四
音楽準備室で深い眠りに就いていた俺の耳元で、トランペットとホルンの爆音が炸裂した。
「うるせえなあ……」
薄く目を開けると、枕元の両側で正座をしながら楽器を持つ女子高生が俺を見下ろしている。見ようによっては楽園的な光景かもしれないが、その目が全然女子高生っぽくないので楽園どころか事件現場みたいだ。
「朝から美少女二人を
右側に座る淑乃が自意識過剰なセリフを吐いた。
「美少女はそんなハンターみたいな目をしないだろ。ああ、オヤジ狩り的な意味か?」
そう返した瞬間、トランペットのフォルテシモが鼓膜を突き抜ける。
「美少女二人がメイドのように起床を手伝いに来るなんて、いい身分だね」
「そんな殺人的な起こし方をするメイドがいてたまるかよ。『冥土に送る』の間違いじゃないか?」
今度はホルンを持つ芽衣が、わざわざベルをこちらに向けて爆音をぶつけてきた。
「秋村さん、バカなんですか?」
「優一君、聞くまでもないよ。秋村さんはバカだよ」
この茶番を冷めた目で見ていた優一と萌波が、こそこそと話している。
「……今、何時だ?」
「は? 朝五時だけど」
「バカはてめえらだろうが!!」
なんてこと無いように答えた淑乃に向かって俺は絶叫した。
「お前ら、俺がいくら言っても日付を超えるまで練習してたよな? 俺の感覚ではついさっき寝たばかりなんだが? どうしてもう準備万端なんだよ!」
「今日の夜はバーベキューですから、あまり練習できないと思って。それなら朝早くからやればいいじゃないですか」
一見常識人っぽい優一まで頭のおかしいことを言い始める。
「『いいじゃないですか』じゃないんですよ。どうして音楽のことになると超優等生なんですか。普段そんな計画的なことしないでしょ、あなた達は。夏休みの宿題を最終日にやり始める人達でしょ、あなた達は!」
「……なんで先生口調?」
「きっと寝ぼけてるんだよ」
「ああああああああ!!」
どうしてこんな朝っぱらから発狂しなきゃいけないんだ。
「絵理子は?」
「寝てるけど」
「起こしたのか?」
「絶対反撃されるからそのまま」
「俺も反撃してやろうか!?」
飄々とコメントする芽衣にブチ切れると、騒がしい足音が近づいてきた。
「みんな、鍵は奪えた!?」
今度は璃奈か。
「『奪えた』ってなんだよ。やっぱりてめえら山賊じゃねえか!」
講堂の鍵のことだろうけれど、せめて「借りる」とか「もらう」とか、そういう動詞にはならないものか。
「……わかったから五分だけ待ってくれ。用意するから」
それだけ告げて奇襲部隊を部屋の外に追い出すと、俺は内側から鍵を掛ける。
せめてもう一時間は寝させてもらおう。
再び布団に寝転がって目を閉じた、その瞬間。
バシャーン!
「は!?」
けたたましいシンバルの金属音が降り注いだ。
犯人は紅葉だ。
「お前、いったい、どうやって……」
「いや、普通にあそこからだけど」
彼女の指が示した先には、第一音楽室とつながる扉があった。最初から伏兵がいたのだ。用意周到過ぎる。
「はあ……。じゃあ、これを持ってけ」
よく考えれば、鍵だけ渡してしまえば俺はまた安眠に戻れる。大人しく
「持ってけ、じゃないでしょ。早く行くよ」
「は?」
「『練習する時は必ず大人が監督する』って約束じゃないの?」
「あ」
今回、急な合宿の申し出を許可してくれた理事長の渋川であったが、当然いくつか条件が存在する。まあ条件と言っても、敢えて気をつけようと意識するまでもない常識的なものばかりだ。紅葉が言ったのはそのうちの一つで、そのくらい問題無いと思っていたのは事実である。しかし夜遅くまで練習することは想定していたが、朝もこんなに早いなど誰が予想しただろう。
「……わかったよ。せめて着替えだけさせてくれ」
先ほどと同じ手順で、紅葉を追い出し第一音楽室側の戸を施錠する。
その刹那、反対側の扉が開いた。
「秋村さん、おはようございます」
第二音楽室からこちらへ声を掛けたのは玲香だ。
「……」
「こんなに美少女達がお迎えに来てくれて――」
「もういいから!」
無感情な声で言われるとリアクションに困る。
というか、どこが楽園だ。こんなの捕虜収容所じゃないか。
「最初から準備室の扉に鍵を掛けておけば良かったですね」
「なんだその全くためにならない解説は」
「早くしてください」
「はあああああ」
