二
真夏の太陽は朝から容赦が無い。日向がいないためここ最近は自室のベッドで就寝しているが、カーテンを開けたまま寝たら痛いほどの日射しに襲われた。
寝ぼけ眼を右腕で覆いながら、なかなか起き上がれずにうとうとしていると、今度はとんでもなく大音量の音楽が耳を襲う。
「うるさいうるさい!」
なんだか懐かしさすら覚えてしまった。
楽曲は、いつか流れるだろうと思っていたワーグナーの『ワルキューレの騎行』である。
今度は両手で耳を塞ぎながらコンポの方を見ると、案の定オレンジ色の少女――日向がにやにやしながら立っていた。
俺が起き上がるとようやく停止ボタンが押される。
「……ずいぶんなご挨拶だな」
怒りを堪えて睨みつけると、日向は全く悪びれずに両手を後ろで組んだ。
「この前頼まれたからね?」
「……」
たしかに合同演奏会の時にはこちらからお願いしたが、事前にわかっているのといないのでは耳の負担が全然違う。今日に関しては耳だけじゃなく心臓も飛び跳ねたので勘弁して欲しい。
「いやー、あたしにピッタリじゃん、ワルキューレなんて」
得意になりながら日向が鼻を鳴らした。
「似ても似つかないだろ。意味わかってんのか? 戦乙女だぞ。お前はただの不良地縛霊じゃな――うるさいうるさいうるさい!!」
再び爆音が俺に襲いかかる。光の無い瞳で俺を見つめる日向だが、意味がわかっていないというのは図星なのだろう。
たしかワルキューレは、戦死者を死の世界へ運ぶ役割などを担う乙女だったはずだ。
ベッドの上の俺と横に立つ日向という構図は初めて会った時のことを思い出すが、彼女は栄養失調の無職にビンタを食らわせて救急車を呼んだ亡者なのだ。いったいどこにワルキューレの要素があるのだろう。
「ま、元気みたいでよかったよ」
「お前のせいで、たった今元気じゃなくなったけどな」
もう一度停止ボタンを押した日向の言葉につい悪態を返してしまった。
「……いや、ごめん。で、お前はまた『旅』に出ていたのか?」
「……まあね」
なんとも言えない気まずい雰囲気が流れる。
「地区大会、一位で抜けたぞ」
「本当!?」
「なんで知らないんだよ」
「あはは……」
俺が最も伝えたかったことを教えると、日向は素直に喜んだ。ただ、それはつまりあの会場にいなかったことを意味する。「旅」とはなんのことかわからないが、大事な舞台に来てもらえなかったというのはなんだか寂しい。
「『地区大会は抜けられる』って言ったのはあんたでしょ? まさか一位とは思わなかったけど」
俺がもどかしさを抱えていることに気づいたのか、日向は開き直るように言った。
「そりゃそうだけどさ」
釈然としないまま、俺は学校へ向かう準備を始める。県大会まで猶予は無い。本当に支部大会を狙うなら、ここから先も休み無しの練習漬けだ。
「明日から、合宿をやることになった」
「へえ! いいじゃん。楽しそう!」
「そんな、遠足みたいなテンションで言われても……」
自然に苦笑してしまったが、朝の自宅に日向がいるという事実は無性に安心感を覚えさせた。
――相変わらず徒歩通学の俺は、燦々と照りつける太陽から生命力を奪われながら足を動かす。
「あんたさ。そこの雑草を見てみなよ。日光を養分にして青々と伸びてるじゃん。何が『生命力を奪われる』だよ。そういう奴はどうせ真冬になったら晴天を懇願するような天邪鬼だから、嫌いだね」
「隣の草は干からびてるんだけど……」
「あっそ」
なんだこの面倒臭いクソガキは。
「死者に向かって『生命力』なんてワードを出さないで。デリカシーが無いよね。マナー講座でも受けたら?」
「死者相手を想定した講座を開いてるような物好きがいるなら、有り金はたいて受講してやるよ!」
なんだか失踪する前と比べて毒舌の濃度が上がっている気がする。
「あ」
毒舌という言葉で思い出した。
「お前、絵理子のところにも行ってないんだよな?」
「……先生? う、うん、そうだね」
歯に物が挟まったような回答だが、とりあえず話を進めることにする。
「あいつから、何か聞いてないか?」
「何かって?」
きょとんと聞き返す日向の様子を見るに、おそらく何も知らないのだろう。
「……あいつ、辞めるみたいだ」
「ああ、タバコ? 良かった。冷静に考えなくてもコンプライアンス的にヤバいもんね」
「いや、その『止める』じゃなくて……」
「ん?」
「教師を、辞めるみたいだ」
「……は?」
