五
指揮者変更の件を伝える余裕も一切無く、合宿は後味の悪さを残して終わった。
美月がもしもの場合に備えて薬を持ち込んでいたのは、不幸中の幸いだった。絵理子に膝枕をされ、萌波に手を握られた美月は、俺が辿り着いた時には若干の落ち着きを見せていた。同じく喘息だった楓花の親友である絵理子が介抱してくれたのが大きかったのかもしれない。だが、大事を取って絵理子が美月を自宅まで送り届けた。父である汐田校長はたまたま出張中らしかったが、さすがお嬢様の家というか、夜分遅くだというのに勝手知ったる使用人さんがしっかり美月を引き取ってくれたらしい。
翌朝、美月の無事を部員に伝え一同は安堵したものの、とてもじゃないが練習するような雰囲気にはならなかった。合宿の二日間を乗り切ったことは事実であり、用意してあった朝食だけ済ませた後、そのまま解散となった。帰り際に玲香が俺へ何か言いたそうな視線を向けていたのが、チクチクと胸に刺さった。
「さっき美月から連絡が来たわ。病院に行って、もう大丈夫だって」
「そうか……」
「煙を吸ったのが良くなかったみたい」
そこまで気が回らなかった。苦しい思いをさせた美月への申し訳無さに胸が詰まる。
「校長には連絡が取れたのか?」
「ええ」
「なんだって?」
「無事であるなら、謝罪に来ることは無いって」
直接頭を下げたいと思っていたが、無理矢理押しかけるのも失礼だろう。
「わかった。学校にいる時に訪ねてみるよ」
「それが良さそうね」
部員達を見送った後の第三職員室。普段なら階下から聞こえるはずの音が無いだけで、大切な物が欠落したような、ぽっかりとした喪失感に見舞われる。
「いろいろと、ありがとう。助かった」
「別に」
絵理子は無愛想な返事をして、タバコに火をつけた。
「みんな寝不足だろうから、今日は疲れを取ってもらおう」
「私は?」
「もちろんお前もだよ」
京祐にも全て報告済みだ。日向は、朝には姿を消していた。
「俺も今日は休むよ。さすがに明日は例の件をみんなに伝えないといけないし」
「……そうね」
紫煙を吐きながら絵理子が頷く。
「指揮の練習は合間を見てやろう」
「しなくてもいい」
「は?」
「私には構わないで」
「いや、そうは言っても……」
「いいのよ。私の指揮なんて見ずに演奏した方が纏まるでしょうから」
さすがにそれは無いだろうと思ったが、過去に玲香や淑乃が酷評していたことも事実だ。それに、これ以上水掛け論を交わす元気も残っていない。
「わかった。じゃあ、また明日からよろしく」
最後にそれだけ言って帰ろうとしたのだが、「明日ねえ……」と意味深な呟きが聞こえた。
「なんだよ」
「知らないの?」
「何が?」
「台風よ」
「……えっ」
せっかくスマホを持っているのに、俺は初めて知った。これでは宝の持ち腐れ、豚に真珠だ。
「無職にスマホ」
「うるせえな!」
「明日の午後あたり、危なそうよ」
「マジか……」
そうなると、練習時間を短縮することも検討しなければならない。
「朝の段階でひどかったら、明日もオフにしよう」
「じゃあ、連絡もらえる?」
「わかった」
それだけ話すと、今度こそ俺は部屋を出る。
もしも明日がオフになれば、また指揮者の件が先延ばしになってしまう。悪いことほど早く言え、というのは社会人の京祐からの受け売りだが、本当にその通りだ。だんだん言いづらさが増していく。
まだ午前中だったので久しぶりにプレストへ行くと、臨時休業の張り紙がしてあった。
こんなことはこれまでにない。マスターに何かあったのだろうか……。
仕方なく俺は帰宅し、夢も見ないほど泥のように眠ったのだった。
♭
翌朝の天候は、あまりにも微妙だった。どんよりとした厚い雲が灰色の空を形成しているが、雨は降っていない。どうやら午前中は
午後の練習を行うかどうかは改めて判断することにして、予定通り部員は朝から練習に励んでいる。美月は念のため今日も休みを取ってもらった。
「やっぱり午後はやめておくか」
「そうね」
講堂でパーカッションの指導を行う前に音楽準備室へ立ち寄った絵理子と、簡単な打ち合わせを行う。
「今日も校長はいないのか?」
「そ、そうね……」
「ん?」
「出張が終わるとそのままお盆休みに入る予定みたい」
「なんだ、じゃあしばらく会えないじゃないか」
「ええ……」
どうも絵理子の様子がおかしい。
「体調でも悪いのか?」
「ううん」
「それならいいけど」
部員達へスケジュール変更の連絡をするためスマホを取り出した俺は、ふとあることを思いついた。
「一応合宿も終わったし、理事長に挨拶しとくか」
もともと渋川がお許しを出してくれたから実施できたので、礼を言うのは当然のことだ。それに、美月のことも報告しておくべきだろう。
