十七
楓花はもう完全に覚醒したようで、上半身を起こして室内を見渡している。
「まさか、六年も経っているだなんてねえ。これじゃあ本当に浦島太郎だよ。まあ私は竜宮城で豪遊どころか、公道でトラックに衝突だけどね! あははっ!」
「お前まだ頭が回復してないだろ――ぶっ!」
枕が飛んできた。めちゃくちゃ元気じゃないか。
「お母さんからいろいろ聞いたんでしょ? 私も、眠ってた六年間のことも含めて全部聞いたよ」
「そうか」
「なんか、ごめんね」
「どうしてお前が謝るんだよ」
「だってお父さんが……」
「ああ、お前は記憶にあるのか」
「うん。蒸発したのは小学校の時だったからあんまり覚えてないし、全然家にいなかったから思い出もほとんど無いけど」
「なるほど」
ようやくまともに会話が成立するようになった。俺のせいでずっと気まずい雰囲気が流れていたのだが、やはり楓花の対人能力の高さは変わっていない。
「こちらこそ、本当に悪いことをしたよ」
「え? なんの話?」
「十年前、勝手に逃げ出して吹奏楽部をめちゃくちゃにしてさ。もうその時には呪いなんて無かったっていうのに」
「……し、仕方ないよ」
「それに事故の日だって、お前は俺をもう一度助けようとして家に来るつもりだったんだろ?」
「ま、まあ、そうだね」
なんだか目が泳いでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「……過ぎた話はこれくらいにしてさ! この間の演奏会、びっくりしたよ!」
「結局、ライブ視聴できたのか?」
「んー、さすがに目が覚めたばかりで混乱してて……」
そりゃそうだ。いきなり六年もタイムスリップしたのに「今から母校のコンサートが始まりますよ」と言われたら、誰だって戸惑うに決まっている。
「でも、横になりながら全部聞いたよ。落ち着いてからじっくり見ることもできた。本当にありがとね!」
「礼なら智枝と和美さんに言ってくれ」
「それはそうだけど! あの演奏会を作ったのは恭洋でしょ!」
太陽みたいに明るい笑顔でそう言われると、なんだか十年前を思い出して懐かしさが込み上げる。
「でも驚きだよねえ。あんな凄い演奏会をやった吹奏楽部が、半年前までぼろぼろだったなんて」
「その話も知ってるのか」
「知ってるも何も、そういうプログラムだったじゃん」
「ああ、言われてみればそうだな」
絵理子がナレーションした第一部を見た後なら把握していて当然だった。
「……まあ、実はもともと知ってたんだけどね」
「え?」
「寝たきりだった時にさ。たまに凄く鮮明な夢を見たんだ」
「夢……」
「日向が吹奏楽部に入る夢、そして日向が死んじゃう夢」
「……」
「日向がいなくなって、吹奏楽部がバラバラになっていく夢」
「バラバラ……」
「どういう理屈で私の頭にそういう映像が流れてきたのかはわからないけど、やっぱり現実だったんだよね……」
「もしかして、夢の中で日向に会ったか?」
俺が尋ねると楓花は目を見開いた。
「なんでそんなこと知ってんの?」
「やっぱり……」
日向が言っていたからだ。この世に再び現れる直前に、楓花と話をしたと。
「どういうこと?」
「日向の件、瑠璃さんから聞いてないのか?」
「死んじゃったことは聞いたよ……。現実だったってわかって一日中泣いたけど」
「絵理子は?」
「まだお見舞いに来てないよ」
「そうなのか」
ということは、日向と俺達の半年間について、楓花はまだ何も知らないのか……。
「いったい何から話せばいいのやら……」
俺が弱音を吐くと、楓花はくすりと笑った。
「時間はたっぷりあるよ。せっかく久しぶりに会ったんだから、いろいろ聞かせてよ」