呆然とした日向だが、徐々にその表情から焦燥感が滲み出る。
「ちょっとどういうこと? なんで? 辞めるっていつ?」
「落ち着け。俺だって何も知らん」
「じゃあどうして!」
「たまたま第三職員室で見ちゃったんだよ。あいつが用意したとしか思えない辞表をな」
「辞表……」
掴みかかる勢いで迫ってきた日向だが、その言葉を聞くと俯いてしまった。現場が第三職員室だということが、彼女に信憑性を与えたのだろう。
「とても俺からは詳しく聞けないし、なんとなくそのままなんだ……」
執拗に質問しようものなら金輪際口を利いてくれなくなる確信がある。
「あたしから聞いてもいいけど……」
ありがたい提案だったが、日向は続きを濁した。
「何か気になるのか?」
「気になるっていうか……。あたしが知ってるっていうことは、あんたの密告がバレるってことだよ? 大丈夫?」
会話の内容が、秘密警察に怯える市民みたいだ。
「大丈夫じゃないかもしれないけど、退職ってよほどのことだろ」
「そうだね」
夏休みに入ってしまったので、おそらくまだ当面は在籍するだろう。そもそも絵理子は三年生の担任なのだ。二学期が最も重要な時期だろうし、退職というのはあまり現実的な話ではない。
しかし、辞表の実物を見てしまうと、わかっていても心配になる。三年生が卒業する春に退職、ということだって充分にあり得るからだ。
「むしろそのつもりなんじゃないの?」
日向の指摘は的を射ていた。
「どうすればいいんだか……」
無意識に顔を上げると、強烈な紫外線が顔面を攻撃する。
辞表の件が部員達に知れたら一大事だ。このことは一旦頭の隅に追いやって、俺は黙々と学校へ向かった。
♭
県大会までの宿題は、審査員のコメントから見出すことができた。
課題曲は、テンポが完璧である反面、抑揚に関しては今ひとつ。
自由曲は、弱奏の時にリズム感がバラけること。また後半の八
正直、課題曲については好みや考え方もあると思う。俺は、マーチは「行進するための曲」であると思っているので、正直抑揚がそこまで重要と捉えていない。むしろせっかく超良質なパーカッション奏者がいるのだから、究極的な正確性を求めたい。だから今後もただひたすらにテンポ感、強弱、タイミング、音程を磨く作業を続けるだけだ。地味だけれど、今挙げた基本的な要素の出来を審査してもらうことに、課題曲の存在意義があるというのが俺の考えである。
一方、自由曲に関しては耳の痛いコメントだと認めざるを得ない。
強奏(フォルテやフォルテシモ)は、体力的にはしんどいかもしれないが、表現しやすいし音程を揃えるのも比較的容易だ。弱奏とは「弱い音」なのであって、「小さい音」という意味ではない。小さく吹けばいいんだから楽じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、そうではないのだ。ピアニシモでも完璧に演奏できるバンドになって初めて、上手なバンドであると言える。
コメントにあった通り『ワルプルギスの夜の夢』の後半は、八分の六拍子というリズミカルな音楽だ。『魔女の
まあ簡単に言えば、自由曲に重点を置いて練習するということだ。基礎合奏の練習にはもともとピアニシモのロングトーンも取り入れていたが、割合を増やすよう淑乃に指示した。
ゴールデンウィークが始まる際、大量に用意した単四電池も底を突きかけている。皆、俺に言われた通り毎日電子メトロノームを鳴らし続けたのだろう。そういう小さな努力は、間違いなく課題曲の完成度に貢献している。
こちらが方向性をしっかり示せば、奏者達はきちんとついてきてくれるのだ。今までテロリストやらゲリラ部隊やらジャコバン派やらと散々な比喩を用いてきたが、そろそろ撤回すべきかもしれない。
――ただ、どうしても様子が気になる部員がいる。
練習後にも関わらず必死にフルートを鳴らし続けている玲香だけは、どうにも周囲とは違う雰囲気を纏っているように見えた。
「……おい。そろそろ撤収だ」
他の部員が近寄らないくらい「話し掛けるな」というオーラを振りまく玲香に口を出すのは気が引けたが、放っておいたらずっと居残り続けるだろう。
「……もう少し、すいません」
あろうことか玲香は、視線も合わさずそれだけ言って再びフルートを吹き始める。
「すいませんじゃねえだろ」
熱意が空回りしているとか、妙にアドレナリンが出ているといった理由なら、俺ももう少し穏やかに宥めたかもしれない。
