不穏な気配を感じながらではあるが、大人の事情で合宿のスケジュールを変更する訳にはいかない。

 合宿当日の朝がやってくると、ほとんど練習漬けでしかない三日間であるにも関わらず、部員達はまるで修学旅行にでも行くようなキラキラした目で登校した。

「――お前らはどうしてそんな暗闇みたいな目をしてるんだよ」

 第三職員室で二名のダメ大人を糾弾するのは、合宿への参加を依頼した京祐だ。

「何があったか知らんが、そういう顔をしていると悪い物を呼び込むぞ?」

 たいして考えもせず一般論として京祐は言ったのだろうが、俺という呪われた人間にそういう懸念をぶつけるのはあまりよろしくないと思う。

「じゃあ笑えよ」

「……」

 全て彼の言う通りだ。俺達が生徒に水を差すものではない。

 日向は昨夜「ちょっと充電する」と言い残して消えた。もう開き直ったのか素直に教えてくれるのはありがたいけれど、どうせならいつ戻って来るか一緒に伝えてもらえると助かるのだが。

 今回の合宿はしっかりと練習スケジュールを組んでいるものの、おそらく三日目は疲労で集中力の欠ける練習になる可能性が高い。日課のドリルや最低限の練習が終わった時点で、多少時間が早くても解散にするつもりだ。

「さて、じゃあ早速行くか!」

 京祐は相変わらず大きな背中を揺らしながら講堂へ向かった。彼は日向の存在について知らないし、絵理子の退職の件も伝えていない。

「……少なくとも、合宿中はその話題に触れないでおこう」

「ええ」

 珍しく絵理子と意見が一致したので、そのまま俺達も京祐の後を追った。

「――では、三日間頑張りましょう」

「はい!」

 簡単なミーティングの最後を玲香が締めると、皆の元気な返事がこだました。

 一日目、二日目ともに午前中はセクション練習だ。

 金管楽器を京祐、パーカッションは絵理子が指導する。残った木管楽器が俺の担当だ。こうして割り振ってみると、本当に京祐の存在はありがたい。彼はわざわざ連続して有給休暇を取ってまで、吹奏楽部のことを気にかけてくれている。「有休を消化しろってうるさく言われてたから、ちょうど良かったよ。無職にはわからんかもしれんが」と、京祐は笑いながら言った。余計な一言さえなければ聖人君子みたいな奴である。