無邪気にそう頼まれると、断ることもできない。というか、日向のことは楓花にも知っておいて欲しい。
「実は半年前、日向が――」
♭
一通り俺の話を聞いた楓花は、両手で顔を覆いながら泣いている。
「本当に感謝しているんだ、あいつには」
「うん……」
「でも、たとえ夢の中だとしても、お前が日向と会えたなら良かったよ」
「私は良くない! 本当の妹みたいに大切な存在だった!」
さすがに歳が離れているので、日向が実の妹でないことは楓花も最初から知っていたのだろう。だが、誰が見たって仲の良い姉妹であったに違いない。
俺は持参した鞄の中から手帳を取り出し、挟んであった一枚のメモ用紙を楓花に渡す。
「何、これ?」
「日向が最後の最後に遺したメッセージだ」
「えっ。これをあの子が……」
不格好にオレンジ色で書かれた「ありがとう」の文字。
「そっか……。そっかあ」
何回も頷きながら、楓花は胸元でメモ用紙を抱き締めた。
「あの子はこんなに思いやりがあるのに、私は本当……」
嗚咽を上げる彼女が呟いた言葉の意味が、俺には理解できない。
「お前だって立派じゃないか。当時はちゃんと部長を務めて全国大会まで行ったし、先生になる勉強も頑張って翡翠館から内定をもらったんだろ?」
「そんなことどうでもいい!」
「良くねえだろ……」
考えてみれば、楓花が泣くところを目にすること自体が相当レアである。ましてや荒れているところなど見たことが無い。北海道に台風が上陸するようなものか。
「意味わかんないこと言うな!」
「なんでそんなにキレてるんだよ」
「だって!」
ようやく俺と目が合った楓花だが、もごもごと何か言い淀みながら再び視線が逸れていく。
「……お前、もしかしてなんか隠してないか?」
びくりと肩が震えた。わかりやす過ぎる。嘘を許さない性格の人間が、嘘を吐けるはずが無いのだ。
「おい。白状しろ。お前も昔は有無も言わさず尋問してただろ」
「う……」
退路を断たれた楓花はようやく観念したようにこちらを向いた。
しかも正座までしながら。誰もそこまでしろとは言っていない。
「あの。私なんです」
ベッドに頭を
「何がだよ。意味わかんねえよ。あと土下座やめろ。この現場を見られたら俺が病人を虐待しているみたいだ――」
「あなたを刺した犯人です」
「……ん?」
こいつやっぱりまだ正気に戻っていないんじゃないか。
「刺したってなんのことだっけ」
「十年前の全国大会直前の話です」
「場所は?」
「翡翠館高校の講堂の周辺です」
「被害者は?」
「秋村恭洋さん、当時十八歳です」
最近は疼くことが無くなった腰の古傷の場所に、自然と手が伸びる。
「ああ、お前が犯人を知っていたのに、ずっと隠匿していたって意味か」
「いいえ違います」
「犯人もお父さんの呪い関連で――」
「全然違います。お母さんの話を忘れたんですか」
「じゃあなんだよ!」
「私がやりました」
「ワタシ? 変わった名前だな。我が輩は猫みたいな――」
「犯人は木梨楓花です」
「……」
どうしてそうなるんだ。
「お前が、俺を?」
「はいそうです」
「刺した?」
「はいそうです」
ずっと土下座したままの楓花は、機械みたいに延々と回答を続けた。
そんな衝撃的な告白を聞いて、俺はどんなリアクションを取るべきか全くわからない。
「……いいから顔を上げなさい」
「いいえ無理です」
「無理じゃねえだろ。上げろって言ってんだよ」
「嫌です」
「じゃあもう帰る」
「え」
俺が席を立った音が聞こえたのか慌てて楓花は上半身を起こしたが、直接顔を合わせたくないのか頭の上から毛布を被った。
「はい」
……仕方無い。このまま話を続けよう。