だが、玲香はどう見ても何かに焦っていた。この状態で練習を続けても沼にはまるようなものだ。それに部長が規則を破ったら、演奏の統一感を揃える以前に組織の統率が乱れてしまう。
「……はい?」
ゆっくりと膝の上に楽器を置いた玲香は、いつものように感情の無い目をしながら首を傾げた。
「その日本人形みたいなのやめろ」
夢に出そうだ。
というか、どうして返事が疑問形なのだ。
「もう県大会はすぐそこなんですよ? 少しくらいいいじゃないですか」
「少しって、どのくらい?」
「あと二時間くらいですかね」
「お前、少しって言葉の意味知ってるか? グリーン先生が言ってた『日本語が少ししか話せません』の、少しだぞ?」
ゲシュタルト崩壊してきた。
「は?」
相変わらず呪われた人形みたいなのに目だけ殺気を込めた玲香が短く反応した。部長の玲香がこの様子なので、吹奏楽部に対する物騒な異名を撤回するのは延期だ。
「グリーン先生って誰ですか」
「ああ、もういいから。とにかく撤収だ。そんなに練習したいなら合宿でやりなさい」
そう言ったものの、合宿では本気で徹夜しそうである。もちろん玲香だけに限った話ではないけれど。
「……わかりました」
不承不承といった反抗的な態度で、玲香は片付けを始めた。
「何をそんなに焦っているんだ?」
そう声を掛けると、彼女の肩がぴくりと震える。
「焦ってなんかいません。お疲れ様でした」
あっという間に楽器と譜面台を片付けた玲香は、それだけ言い残して講堂を出ていった。
「どう見ても様子がおかしいだろ……」
もう他の部員も全員帰った。俺はもやもやした胸の内を整理できずに講堂を施錠する。
「ねえ、さっきのグリーン先生って誰?」
日向の言葉は一切無視した。
♭
第三職員室にはなるべく立ち寄りたくない。訪れるだけで息が上がるほど疲れるし、部屋の住人に会ったらメンタルまで蝕まれるからだ。
しかし、そうは言っても用事があるなら仕方無い。ここにいる不良教師はいまだに内線を取ってくれたことがないし、スマホでメッセージを入れても既読無視である。未読じゃないのがむしろ哀愁を感じさせる。
「明日から合宿だけど、大丈夫そうか?」
「そうね」
「京祐も来てくれるみたいだけど聞いてるか?」
「そうね」
「お前は体調とか問題無いか?」
「そうね」
「おい、こっちは真面目に話してんだよ」
「ちっ」
「先生、合宿楽しみだね!」
「……そうね」
パソコンに向かい続ける能面女は、またもや露骨な差別をしている。「そうね」のイントネーションが俺と日向で全く異なるのだ。いい加減にしろ。
「二日目の夜はバーベキューなんでしょ? いいなあ」
日向は空いている椅子に座って両足をプラプラと前後させながら呟いた。
我が校の吹奏楽部がめちゃくちゃ練習好きの特異な変人集団なので忘れがちだが、言うまでもなく部員達は高校生だ。せっかく合宿をするなら楽しみも取り入れたらどうだと、京祐が発案してくれた。俺や絵理子では到底思いつきもしなかっただろうから非常にありがたい。京祐がバーベキューをする
「じゃあ、明日からよろしくお願いしますね」
律儀にも挨拶をするためだけにここまでやってきたのに、結局徒労だったようだ。
帰宅しようと戸に手を掛ける。
「で、絵理子先生。いつ退職するの?」
ガン、と鈍い音が響いた。
俺が思いきり戸に頭をぶつけた音だ。
「ちょっと日向! いい加減なことを言うものじゃありません!」
動揺し過ぎて変な言葉遣いになった。
「……あなたが言ったのね?」
ようやくこちらを見た絵理子の目は闇に染まっている。そんな顔を見せられるくらいなら、そのままパソコンに向かったままでいい。
だが、否定しても意味が無いので恐る恐る頷く。
「ねえ。どうして辞めちゃうの?」
「おい日向!」
この少女は今朝俺に「デリカシーが無い」とか言っていたと思うが、特大ブーメランが突き刺さっている。ああ、幽霊だから突き刺ささりようがないか。
……そんな冷静な分析をしている場合じゃない。
「先生ってば!」
何も言わない絵理子に対して日向は食い下がった。銃弾の雨の中をスウェットで駆け抜けるみたいな暴挙に、俺は冷や汗が止まらない。俺が下手に口を出したら一瞬で蜂の巣になるだろう。
――呼吸すら苦しくなるほどの静寂に終止符を打ったのは、絵理子の重く深いため息だった。
「辞めないわよ――三月までは」