「えっ!」
珍しく絵理子が驚いたような大声を出した。そんなに変なことを言った覚えは無いのだが。
「理事長は、その、今はいないわ」
「そうなのか? あの人も出張とか?」
「ううん……」
「休暇?」
「いや……」
「お前、さっきから何か隠してるだろ」
素行は良くない絵理子も、根は嘘がつけない真面目なタイプなので基本的に隠し事がヘタクソだ。
逆上されるかと思ったが、彼女は一度周囲を見回して人がいないことを確認してから俺に近づいた。
「ここだけの話にしてほしいんだけど」
改まってそう言われると緊張する。
「渋川先生、昨日の午後から入院してるの」
「――は!?」
「うるさい!」
小声で叫んだ絵理子の勢いに気圧され、思わず右手で口を覆う。
昨日の午後ということは、俺が疲労に負けて爆睡していた頃の話だろう。
「いったいどうしたんだ。大丈夫なのか?」
「軽い熱中症だって聞いた。もともと学校を休むことなんて滅多に無いくらい丈夫な方だから、大事にはならないと思うけれど……」
彼女の言葉に、ほんの少し安堵する。
だが、それでも心配であることに変わりは無い。
「どこに入院してるんだ?」
「楓花のいる総合病院よ」
何かと縁のある場所である。
「見舞いに行った方が……」
「控えるように言われてる」
「えっ」
全然大丈夫ではないじゃないか。面会謝絶だなんて、よっぽど重体なのでは……。
「ああ、違う違う。ご本人からの指示よ。おそらくすぐに退院できるだろうから、余計な気遣いは無用だって」
焦った俺に、絵理子はすぐ補足を加えた。たしかに渋川が言いそうなことではあるが、俺の不安は消えない。
たった二、三日で、いろいろと起き過ぎだ。
――すると、絵理子のスラックスのポケットから電子音が響いた。スマホを取り出した絵理子は着信元を確認して「京祐から」と呟いた。
「もしもし」
そうだ、彼にも今日の練習が半日になったことを伝えなければならなかった。もともと午前中は外せない用事があると言っていたので午後から来校することになっていたのだが、連絡する手間が省けて良かっ――。
「え? はい、そうですけど……」
……ん?
「はあ!?」
廊下いっぱいに絵理子の絶叫がこだまする。
「本当なんですか!? で、今はどういう状況なんですか!?」
今度はいったいなんだ。
京祐からかかって来ているはずなのに絵理子が第一声で敬語を口にした時点で、これ以上ないほど不穏だというのに。
「はい、はい。……わかりました。落ち着いたらまた連絡ください」
短い通話を終えた絵理子が、スマホを持つ右腕をだらりと下ろす。
もともと色白の彼女の顔も、今ばかりはいつにも増して蒼白であった。
「京祐に何かあったのか?」
俺の声も震えている。
「さっき、救急車で運ばれたって……」
「なっ」
鈍器で殴られたような衝撃が俺を襲う。
「ど、どういうことだよ」
「今朝、車を運転中に追突されたって……」
「はあ!?」
奇しくも、電話を受けた絵理子と同じリアクションになってしまう。
「無事なのか!?」
「わからない……」
「わからない、って……」
「今の電話の相手は、ご家族だったの。まだ病院に向かっている途中なのに、私に連絡をくれたのよ」
「そんな……」
つまり、詳しいことは何もかも不明だということだ。
目の前が真っ暗になる。
久しぶりに味わう感覚が俺を支配していた。
自分の手の届かないところで他人が不幸に巻き込まれていくことを傍観するしかない空しさも。
おそらくそれが俺のせいなのではないか、という確信めいた罪悪感も。
――次第に強くなる風が、ガタガタと廊下の窓を揺らす。
俺と絵理子はしばらくその場で立ちすくんだ。
もはや、交わす言葉も無かった。
♭
二日続けて合奏練習をしない訳にはいかない。そもそも昨日は部員達もほとんど楽器を吹いていないのだ。今日も限られた時間の中にあっては、いつもと同じ感覚でゆったり個人練習をするのではなく、ハードな基礎合奏練習で密度を上げた方が良い。
俺もそこまではなんとか考えが及んだ。しかし基礎合奏は淑乃に任せればいいとして、その後楽曲を指揮できるのかと問われれば、自信を持って肯定できるような精神状態とは到底言えなかった。
それでも俺は指揮台に立たなければならない。ここまでぐちゃぐちゃな感情を抱えたまま指揮棒を振るのは、それこそ十年前に退部を決意した時以来である。直近では合同演奏会の本番前も怪しかったけれど、あの時は動揺が大きかっただけだ。今は状況が全く違う。渋川も心配だし、京祐に至っては安否すらわからないのだ。
――そんな中で聞く『幻想交響曲』は、かつて俺が喩えた通り「麻薬」でしかなかった。