その前に、俺はふと思い至ってサイドテーブルの引き出しを開ける。予想通りそこにはあの果物ナイフが入っていた。絵理子が戻しておいたのだろう。物騒なアイテムには違いないので、こっそりベッドの下へ忍ばせる。楓花の自供が本当だとして、改めて俺の命を狙うことはさすがに無いだろうが、万が一のこともある。実際絵理子は脅迫に使ったし。やっぱりあいつヤバいだろ。
「凶器は?」
「ポップスステージ用の小道具を作る時に使っていたカッターナイフです」
「計画的犯行なのか?」
「いいえ違います。たまたま外で後輩と電話をしていて、終わったタイミングであなたが通りがかったんです」
こんな事務的な取り調べがあってたまるかと思ったが、まあここまでは良い。問題は次だ。
「動機は?」
「えっと……」
やはり躓いた。
「むしゃくしゃしてやりました、か?」
「いいえ違います」
「じゃあなんだよ」
「己の心の弱さ故に……」
また楓花はしくしくと泣き始める。泣きたいのはこちらだ。
そういえば冒頭でちょっと挙動不審だったのは、このことをずっと胸に秘めていたからなのだろう。
「ちゃんと話しなさい」
「うう……」
表情が見えないので彼女が何を考えているのか全然わからない。
「……あの当時、もう私は何をどうやっても事態が解決しないことに、相当焦ってた。経験が無かったの」
日向も言っていたが、楓花は完璧超人だ。トラブルが起きても、たいていはなんとかなっていたのだろう。
「やっと念願叶って全国大会に行けるのに、どうして仲間割れなんてしなきゃいけないの? これまで普通に活動していた恭洋が、どうしてあそこまで晒し者にならなきゃいけなかったの?」
「指揮者はそういう運命なんじゃないか」
「は!? 指揮者に対して失礼過ぎるだろ!」
「ええ……」
下手に口出ししない方が良いかもしれない。
「だんだん、恭洋を叩く後輩達が憎くなっちゃって。そんなの絶対ダメってわかってたのに。あなたを刺す直前の電話も、ほとんど喧嘩だったよ。でも、最後に言われちゃったんだ。『組織よりも個人を優先するなんて部長失格です』って」
「おい、それ言ったの誰だよ。見つけ出してぼこぼこに――」
「いいの。事実だから」
言ったそばから口を出した俺に、楓花は冷たく答えた。
俺としては納得いかない。組織を構成するのは個人だ。どっちが優先とか、そういう低レベルなことを言う奴に楓花を貶して欲しくなかった。
「みんな焦ってたんだから仕方が無いよ。その子も、まともな演奏をしたかっただけだろうし。ぼこぼこにされなきゃいけないのは私なんだよ……」
「しねえよ。やりづらいことこの上ないだろ」
俺はため息を吐いた。
「……とにかく、もう限界だったの。同級生の中にも、私が恭洋にこだわり過ぎてるって声が上がり始めたから。正攻法であなたを守り続けるのは無理だと思った。だから……刺したの。恭洋本人も直接的な被害を受ければ体質の噂も紛れると思ったし、同情されるかなって。犯人は後輩の誰かだとみんな思うでしょ? さすがにやり過ぎたって、目を覚ましてくれないかなと思って。そんな身勝手なことを、恭洋の姿が見えた瞬間に考えてしまったんだ」
犯罪や不正が起こるとき、動機と機会と正当化の三要素が存在するということはよく知られている。夜の
「わかった。もういいよ。俺も無事だったし、そもそもお前がずっと引っ張ってくれたんだ。完璧超人でも魔が差すことはあるよ。話してくれてありがとう」
「違う! 慰めないで!」
なんでこんな毛布お化けみたいな奴を慰めなきゃいけないんだ。
「そういうことじゃなくてさ。もともと俺は犯人捜しをしなかっただろ? この話はもうとっくに終わってるんだよ」