安心させてから奈落に落とすという手法は、俺は慣れているが日向には絶大なショックを与えたようだ。とはいえ、俺も少なからず衝撃を受けている。
本当に辞めるつもりなのか、この女は。
「どうして!? ようやく吹奏楽部も結果を出し始めているのに!」
「そうね」
日向に対しても、先ほど俺に向けて発した「そうね」を返す絵理子は、達観したような目をしている。
その眼差しに既視感を覚えた俺は、かつて「三年生が引退するのを見届けたら吹奏楽部は終わり」と彼女が言った時のことを思い出した。
「お前、もしかして最初から……」
つい口から出た言葉を慌てて飲み込む。
「さあ、もう出て行ってちょうだい」
これ以上波風を立てたくない絵理子は、僅かに微笑みながら退室を促した。
「先生! ちゃんと答えてよ!」
うっすら涙を浮かべながら日向が叫んだ。
「ねえ! 絵理子先生ってば!」
諦めの悪い日向に、絵理子のこめかみが少し震える。
「辞めるなんて言わないでよ! お姉ちゃんだってそんなこと――」
「あなたには関係ないでしょう!? 私が辞める頃には、あなたはもういないんだから!」
――耳鳴りがするほどの沈黙。
明らかに「しまった」という表情をしている絵理子と、悔しそうに唇を噛む日向。
「いない……?」
絵理子の言葉の意味が理解できない。
「お、おい。誰がいないって?」
二人は黙ったままだ。
「絵理子、日向に対して言ったよな? 日向がいなくなるってことか? いったいどういうことだよ」
絵理子ははっきり「あなた」という二人称を使った。対象は日向である。
「……はあ」
観念したように息を吐いたのは日向だった。
「絵理子先生の秘密を知っちゃったから、これでお互い様ってことね」
「……ごめんなさい」
軽口を叩く日向に、絵理子は心底申し訳無さそうに謝罪した。
「黙っていて、ごめんね?」
「な、何が?」
俺の背中を冷や汗が伝う。
「あたし、もうあまり長くないみたいなんだ」
「……は?」
「よくわからないけど、成仏するってことなのかな?」
どうしてそんな話を笑いながらするんだ。
「急になんだよ。どうせいつもの冗談だろ?」
反射的に返した言葉は、俺にとってもいつもの現実逃避でしかなかった。
「急に、じゃないよ。変に誤魔化してたけど、ここ最近あんたの前に現れなかったのは、単純にこの姿を保てなかったからなんだ。ごめんね」
「ごめんねって……」
薄々察してはいた。あれほど熱心に吹奏楽部の様子を見学していた日向が失踪するなんてよほどの理由なのだろう、と。地区大会にも来ないというのは、日向の性格を考えれば本来あり得ないことなのだ。
「でも、まだ全部中途半端じゃないか! 楓花だって目覚めてないんだぞ」
「うん。だから、完全には消えてない。ちょっと時間を置けばこうして見えるようになる」
「じゃあ、いつ完全に消えちまうんだよ!」
「さあ? もともと『吹奏楽部を復活させて欲しい』っていう曖昧な願いだから、どの時点で復活したと見做されるかなんてわからないよ。というか、あたしが満足すれば終わりかもしれないし」
「そんな他人事みたいに……」
愕然とする俺を、絵理子も悲痛な表情で見つめていた。
「絵理子は知ってたのか?」
「……ええ」
「どうして隠すんだよ!」
「ちょっと、絵理子先生を責めないで。あたしがお願いしたの。今が大事な時期だから。あんたも、吹奏楽部もね」
日向にそう言われると何も言い返せない。おそらく絵理子は、野球応援をした頃にはもう知っていたのだろう。
俺のメンタルが弱いから、気を遣ってくれていたのだ。
「コンクール前にあんたと会う前に、この色に変わってたんだよね」
その場でくるりと一回転した日向が嬉しそうに言った。ワンピースのことか。
「状況が良くなってるからなんじゃないかと思って。オレンジってあたしが一番好きな色なんだ」
たしかにこれまでいろいろあったけれど、日向と出会った頃とは比べようもないほどに吹奏楽部の状況は好転している。
「……見届けるのはあたしの役目だからさ。絵理子先生も辞めるなんて言わないでよ」
そういえばこの話は、絵理子の退職騒ぎから始まったのだった。
「……」
だが、彼女は日向の言葉に何も返せない。
日向が側にいることが日常的な光景になっていた俺も、そう簡単に割り切れはしなかった。
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