紅葉には着替えと言ったが、ただの方便なので講堂に行こうと思えばすぐに行ける。自宅と同じように、俺の寝間着はこの高校のジャージだ。このままの格好でもなんら問題無い。
潔く負けを認めるしかないと腹を括り、布団だけ簡単に畳んでから部屋を出る。
真夏といえど、早朝の廊下は爽やかな涼しさに包まれていた。悔しいが、たしかにこの環境で練習するのは悪くないかもしれない。
すっかり目が覚めた俺は、玲香に連行されながら講堂へ向かう。
本当に囚人みたいだな、などと考えながらその後の練習を眺めていると、下級生達も続々とやってきた。熱心な奏者達には頭が下がる思いだ。
――そんな気楽なことを考えていられるのも、この時だけであった。
♭
「臨時招集?」
「ええ」
「こんな時期に?」
「ええ」
「……本当に?」
「しつこいわね!」
朝食後に絵理子から呼びつけられた俺は、第三職員室で意外な報告を受けた。
どうも、吹奏楽連盟が緊急の会合を開催するようなのだ。それも、この中部地区ではなく県の吹奏楽連盟である。
「議題は?」
「さあね。でも、招集されたのはコンクールの県大会に出場する高校の顧問だけよ」
「じゃあ十中八九、県大会のことか」
「わからないけどね」
絵理子は朝から一服している。退職するつもりだから、懲戒免職も怖くないということだろうか。面倒臭いマインドだ。
「で、いつなんだ?」
「今日の十時から」
「ふうん……え!?」
「何よ」
「もうこの後すぐじゃねえか!」
「いや、私に言われても……」
「あ、ああ。すまん……」
つい取り乱してしまった。
「連絡が来たのは?」
「昨日の夕方」
「そんな急に……」
「だから『緊急』なんでしょう」
絵理子の言い分はもっともだが、つまりそれだけ議題も重要な内容だということだ。
「場所は? そんな悠長にタバコ吸ってていいのか?」
「うるさいわね。躑躅学園なんだから、余裕で間に合うわよ」
「は!?」
「さっきからバカの一つ覚えみたいに奇声ばかり……」
「躑躅学園!?」
「あら、単語になったわ」
「そうじゃなくて!」
何故こいつはこんなに悠然と構えていられるのだ。
「今までにもこういうことってあったのか?」
「無い」
「マジかよ……」
「実際に出向くのは私なんだから、あなたが焦ったって意味無いでしょう」
「それはそうだけど……」
絵理子は吸い殻を片付けながら、じっと俺を見つめた。
「まあ私はこれまでもなるべく陰に徹していたし、今回も大人しくしているわ」
そんなところで陰気ぶりを発揮しなくてもいいと思ったが、だからと言って波風を立てるべきでもない。
「そういうことだから、パーカッションパートの練習はリーダーの紅葉に任せるわ。ごめんなさいね」
「あ、ああ。仕方無いよ。そっちもよろしく頼む」
今日もほぼ一日目と同じスケジュールだ。京祐もそのうちやって来るだろう。パーカッションはほとんど完成されていると言っても過言じゃないし、たまには自分達で練習するのも良いだろうからあまり懸念は無い。
「そろそろ音が鳴り始めるんじゃない? ちゃんと監督していないと強制送還させられるわよ」
「……わかった。会合の中身については、また教えてくれ」
そのまま職員室を後にした俺は、再び講堂へ向かった。
ちょうど京祐にも出くわしたので、会合の件を伝える。しかし彼はさほど気にした様子を見せなかった。それよりも目の前の練習が大切なのだろう。その熱意はありがたいが、俺の胸騒ぎは消えない。
――その後、絵理子が学校に戻ったのは昼前のことであった。
「なんだ、思ったよりも早かったんだ、な……」
軽い口調で言ったものの、俺の心臓はBPM二〇〇くらいの高速ビートを刻んでいる。
急いで四階まで上ったからだけではない。セクション練習中の俺を呼びつけるスマホのバイブレーションがあまりにもしつこかったのだが、そもそも滅多に電話を掛けない絵理子から着信が来る時点で違和感しかしなかった。それに練習中というのも気に掛かる。もう少し経てばお昼休みなのに、それすら待てないということだ。
また、俺と同じく京祐まで呼ばれているので、これはもう尋常で無い事態だと思わざるを得なかった。
両肘をデスクについて頭を抱える絵理子の姿が目に入ると、いよいよ覚悟を決めねばならないという気持ちすら湧いてくる。
「絵理子、いったい何があったんだ?」