「違うの。そんな綺麗事で片付ける事件じゃない。だって私はあなたを刺すときに、憎しみを込めてしまったから。どうして私が頑張っているのに、こいつは澄ました顔で全ての悪を背負ったように振る舞ってるんだって。お前がちゃんと全部否定すれば丸く収まったかもしれないだろって」
「……」
「私は、あなたを守るどころか、憎んで傷つけた。お母さんとの約束も破った。何が完璧超人だよ。歴代最悪の部員は、恭洋じゃなくてこの私なんだよ!」
毛布の中で叫んだ楓花は、そのまま言葉を続ける。
「恭洋は吹奏楽部どころか学校にも来られなくなって、全国大会もぼろぼろで……。結局、私は両方とも救えなかった。しかも恭洋はずっとひとりぼっちで……」
似たような懺悔を以前にも聞いた気がする。
「ごめんなさい」
「……もういいってば」
俺の声が投げやりに聞こえたのか、毛布がぴくりと震えた。
「いつまでその中にいるんだよ。具合悪くなるぞ」
「……」
実際にしんどかったらしく、案外素直に楓花が顔を出した。真っ赤に充血した目には依然として涙が溜まっている。せっかくの整った顔が台無しだ。
「お前が言った通りだ。あの騒動は俺が不甲斐無いばかりに悪化していった。智枝にも言われたんだ。どうして指揮台を下りたらダメになるんですかって」
「でも……」
「それに、日向から聞いたよ。お前、全国大会の後に二週間も引きこもったんだって? 定期演奏会も控えているっていうのに部長のお前らしくないなって、ずっと思ってたんだ」
「……」
「後悔してたんだろ? だから先生になることが決まった後に、俺を誘おうとしたんじゃないのか?」
図星だったらしく、楓花は何も言葉を返さない。
「むしろそんなことをしてくれたおかげで、お前だって六年も無駄にしてしまったんだ。でも意識を取り戻してくれた。俺はそれだけで充分なんだ」
「天罰だよ」
「……そんな身も蓋も無いこと言うな」
俺自身、まさか楓花が犯人だなんて全く思わなかったけれど、どこか腑に落ちた感覚もあるのだ。ずっと味方だった楓花ですら追い込まれてしまった原因は、間違いなく俺自身にある。彼女だけが罪悪感を抱えなくてもいい。
「お前、退院したらどうするんだ?」
「え?」
唐突な質問に、楓花は目を丸くした。
「やっぱり先生になるのか?」
「いや、まだそこまでは全然考えられてなくて――」
「なれよ。翡翠館に戻って来い。俺も絵理子も待ってるからさ」
「……」
すっと一筋の涙が楓花の頰を伝う。
目を閉じた彼女は何度も頷いた。
「……その二人がいるなら、戻らなくちゃね。あの学校に」
「ああ」
それきり、病室には静寂が流れた。
「――失礼します。すいませんねえ、お邪魔しちゃって」
しばらく経って、瑠璃が戻ってきた。
「あら、楓花ったらそんな顔して。恭洋さんに何かされました? やっぱりこの男と二人きりなんてまだ早かったかしら」
「おい。むかつくからその親戚のおばさんみたいな喋り方やめろ」
「おばさん!? もともと反抗期の塊みたいな子でしたが、育ての親に向かっておばさんだなんて……」
「面倒臭いな……」
「お母さん、いいの。いろいろ話して感極まっただけだから!」
「そう? じゃあいいです」
瑠璃は見舞い品の中から林檎を一つ手に取って、サイドテーブルの上に置いた。
「恭洋さん、ナイフを貸してもらえます?」
「はいはい……あっ」
先ほどベッド下に隠したのだった。
仕方無く取り出すと明らかに不審な顔をされたので、努めて自然に備えつけの洗面台で軽く洗ってから瑠璃へ手渡す。元を正せば絵理子とかいうサイコパス教師のせいだ。俺は悪くない。
「――はい、どうぞ」
俺と違って瞬く間に皮を剥き終えた瑠璃が、カットされた林檎を差し出してくれた。