 木管楽器の練習場所は第二音楽室だ。部員が全員集まると手狭なこの教室も、セクション練習であればちょうどいい。

 響き過ぎを防止するため床には暗幕を敷いてある。吸音材までは準備していないが、春先のことを思い出して懐かしい気持ちになった。

 俺の方針通り、重点的に練習するのは自由曲だ。

「――玲香、もうちょっと柔らかい音じゃないと音程が全然合わないぞ」

 冒頭のフルートには、普段使わないような低音域が登場する。その前の音との高低差がかなり大きいので、いきなり難所なのだ。

「そもそもテンポに対して息のスピードが速過ぎるんじゃないか? 弱奏時のテンポ感は審査員コメントでも指摘されてただろ」

「……はい、すいません」

「いや、謝らなくてもいいけど……」

 やはり玲香の様子がおかしい。フルートパートの後輩達も、なんとなくやりづらそうな雰囲気だ。

 その後も木管楽器は弱奏の部分の練習が大半を占めた。実際完成度が足りないので仕方が無いのだが、意識して弱く吹くというのはやはり神経を使う。

「よし。だいぶ纏まったな。合奏では金管楽器の音圧に負けないように、なんて思わなくていい。それぞれの役割をしっかり考えて演奏すること」

「はい」

 ただでさえ響きが吸われるので普段にも増して疲れただろうが、ここで負荷をかけておけば合奏が楽になる。三年生もそれを理解しているはずだ。

「玲香、疲れてないか?」

「はい? バカにしてるんですか」

「どれだけストイックなんだよ。……まあいい。昼食が終わったら音楽準備室に来てもらえないか?」

「わかりました」

「楽器も持ってきてくれ」

「……はい」

 どうしても気になった俺は、玲香と直接対話することにした。まだ合宿は始まったばかりだ。ずっともやもやしながら練習しても非効率的である。

 音楽準備室で玲香を待っていると、これまでここで話をした部員との記憶が蘇る。

 萌波と美月、淑乃と董弥。ソロを吹く自信がなかった璃奈や、役員達との自由曲の選考会。

 この狭い部屋で、俺はいくつもの大切な時間を過ごしてきた。

「――失礼します。お待たせしました」

 感情の無い声が入口から聞こえる。

 果たして、玲香とはどのような時間を過ごすことになるのだろう。


 ♭


「昨日も聞いたけど、何か焦ってないか?」

「そんなことを聞きにきたんですか」

「そんなこと、じゃねえだろ。こっちは心配してるんだよ」

「焦ってなんかいません。もっとレベルを上げたいだけです」

「具体的には?」

「具体的? 全部ですよ。全部のレベルが足りないんです!」

「全部って、お前……」

 もともと吹奏楽部に害なす者を敵と認識していた玲香であるが、こう思春期の女の子の反抗期っぽい態度を取られると、俺としても扱いに困る。

 いや、「ぽい」というか実際に女子高生なんだから不思議なことではないのだが、俺としてはいつもみたいに危険思想を統制する方が簡単に思えるのだ。……そっちの方が何倍も不思議なことだけれど。

 会話が平行線なら、音で交流を図る他あるまい。

「お前、練習曲エチュードで『アルルの女』を吹いてたよな? ちょっと聞かせてくれ」

「は?」

 玲香は不審な目をこちらへ向けた。何故今そんなことをしなければいけないのか、と思っているのだろう。わざわざ聞かなくてもそのくらいわかる。

「俺が伴奏してやるから」

「いりません!」

 ピアノの蓋を開けた瞬間に制止されたが、俺はそのまま椅子に座って鍵盤に指を乗せた。

 全四曲で構成される、ビゼー作曲『アルルの女』第二組曲。その第三曲『メヌエット』は、冒頭からハープとフルートが美しいデュエットを奏でる名曲である。

「何をぼうっとしてるんだ? いくぞ」

 そのまま指を滑らすと、玲香は慌てて口元にフルートを寄せる。前奏がたった二小節しかないからだ。

 ――多少の準備不足感は否めないが、それを踏まえてもやはり玲香のソロは全体的に硬かった。

 三月にこの音楽準備室から初めて三年生を見た(正確には覗いていた)時に最も上手だと感じた奏者は、この『メヌエット』を吹いていた玲香である。

 彼女の音は、まるで上質なワイヤーだった。息漏れなどの雑音が一切無い澄みきった音色と、滑らかな音運び。芯の強さとしなやかさを併せ持つ玲香の音は、存在感が圧倒的だった。部長にも選ばれる訳だ。