こういう時、温厚な京祐が言葉を掛けるとほんの少し空気が柔らかくなるのでありがたい。
「あ、ああ……」
だが、絵理子の絶望的な表情が即座に空気を凍らせる。
俺はつい京祐と顔を見合わせてしまった。
「どうせもうすぐ休憩だ。ゆっくりでいいから話してくれないか」
京祐が気遣うと、絵理子は一度俺の方を見てから俯いた。
その仕草だけで、なんとなく察してしまう。
「やっぱり、俺なのか」
無意識に口から出た言葉のせいで、室内の雰囲気はいっそう淀んでしまった。
「おい。やっぱりってどういうことだよ」
まだ事情を飲み込めない京祐が、さすがに苛立った口調で俺を問い詰める。
「京祐、ちゃんと話すから」
俺に掴みかかりそうな勢いの彼の様子を見て、絵理子はようやく重い口を開いた。
「……今回の会合を招集したのは、智枝よ」
「なんだって?」
名前が出た瞬間、京祐が反応する。
「だから躑躅学園なのか」
「そういうこと」
「そんな権限が、あいつにあるのかよ」
「あの子本人には無いわね」
「じゃあどうして!」
「招集を具申したのが智枝だったから」
「いったい誰に!?」
「――芳川功雄」
絵理子と京祐の問答は、その名を最後にぶつ切れとなった。
時計の秒針が一周しても、俺と京祐は絶句したまま動けない。
芳川功雄だと?
どうしてここでその名前が登場するのだ。俺達の恩師である、その人物が。
「……芳川先生の転勤先って、躑躅学園なの」
俺はあまりの衝撃に声も出ないが、京祐は何か思い出したように顔を上げた。
「すっかり忘れていたが、そうだったな……」
「どうして忘れてたんだ?」
「顧問を引退したからでしょ。今の芳川先生は躑躅学園の教頭なの」
俺が疑問を口にすると、京祐に代わって絵理子が説明してくれた。
焦げつきそうな思考を無理矢理回転させて状況を整理する。躑躅学園吹奏楽部の顧問を三年前から智枝が務めているということは、その前が芳川先生だったと考えるのが自然だ。そして、智枝の率いる躑躅学園が昨年のコンクールで支部大会に出場したということも、芳川先生の後を継いだのであれば全然不思議なことではない。芳川功雄はレジェンドだと、当事者の俺達が一番よく知っているのだ。むしろ躑躅学園が芳川先生の時に県大会を抜けられなかったことが意外過ぎるほどである。
「でも、それなら芳川先生は今回の件とは関係無いだろ?」
京祐が腕を組みながら質問を続ける。
「大ありなのよ。芳川先生はこの県の吹奏楽連盟の理事なんだから」
「は!?」
「へ!?」
大人二人の間抜けな声が室内に響く。
「どうしてそういう大事なことを教えてくれなかったんだよ!」
「そうだぞ絵理子!」
珍しく京祐も俺に乗っかって絵理子を非難する。俺だって責めたくはないが、内容が内容だけに聞かずにはいられない。
「忘れてたし、言うタイミングもなかったし。それに、躑躅学園に触れるってことは、智枝に触れるってことよ。私もそうだけど、あなた達だって耳の痛い話でしょうが」
冷静に返されると、大人二人は不甲斐なく押し黙った。ぐうの音も出ない。
「……そこまでして、智枝は何を言いたかったんだ?」
いよいよ京祐が本題に踏み込んだ。黙っているだけのカカシみたいな俺も、固唾を呑んで絵理子の言葉を待つ。
「結論から言うと」
絵理子は覚悟を決めたように俺の顔を真っ直ぐ見つめた。
「秋村恭洋は、県大会で翡翠館高校吹奏楽部の指揮を振るべきではない」
「おい、それどういうことだよ」
「京祐。まずは全部聞くんだ」
「あ、ああ……」
俺だって全く落ち着いていない。すぐにでも叫びたい。でも、なんとなく絵理子の言った「結論」が、それだけではないという予感があった。
静寂を取り戻した職員室で、再び絵理子が口を開く。
「理由は二つ。まず、翡翠館高校には秋村の他に正顧問がいるにも関わらず、副顧問どころか教諭でもないのに秋村が部活動に携わっていること。そしてもう一つ。秋村は定職にも就かずほとんど一日中吹奏楽部につきっきりで、自身のほぼ全ての時間を吹奏楽部に費やしていること。他校の教員が仕事をこなしながら限られた時間で音楽指導をしているのに、不公平ではないか?」
絵理子が淡々と供述する。
「……まあ色々と御託を並べていたけれど、要点だけ言えばこんなところね」
「それに対して他の顧問は?」
