には、ただ深淵の闇が広がるばかりであった。首だけになりながらも意識を保っている俺は為す術も無く、吸い込まれるように闇の中へ堕ちていった……。

「――ああああああ!!」

 絶叫と共に、俺は目を覚ました。反射的に右手が首元を擦る。

 当然、皮は繋がっていた。

「はあ、はあ……」

 喉がカラカラに渇いている。寝汗もひどい。だが起きたばかりにも関わらず、目だけははっきり冴えている。

 そんなギラギラした瞳が時刻を確認する、と。

「あああああ!?」

 間抜けにも、俺はもう一度叫んだ。

 完全なる寝坊であった。

 ――準備もそこそこに、俺は家を飛び出す。日向が起こしてくれれば、という大人げない責任転嫁も多少あったが、そもそも彼女の姿は無かった。最近、彼女が消える頻度は格段に増えている。

 台風一過の例に漏れず、朝から雲一つ無い青空が広がっている。濡れた路面の上を走りながら、俺は「断頭台」の夢に思考を巡らせた。

 恐ろしかったのは、首を刎ねられたことではない。俺自ら首を差し出したということに鳥肌が立つ。まるで現実世界においても、深層心理では俺が誰かに介錯されたがっているのだという暗喩に思えた。そしてその介錯の現場こそ、俺自身が招集を指示したミーティングなのではないか。

 無意識のうちに、俺は断罪されることを望んでいたのかもしれない。今回は十年前と違って、勝手に逃げられないから。

 そこまで考えて、俺はある事に思い至った。

 そもそも、コンクールの自由曲に『ワルプルギスの夜の夢』を選んだのは、果たして正しかったのだろうか?

 智枝も言っていたが、翡翠館高校吹奏楽部そのものが十年前に『断頭台』で絶命したようなものなのだ。

 復活を期するのであれば、その続きを演奏するというのはあまりに縁起が悪い。だって、復活も何も無い訳だ。死後の世界が『ワルプルギスの夜』なんだから。

 このところ俺はこの曲のフィナーレの解釈についてずっと思い悩んでいる。結局、悪夢は醒めないし、狂気は最高潮に達するし、モチーフとなった主人公に救いなんてものも無い。それにも関わらず、熱狂のフィナーレを飾るのは純真無垢で清楚の象徴みたいなハ長調――単純明快な「ドミソ」のフォルテシモなのだ。

 この部分の解釈だけが、どうしてもわからないのである。

 普通、これだけグロテスクで前衛的で気が触れたとしか思えない音楽なら、もっとおどろおどろしい結末が待ち受けていないだろうか。もしそうであれば、俺も最初からそんな楽曲は選曲段階で見向きもしなかっただろう。

 頭の中で、次から次へと良からぬ仮説が浮かぶ。

 もしも取り憑かれたように練習する部員だけが、この楽曲の中毒になったのではないのだとしたら。

 もしも『断頭台』を演奏した十年前から、俺自身も麻薬に侵され続けているのだとしたら。

 もしもこの楽曲のフィナーレが、『悪夢は終わらない』ことを表現しているのだとしたら。

 ――翡翠館高校吹奏楽部は、これからもずっと悪夢を彷徨うのではないのか。

「……おはよう」

 なんとか遅刻を免れたものの練習開始ギリギリで講堂に到着した俺は、虫の息になりながら挨拶した。

 既に部員は集まっていたが、俺が来なければ講堂に入れない。不審な視線を受けながら鍵を開けた俺は、心の準備も無いまま指揮台の上に丸椅子を置いて腰掛ける。先ほどまで考えていたことは頭の隅に追いやって、怪訝そうに俺を見る部員達と対峙した。

「急に集まってもらって悪いな。実は、みんなに大事な話があるんだ」

 指揮台の上では、ほんの少し冷静さを取り戻すことができた。

 俺は、素直に事実だけを述べることにした。

「県大会の指揮は、絵理子に振ってもらうことになった」

 そう告げた瞬間、部員達の間に動揺が広がる。

「ちょっと、どういうこと?」

 第一声は最後列から上がった。

「淑乃ちゃん、もう少し話を聞こうよ……」

「話も何も無いでしょ!? なんでこんな直前に指揮者が変わるの!?」

 隣に座る萌波が宥めたが、淑乃は物ともせずに逆上する。これでは萌波がかわいそうだ。ただ、部員の大半は淑乃と同じ気持ちなのだろう。責めるような視線がそこら中から俺に突き刺さる。

「県の理事会で決まったことなんだ。俺はコンクールの指揮者に相応しくない、だと」

 力無く呟くと、皆から次々と質問が飛んでくる。

「誰がそんなことを言ったんですか?」

「じゃあ、どうして地区大会は出演できたんですか?」

「練習も絵理子先生が指揮するんですか?」

「秋村さんはその場にいたんですか?」

「あの絵理子先生が、自由曲を振れるんですか?」

 収拾のつかなくなった状況に俺が狼狽していると、目の前に座る一人の部員がすっと立ち上がった。

 ぴたりと声が止む。

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