 だが今の彼女は違う。しなやかさの欠けた玲香の音は、ただの丈夫な鋼材というか、少なくともアンサンブルに適しているとは言い難い音色だ。

「もうちょっと脱力した方がいいんじゃないか?」

「……はい」

 一度演奏すると気分が落ち着いたのか、ピリピリとした雰囲気は少し収まったようだ。俺が指摘すると玲香は素直に頷いた。

「無駄に力が入るっていうのは、何事も一番良くない」

 簡単に言えば「力んで」いるのだ。穏やかな曲調の『メヌエット』ですらそうなるのだから、『幻想交響曲』を演奏すればより一層力が入ってしまうだろう。

「何か余計な事を考えているんじゃないか?」

 俺が尋ねると、玲香は少しはっとしたようにこちらを見てから項垂れた。

「言いづらいことかもしれないけど、話してくれないか。お前にとっては最後のコンクールなんだぞ」

「……わかりました」

 観念したように呟いた玲香だが、俺へ向ける視線にどこか申し訳無さそうな翳りが含まれているように感じる。

「もしかして俺のせいか? 気づかないうちに、何かしていたのか?」

「違います!」

「そ、そうか……」

 普段冷静な玲香が叫ぶと、それだけでもけっこう驚きである。

 楽器を机の上に置いた彼女は、もともと置いてあった『幻想交響曲』のスコアをちらりと見た。

「ひとつ伺いたいんですが」

「なんだ?」

「躑躅学園の顧問の先生って、秋村さんのお知り合いですか?」

 予想だにしない質問が飛んできた。

「どうしてそんなこと――」

「答えてください」

 今さら聞くんじゃなかったなどと考えても後の祭りだ。

「……ああ。知ってるよ。俺の一つ下の後輩だ」

「それだけですか?」

 臆病者の俺は事実を小出しにしていくことにしたが、あっさりと見破られる。この期に及んで腹の探り合いをするのは無意味なのかもしれない。

「俺の昔話は覚えているか?」

「はい」

「俺が楽器を壊して、その後階段から転落して怪我を負った後輩。それがあの顧問だよ」

「……やっぱり、そうだったんですか」

 智枝に関しては部員達に何も伝えていない。伝える意味が無いからだ。俺としても、情けない話だが関わらないようにしたいと思っていた。相手が恨みや敵愾心しか持っていないのだから、触らぬ神に祟り無しである。それにもうお互いが一つのバンドの指揮者という重要なポジションを担っているのだ。智枝だって、支部大会に出場するまで躑躅学園を育て上げた現状があるのだから、十年も前のことを蒸し返したくないだろう。

 つまり俺と智枝が関わること自体、全く建設的ではないのだ。そりゃ、俺としてはしっかり謝罪すべきだとは思っているが。

「……なんでお前が知ってるんだよ」

 俺はため息を吐いた。厄介なのは玲香のセリフに「やっぱり」という不穏な言葉がくっついていたことだ。

「誰から聞いたんだ? 絵理子か?」

 玲香は首を横に振る。

「じゃあ、京祐?」

 その二人くらいしかいないだろう。部員には伝えないようにと示し合わせた訳ではないが、あいつらも俺と似た考えであると思っていた。

 しかし、玲香はもう一度首を振った。

「ん? 他に昔のことを知ってるのは……」

「野田先生です」

「野田? そんな人、翡翠館にいたっけ」

「野田智枝先生です!」

「ああ、なんだ。本人から聞いた、の、か……」

 俺の思考回路がフリーズした。

「――秋村さん? 大丈夫ですか? ショック死したんですか?」

「してねえよ!」

「そうですか」

 しばらく固まっていた俺は玲香の容赦無い呼び掛けで意識を取り戻したが、あまり拾い上げたくない事実がそのまま転がっている。

「いつ話したんだ?」

「合同演奏会の帰りに、たまたま会ったんです」

「他の部員もいたのか?」

「いえ。私だけ呼び止められました。部長だからかもしれません」

 あの演奏会のパンフレットには、各校の紹介文が部長の写真とセットで掲載されていた。玲香は証明写真みたいな感じになっていたが、実物もそう変わらないので智枝も容易に判別できたのだろう。

「殴りますよ」

「なんでだよ!」

 ロボットみたいな口調で物騒なことを言うのも、いい加減なんとかして欲しい。

「で、何を聞かされたんだ?」

 肝心の内容について触れると、玲香はまたもや言いにくそうに視線を逸らす。

「秋村さんが言っていたのと同じ内容です」

「同じって……。他には?」

「えーと……」

 俺としては、昔話だけだとしても困る。エピソードの内容は一緒でも、加害者と被害者ではどうしても雰囲気が違ってくるだろう。それに、わざわざ呼び止めてまで話すことでもない。

「コンクールの自由曲は、何を演奏するのか聞かれました」

「答えたのか?」

「……はい」

 コンクールは己との闘い(少なくとも俺はそう思っている)なので、他校がどんな曲を演奏しようが関係無いというのが俺の持論だ。

「あいつ、なんだってそんなことを……」

 玲香を責めるべきではない。相手が曰くつきの智枝なのだし、答えざるを得ない雰囲気だったのだろう。

「それについて、あいつはなんて言ってたんだ?」

「それが、その……」

 殴りますよ、と平気で言う割に肝心なところで玲香はしどろもどろになった。

「俺のことはいいから、はっきり言ってくれ」

 そこまで言うと、ようやく玲香の目がこちらを向く。

「秋村さんが『幻想』をやる資格など無い、と言われました。それに、翡翠館高校は『断頭台』を演奏して終わったバンドだ、と」

 俺は両手の拳を握りしめた。

 そんなことを高校生相手に言うか?