俺が質問すると、苦々しげに絵理子は「賛成多数」と呟いた。
「マジかよ」
翡翠館高校は、目立ち過ぎたのだ。昨年のコンクールは惨敗だし、先日の合同演奏会も散々な結果。そこから突然、地区大会をトップ通過するに至ったのだから、周囲が見れば不自然としか思えないのだろう。
「でも、連盟の規定には抵触していないじゃねえか! それに奏者が努力したから素晴らしい演奏になったのであって、全部が全部恭洋の成果って訳じゃないだろ!」
我慢ならなくなったのか、京祐が声を荒げる。
「おい、落ち着けって――」
「なんでてめえは落ち着いていられるんだよ!」
宥めようとした俺の肩を、京祐は強く揺さぶった。
「絵理子はそれに対してなんて言ったんだ?」
「……」
「おい、絵理子!」
「……何も、言えなかった」
「は?」
「言い返せる訳無いでしょう!?」
今度は絵理子がヒステリックに叫ぶ。
「私は『得体の知れない誰かに指揮者を丸投げした顧問』でしかないの! それに他の高校がみんな智枝に賛同する中でどう反論しろって言うのよ!」
「何が『得体の知れない』だよ! お前がそれを認めたらおしまいだろうが!」
「降って沸いたような無職なのは事実じゃない!」
「その無職がここまでバンドを立て直したことを、お前もいい加減に認めろよ!」
――もうやめてくれ。
「わかった。俺が今から躑躅学園に乗り込んで抗議してくる」
「ちょっと!? そんなことしても意味無いわよ!」
「芳川先生なら話を聞いてくれるかもしれないだろ!」
「だから無理だって言ってるでしょ!? 会合の時だって、芳川先生は最後まで何も発言しなかったわよ!」
「……お前ら、いったん落ち着けって」
「あ!?」
「何よ!」
「落ち着けって言ってんだよ!!」
この二人が俺のことをどう思っているかなどわからない。だが、少なくとも俺にとっては大事な旧友であり、戦友でもあり、今は仲間である。そんな二人が、俺のことでいがみ合うのは見ていられない。
これでは十年前と同じではないか。俺を擁護する同級生と、糾弾する後輩の光景が目に浮かんだ。
「……それで、もし俺がこのまま本番に出たらどうなるんだ?」
「それは……」
俺の質問は、今日の会合で決定した最も重要な事項だろう。
一瞬言い淀んだ絵理子は項垂れたまま、たった一言だけぽつりと呟いた。
――失格、と。
♭
気づいたら夜になっていた。
もちろん午後の練習はしっかりと指揮を振ったが、普段よりも時間の流れるスピードが速く感じた。
なるべく平静を装った俺はどうにかボロを出さずに練習を終えることができたが、そこで力を使い果たしてしまったようだ。
「秋村さーん! 食べないんですかー!」
中庭では、部員達がバーベキューを楽しんでいる。離れたところで放心状態の俺に気を遣って一年生部員が声を掛けてくれたが、食欲など全く無い。みんなの笑顔を見るだけでおなかいっぱいだ。
「何を気持ち悪いこと言ってんの?」
唐突に容赦の無いセリフをぶつけたのは、合奏練習が終わる頃にふらりと現れた日向だ。
「……絵理子から聞いたんじゃないのか」
軽口に付き合う余裕も無く、俺は日向に暗い声を浴びせる。
「聞いたよ。とんでもないことになっちゃったね」
「ああ」
「みんなには言ったの?」
「そんなすぐに言える訳無いだろ」
絵理子の報告が終わった後に大人三名で話し合った結果、練習は今まで通り俺が指揮を振ることになった。ただ、俺が出演する時点で失格になるということが決定してしまったため、絵理子は機転を利かせてとりあえずエントリー内容の変更だけはしておいてくれたらしい。つまりこのまま本番を迎えれば、指揮を振るのは絵理子ということになる。
「あんたはそれでいいの?」
「もう良し悪しの問題じゃないんだよ。せっかくここまで頑張ってきたあいつらが『失格』になるなんて、絶対ダメだ」
俺に下った審判は、結局「部外者で無職の卑怯な存在」というろくでもないものだった。それでも、客席から見届けることはできる。
明日以降は、絵理子に指揮を教える時間も作る必要があるだろう。普段なら俺に教わるなど死んでも嫌だと絵理子は言いそうだが、こんな状況になってしまっては文句も無いと思う。
「でも、それなら早く言わなきゃ混乱するんじゃない?」
「わかってる。今日一晩寝て落ち着いたら、明日にでも言うよ」