まるで俺自身が『ワルプルギスの夜』に放り込まれたような錯覚すらあった。こんな状況でも無理矢理ポジティブなことを言うなら、そこまでのリアリティを醸し出す部員達が素晴らしいのだろうが、正常な思考が働いていない俺が褒めたところで無価値である。
というか、錯覚なんかじゃない。俺が今、悪夢の中にいるというのは紛れもない事実なのだ。
「……よし、今日はここまでにしよう」
ふらふらになりながら、時間の経過に伴い俺は合奏を終わらせた。まともな指導ができたかどうかなど、言うまでもない。「合奏をする」という行為そのものが奏者達のアンサンブルの感覚を維持させただけで、そこに何か積み上げがあった訳ではないのだ。
どう見ても様子がおかしい俺のことを、当然部員達は不審に思っただろう。もともと練習が大好きな変態集団なので、半日で撤収するとなれば消化不良を起こしてイライラする者もいるかと思っていた。しかし、俺が消化不良どころか脱水症状のようにげっそりしているので、話し掛けてくる部員すらいなかった。合宿二日目の朝に俺を奇襲してきた三年生達も、あの時のような悪戯っぽい明るさは皆無だ。普段から切れ味の鋭い淑乃や芽衣まで萎縮してしまっているように見えたので、これはもうよほどのことである。
そして、美月の件があって以降、含みを持たせた視線を俺にぶつけ続ける玲香は常に何か言いたそうな顔をしていた。
昼食の用意をしていた部員もいたので、解散はそれを待ってからにした。台風のスピードが遅いらしく、この辺りは夜の始めくらいから雨風が激しくなるようだ。撤収時間を伝えたことで、部員の中にはさっさと食事を済ませてギリギリまで練習する者もいる。なんと立派なのだろう。
俺はと言うと、何も手につかず音楽準備室でぼうっと虚空を見つめていた。粗大ゴミと同じだ。
頭の中では、『ワルプルギス』のフレーズがループしている。イヤーワーム、とか言ったか。チューバが奏でるどっしりとしたメロディーだ。モチーフはグレゴリオ聖歌の「怒りの日」である。キリスト教における終末の日――全ての人間が、天国と地獄のどちらに行くか審判を受ける最後の日のことだ。『幻想交響曲』では、現世で「憧れの人」を手に掛けてギロチンの刑に処された主人公が死後の世界に飛んだということをパロディ的に表現するために用いられている。
そんな物騒な旋律が脳内で流れ続ける理由は、俺に後ろめたいことがあって、今後「生か死か」みたいな審判が待ち受けているのだと感じるからに違いない。チューバ吹きの京祐が大変な事態になっていることも一因だろう。
今、最も気になるのは彼のことだ。事故に遭って病院に運ばれたことしかわかっていないので、良からぬ想像まで頭をよぎる。もちろん、こんな状態で部員になど言えるはずも無い。とくに懐いている低音パートの面々は、ショックでまともに楽器が吹けなくなるかもしれないのだ。バンドの底を支えるパートが崩れるということは、バンドそのものの瓦解を意味する。
無意識のうちに、俺は両手を合わせて祈るように目を閉じていた。
――瞑想を中断させたのは、これまで一度も鳴ることのなかった内線電話のコールであった。ナンバーディスプレイに映るのは、第三職員室の文字だ。
「もしもし」
『恭洋? 今しがた京祐の家族から連絡が来たわ』
電話越しの絵理子のセリフを聞いて、俺は反射的に立ち上がった。
「無事なのか!?」
『落ち着いて。命に別状は無いみたいよ』
今度は力が抜けたように着席する。
「良かった……」
『もし詳しい話を聞きたいなら今すぐ来て。いい? 今すぐよ』
「わかったよ」
急かされるまでもない。受話器を置いた俺は、その瞬間から全速力で走り始める。
慌てて準備室のドアを開けて転がるように廊下へ出ると、帰宅する準備をしていた部員が何事かというような目を向けてきた。
「気をつけて帰れよ!」
それだけ叫ぶと、俺はそのまま第三職員室を目指す。廊下は走らない、などと行儀の良いことを言っている場合では――。
「きゃっ!!」
「うわ!!」
――角を曲がった瞬間、出会い頭の事故のように誰かとぶつかった。
そして。
ガシャン、と無機質な落下音が響く。
それは俺がこれまで生きてきた中で、もう二度と聞きたくないと思った音。
「あ、ああ……」
俺と衝突した玲香が、絶望的な声を漏らした。
ほんの数秒で、発生した出来事の全容が理解できてしまった。
背後からは、残っていた部員達の視線を感じる。その先にある物を、俺と玲香も見つめていた。
――無残にも廊下に転がる玲香の譜面台。そして、その下敷きになっている彼女のフルートを。
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