 智枝に対しては罪悪感もあるけれど、さすがに大人げが無さ過ぎて目眩がする。

「あと……」

「まだあるのか」

 つい聞き返してしまうと、玲香はぎこちなく頷いた。

「『死神』は絶対に災厄をもたらすから、秋村さんとはもう関わらない方が良いと忠告されました」

「ロールプレイングゲームのオープニングかよ」

「はい?」

「……なんでもない」

 智枝の真意は謎だ。単なる嫌がらせかもしれないけれど、OGとして今の翡翠館に思うところがあって生徒に進言してくれた可能性もゼロじゃない。どちらだとしても迷惑極まりないけれど。

「それ、誰かに話したのか?」

「話していたら、相手によっては躑躅学園に襲撃をかけるじゃないですか」

 それはそうかもしれないが、どちらかというとそちらの一派に属していそうな玲香がずっと胸の内に秘めていたということ自体が、事の重大さを物語っている。地区大会前に淑乃や美月が「躑躅学園を潰す」と息巻いていた時に、玲香が賛同しなかったことには深い理由があったのだ。

「……黙ったまま俺についてきてくれてありがとな」

「いえ、そんな……」

「正直なところ、智枝の忠告についてどう思ったんだ?」

「……秋村さんの過去のお話を聞いたら、『体質』のことが全く気にならないとは言い切れません」

「そうだよな……」

「でも、秋村さんがいなければ、私達にこんな夏休みは訪れませんでした。そもそも合同演奏会に出演することすらできなかったと仮定すれば、『忠告』を受けること自体も無かったんだと思います。ですから、秋村さんに指揮者を降りてもらうつもりなんて毛頭ありません」

 玲香の言葉を聞いて、俺の脳内に吹奏楽部の存続が決まった日の記憶が浮かぶ。校長室へ向かう直前、この音楽準備室で玲香と淑乃は「俺が関わらないことと引き換えに部の存続をお願いする」という提案に対してぶちギレたのだった。本当にありがたいことに、部員達はあの時から変わらず俺を必要としてくれている。

「ただ……」

「ん?」

 おそらく最も言いづらいことが最後に残っているのだろう。玲香は一度ゆっくり息を吐いた。

「私がフルートを選んだきっかけって、たぶん野田先生なんだと思います」

「……え?」

「私や日向などは、小学生の頃に翡翠館高校吹奏楽部の演奏会を聞いたことがきっかけで、この学校に入学しました。あなたが全てのプログラムを指揮した、あの演奏会です」

「あ、ああ。そうだったな」

 面と向かって言われるといまだに気恥ずかしい。

「あの時、私が一番興味を持ったのが最前列のフルートパートでした。あんなに細い楽器なのに音色がすっと耳に入ってきたことにびっくりして……。私も幼かったので、演奏会が終わった後にこっそりフルートパートの方達を見に行ったんです」

 幼かったので、というか、そんな小さい頃からアサシンみたいなことをしていたのか。

「あの時、皆さんは体育館の隣にあった多目的ホールを控え室にしていましたよね。じっとフルートパートを見ていたらあっさり見つかってしまったんですが……」

 そこまで話して、玲香は珍しく微笑みを浮かべた。

「部員の方が近づいてきたのでてっきり通報されるかと思ったら、そのままフルートパートの輪に入れてくれたんです。『君、フルートが気に入ったの? 嬉しいなあ!』って。その場で一曲演奏してくれました」

 なんとなく、あの頃の部員達ならそのくらいのことは平気でしそうだと思った。

「その時に吹いてくれたのが『アルルの女』でした。そして、奏者は……」

「智枝だったってことか……」

 答えを先回りすると、玲香は小さく頷いた。全く、因果なものだ。

「合同演奏会の後に間近で会話して、思い出したんです。私が憧れたあの音色は、野田先生の音だったんだって」

 寂しそうに話す玲香を見て、どうして彼女がこの件をずっと一人で抱えていたのか理解できた。

「かつて全国大会に行けなかったのが野田先生だったということに、かなりショックを受けてしまって……。あ、もちろん秋村さんのせいだなんて思っていませんよ? 秋村さんには感謝してもしきれません。でも、野田先生が言うからこそリアリティがあるというか……。あまり考えたくないですが、万が一秋村さんが私達から離れるようなことになったらって思うと、演奏にも集中できなくて」

「……そうか」

「それに同じフルート吹きなら、野田先生もまず私に注目するんじゃないかと思って。合同演奏会は失敗してしまいましたし、これ以上がっかりさせるような演奏はできませんから……」