「ありがとう」
口に含むと、歯応えの良い果肉を咀嚼する度に甘酸っぱい果汁が溢れる。ほんのりと蜜の風味が鼻から抜けた。やはり旬の時期は格別だ。
「恭洋。本当にありがとね」
楓花が声を上げた。
「なんだよいきなり」
「私、あの演奏会の動画を何回も繰り返し見てるんだ。あれのおかげで、早く退院しようってモチベーションが沸いてくるの」
「そっか」
「絵理子がナレーションで言ってたよね。『エメラルド』を目指して練習してきたって」
「ああ」
「本当に嬉しかった。私達が輝きを失わせてしまったあのサウンドを、恭洋達が蘇らせてくれたから」
「みんなが頑張ったんだよ」
「うん。そうだと思う。でも指揮したのは恭洋だから。どんなバンドでも演奏の責任を負うのが指揮者なんでしょ? 良い演奏をしたなら称賛も受けるべきだよ。あのコンサートは、間違い無くみんなの心に届いたから……」
そう言われて、俺はつい楓花の顔を凝視してしまった。
「何? 変なこと言った?」
「い、いや……」
高校時代、俺達の代に替わった時から楓花は言い続けてきた。『出した音は、聴衆の耳じゃなくて心に届けるんだ。そうしなければ、聴衆が満足することなんて絶対無いから』と。
これは、俺達の根底にある意識だった。
当時、最後の最後に自分達自身がその言葉を裏切ってしまった。俺が音楽室を出て行ったあの日、エメラルドはただの路傍の石に変わった。
だからこそ、楓花が認めてくれたことは嬉しかった。十年越しに、俺達が目指したサウンドを響かせることができたんだ。
「そういえば恭洋、洒落たネクタイつけてたよね。自分で買ったの?」
「ネクタイ……。言われてみれば、結局あれってどこから沸いて出たんだろう」
群青色の下地にゴールドのストライプ。入学式の演奏直前で、礼服のポケットに入っていたことに気づいた謎のネクタイだ。
「ふふふ」
話を聞いていた瑠璃が不気味な笑い声を上げる。
「春先に一度この街へ戻った時に、恭洋さんの家に行ったんですけど、あいにくお留守でして。その時プレゼントしようと思って持って来たんですよ」
「え、瑠璃さんだったの!?」
「ええ。でも不思議なことに、玄関のドアノブが壊れていて中に入れたので、こっそりとあの礼服のポケットに入れたんです」
「戸が壊れてるのに外出なんて、不用心だねえ」
楓花は呑気にそう言ったが、ぶっ壊した犯人はお前の妹だぞ。
おそらく俺が不在だったのは、入院していたからだろう。あの僅かな空白の期間に訪れたなんて、瑠璃もタイミングが悪い。
「俺がいる時に来てくれれば良かったじゃないか」
「いや、その後いろんな方々に挨拶周りをしていたんですよ。夫の件を、あなたの親戚にも伝えるために。全国各地へ飛んで、ようやく帰ってきたのがあの八月の夜でした。プレストであなたと絵理子ちゃんに会った日ですよ」
「そう、だったんだ……」
だからキャリーバッグなんて持ってたのか。
「ネクタイ、ありがとう」
俺は素直に礼を言った。あれが無かったら俺は葬儀に参列する格好で入学式の舞台に上がるという、印象最悪の暴挙に及ぶところだった。
「いえいえ。社会人ならあっても困らないだろうと思って。まさか無職だとは思いませんでしたけど。うふふ」
「一言多いんだよ、あんたは」
――時刻は昼時に差し掛かろうとしていた。
「そろそろ食事だよな。じゃあ、帰るよ」
「わかった。いろいろ聞かせてくれてありがとう。それと、これ返すね」
「ああ。見たくなったらいつでも言ってくれ」
「うん!」
俺は日向のメモ用紙を受け取り、手帳に挟む。
「恭洋さん。それから絵理子ちゃんも。日向と一緒に過ごしてくれて、あの子のために泣いてくれて、ありがとうございました」