せっかく企画したバーベキューの前に、そんなアクシデントを伝える勇気など俺には無かった。
「――ねえ、それにしても騒ぎ過ぎじゃない?」
「あ、ああ。そうだな」
こういう「お楽しみ」をすることが皆無だった部員達は、その反動からなのか、かなりテンションが高いしはしゃぎまくっている。年相応なのかもしれないが、一応夜間だしもう少し控えないと近所迷惑になりかねない。始まって一時間ほどで京祐が帰ってしまったこともあり、現在はほぼ無法地帯と化している。
「お前ら、そろそろ片付けろよー!」
「はーい!」
ちなみに絵理子もつい先ほど第三職員室に戻った。このお祭り騒ぎの後始末を俺一人に託すというのは狂気の沙汰なのだが、彼女は彼女で仕事が溜まっているらしい。
「本当に『魔女の夜宴』じゃん」
元気良く返事をしたくせに片付けを始める気配が無い部員達を見ながら、日向がぼそりと言った。全然笑えない。
「おい! 風呂の時間もあるんだからなー!」
そこまで言ってようやく、皆は片付けを始めた。
敵対し合っていた三年生と二年生が和気藹々と交流している様子は微笑ましかったし、部の結束を高めるイベントとしては有益だったように思う。食材の手配までしてくれた京祐には改めて感謝だ。
「秋村さん、ごほっ、これどうぞ!」
こちらに駆け寄ってきた美月が、焼きそばを盛った紙皿を差し出した。
「ありがとう」
「全然食べてないみたいですけど、具合悪いんですか?」
「いや、大丈夫だよ。せっかくだからいただくとするか」
「私達が片付けている横で、良い身分ですね! ごほっ」
「お前はいったい何がしたいんだ」
めちゃくちゃなことを言いながら美月は皆の元へ戻っていく。急いで焼きそばを啜っていると、日向がずっと美月を見つめていた。
「ねえ、ちょっとあんた」
「ん?」
「あの子――」
日向が何か言い掛けた瞬間、俺を呼ぶ声が響いた。火の始末を手伝って欲しいようである。俺は紙皿を傍らに置いて、そのまま火元へ向かい作業を始める。
人数が多い分、片付けはすぐに終わった。
今朝早くから自主練習をしたので、今夜は練習を控えるよう指示してある。
その後、十時には解散となり各自がそれぞれの就寝場所へ向かった。俺も音楽準備室の隅に畳んで置いてあった布団を広げて寝転がる。
正直、一晩寝たくらいで気持ちの整理がつくとは思えない。というか智枝の恨みが強過ぎて恐怖すら感じる。会合で智枝がぶち上げた意見は、はっきり言って難癖だ。京祐が言うように、翡翠館高校は明確なルール違反をしている訳ではない。だが、県大会まで一週間というのは、絶妙な時間制限であった。抗議などをしている間にどんどん本番は近づくし、そもそもどこに抗議をすればいいのかもわからない。
そんなことを考えていたら、だんだん目蓋が重くなってきた。
すると。
「ちょっとあんた! 早く来て!!」
血相を変えた日向が、突然室内に飛び込んできた。眠りかけていた俺の心臓が飛び跳ねる。
「え? なんだ?」
「いいから早くっ!」
尋常でない日向の様子に動揺していると、廊下を走る複数の足音が聞こえてくる。
「はあはあ……。秋村さん!」
姿を現したのは璃奈だ。
「美月ちゃんが!」
「美月?」
「大変なんです! 喘息の発作が止まらなくなっちゃって!」
泣きそうな声を出す璃奈の言葉の内容を理解した瞬間、俺の体から血の気が引いていく。
――そうだ。美月はさっき俺の元に来た時、咳をしていた。
美月が喘息であることを忘れていた?
どうして不自然に思わなかったんだ?
「今は絵理子先生と萌波が介抱してます!」
「場所は!?」
「二年三組の教室です!」
璃奈が言い終わる前に、俺は走り出していた。
己の至らなさと無責任さ、美月への心配が混ざり合って吐き気がしてくる。強く握りしめた拳にはもはや感覚が無い。
「大丈夫だから、あんたまでおかしくならないでよ」
一緒についてきた日向の言葉は、気が狂いそうな思考をほんの少しだけ冷静にさせた。
しかし、現場に近づくにつれ呼吸が苦しくなる。こんな時にも関わらず、俺の脳裏に浮かんだのは「もし万が一があったら……」と気まずそうに言った玲香の姿だった。
俺は、美月の無事を祈ることしかできなかった。
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