 申し訳無さそうに玲香は目を伏せた。

「そんな顔をしなくていい……」

 頭を下げるべきは俺の方だ。純粋に音楽と向き合っていた彼女を大人の事情で振り回していたなんて、考えたくもない。彼女は俺と智枝の板挟みになっていたのだ。かつて憧れた奏者から掛けられた言葉のおかげで窮屈な演奏になっているなど、悪夢じみた皮肉である。

「俺は、誓って智枝を突き落としてなんかいない。ただ楽器を壊したのは事実だ。だからあいつが俺を恨んでいるのは当然だし、翡翠館高校そのものを目の敵にしていたって不思議じゃない」

「そう、ですよね……」

「でも智枝の理屈なら、翡翠館が躑躅学園よりも良い成績で地区大会を抜けたっていうのは、全然『災厄』じゃないよな?」

 躑躅学園にとっては災厄というか、最悪なことなのかもしれないが。

「まあ、たしかに」

「俺さ。合同演奏会の前に、おかしくなっただろう?」

「え? ……あ、ああ。そういえばそんなこともありましたね」

 玲香は俺に対して「心配じゃなくて迷惑を掛けています」と言った張本人なので、忘れられては困る。

「あの時に考えていたことこそ、『死神』についてなんだよ。このままお前達と関わっていてもいいのかって、迷ってたんだ」

 俺のカミングアウトを聞いて、玲香は意外そうに目を開いた。

「それでも、このバンドの指揮を振ると決めた時点で俺に退路は無い。十年前と違ってな。だから最後まで見届けるって決めたんだ。お前も今まで通り伸び伸びと楽器を吹いてくれればいい。お世辞じゃないけど、当時の智枝よりもお前の方がよっぽど上手だから」

 どの面下げてそんなことを言うのかと、俺自身も思う。いったいどんな「最後」が待ち受けているかもわからないというのに。

「……お世辞が下手過ぎです」

「いや、本心で言ってるんだけど……」

 玲香の表情には、依然として戸惑いが残っている。

「余計な心配をさせて本当に申し訳無かったよ。でも、少なくともお前が焦ることじゃない。合宿が終われば県大会まで一週間だ。前にも言ったが、三年生が隙を見せたら組織は簡単に崩壊するんだよ」

 セクション練習中にフルートの後輩達が心配そうな顔をしていたように、不穏な気配というのは敏感に察知されやすいものだ。

「わかりました。ご迷惑をお掛けしてすいません」

 敢えて迷惑という言葉を選んだ玲香は、本当にストイックの権化だと思う。

「そんなふうには思っていない。むしろもっと早く気遣ってやれなくて悪かった」

「いえ……」

 ちらりと時計を窺うと、もう午後の練習開始が迫っていた。

 玲香と一緒に講堂へ向かうと、既に集まっていた部員の中には怪訝な顔をする者もいたが、すぐにチューニングが始まったのでやり過ごすことができた。

 玲香の焦りが部長としての責任感から生じたものなのだとしたら、彼女自身もしっかり成長を遂げていると言える。だからこそ、曖昧な言葉や気休めみたいな鼓舞しか掛けられなかった俺が情けない。

 だが、それでも俺は指揮棒を振り続けなければならないのだ。

「あっ」

 手元から、バキッと鈍い音がした。

 指揮棒の代わりにしている菜箸が真っ二つに折れた音だった。

 そしてあろうことか、木の破片が最前列にいる玲香のもとへ飛んでいった。

「大丈夫か!?」

「は、はい」

 何事もなくて安堵したものの、先ほど玲香と対話したばかりだというのにあまりにもタイミングが悪い。凶事の前兆にしては露骨過ぎる。

 玲香に力を抜けと言って置きながら、俺が無駄に力んでどうするんだ。

 ――その後、冷や汗をかきながらではあったが、なんとか合宿一日目は無事に終わった。

 久しぶりに訪れた最寄りの銭湯で熱い湯に浸かると、驚くほど疲れが取れたように感じた。気分もさっぱりとしたところで、俺は少し軽くなった足取りで学校へと戻る。

「……たまたま、だよな?」

 指揮台の上に置いてあった、折れた菜箸を処分しながら呟く。

 講堂では、かつてのように遅い時間まで練習を続ける部員の姿があった。

 このまま明日も頑張ろうと、部員達からエネルギーをもらいながら様子を眺めていた俺は完全に油断していた。

 ――たまたまなどではなかったのだ。

 翌日には大きな波乱が待ち受けているのである。

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