聖母のように微笑む瑠璃の言葉を聞いて、俺はあの少女が消えた時のことを思い出した。
部員達が発見するまでホールの二階席で延々と泣き続けていたダメ大人達は、情けなくも生徒に介抱されながら会場を後にしたのだ。
「いや、お礼を言うのはこちらの方だ。あんたの娘は……楓花の妹は、本当に立派な女の子だよ」
偽りの無い俺の言葉を聞いて、二人は誇らしそうに笑みを浮かべた。
「――で、これからどうするの?」
楓花から漠然とした質問を投げられる。
「俺もどこかで昼食を――」
「いや、そうじゃなくて」
「……」
楓花の心配そうな視線と、瑠璃の生暖かい眼差しが俺に降りかかった。
「まだ決めてないけど、手に職をつけようとは思ってるよ」
「そっか」
楓花は安堵したように微笑んだ。
「また来てね」
「ああ」
「体、気をつけてくださいね」
「ありがとう」
――病室を出ると、看護師達が昼食の配膳の準備をしていた。邪魔にならないようにエレベーターへ乗り込み、そのまま病院を出る。
スマホの電源を入れると、着信が入っていた。
『もしもし』
「ああ、京祐。電話くれたか?」
『折り返し悪いな。今月の最後の日曜日なんだけど、イベントの出演オファーがあってさ。入れてもいいか?』
「構わないよ」
『了解。詳細はまた改めて送るよ』
「いつも悪いな」
『今さら何言ってんだ』
「楓花の見舞いに行ってきた」
『……そうか』
「もうだいぶ元気そうだよ。お前も近いうちに行ったらどうだ?」
『ああ。必ず行くよ』
「うん。じゃあ、よろしく」
通話を終えると、冷たい木枯らしが頰を撫でた。
♭
今日もまた、夜が訪れる。
自宅の寝室で、俺は一枚のディスクをコンポに挿入し、再生ボタンを押した。マスターが持っていたのと同じ、定期演奏会の音源だ。
数秒後、アナウンスに続いて金管楽器の華麗なファンファーレがスピーカーを震わせる。
――本当に、密度の濃い半年間だった。
苦労と困難。出会いと別れ。そして蘇った輝き。
あのオレンジの少女がこのベッドを占領することは、もう二度と無い。けれど、彼女はずっと俺の記憶の中で生き続けるだろう。
姿を消した後の彼女がワルプルギスに飛ばされていなければ良いが……。いや、あいつのことだから、そんな修羅場に行き着いたとしても楽しく魔女とダンスを踊っているかもしれない。
そんなことを考えながら、トラックは進んでいく。
みんながプレゼントしてくれた『心の瞳』は、何度聞いても涙が溢れてきた。
もしもこの出会いが運命であったならば。
投げ出さなくて良かった。みんなと一緒に駆け抜けることができて、俺は本当に幸せだ。
全てのプログラムが終わり、拍手が沸く。
だんだんフェードアウトする音源に合わせて、俺も徐々に微睡んでいく。
――翡翠館高校吹奏楽部が辿った十年に及ぶ長い旅路は、一度その幕を下ろした。それと同時に黎明を迎えたこのバンドが、これからどのような道のりを歩んでいくのか、そんなことは誰にもわからない。
でも、輝きを取り戻したエメラルドを磨き続ける限り、そのサウンドは聴衆を魅了し続けることだろう。
この黎明の輝きを決して途絶えさせないことこそが、俺の使命であり、願いなのだ。
だから、日向。お前はゆっくり休んでくれ。お前の遺志は必ず俺達が繋いでいくから。
もしも天国から俺達の演奏を聞くことができたならいいな。もしそうであるなら、いつでも聞きにおいで。ずっと待ってるから。
そうして俺は、夢も見ないほどの深い眠りに落ちた。
いつもと変わらぬ夜明けの到来を待ちわびながら。
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