十六

 十一月の異名である霜月という言葉は、まさに言い得て妙だと感じる。早朝の通学路沿いにある、とっくに稲刈りの終わった田んぼにも霜が下り始めた。吐息も白く色づき、冬の訪れを感じさせる。

「それにしても、先日の定期演奏会は素晴らしかったですねえ」

 すっかりプレストの常連となった俺に、マスターがしみじみと声を掛けた。

「皆さんのおかげです。本当にありがとうございました」

「おや、そんな殊勝なことをあの秋村君が言うとは……。人は変わるものですね」

「ちょくちょく嫌味を混ぜてくるマスターは相変わらずですね!」

「ははは」

 何を笑って誤魔化そうとしてるんだ、この店主は。

「そういえば、狭川先生から演奏会の音源をいただきましたよ。ありがとうございます」

「いえいえ」

 ライブ配信のアーカイブが残っているので媒体さえあればいつでも見られるのだが、マスターは機械系に弱いらしい。

 あの配信も、最終的に同時接続が数百人にまで増えたらしく、改めて提案してくれた智枝には感謝である。当の本人は「これで貸し借りゼロです」などと言っていたが、俺達への借りが県大会の失格の件だとしたら全然相殺できていないと思うので、今後もねちねち憑き纏ってやろうと思う。我ながら最低な先輩だ。

「それにしても狭川先生、まさかお辞めに……なるつもりだったなんて驚きです」

 マスターが言いづらそうに呟く。

 結局、絵理子は辞表を取り下げた。まあそもそも提出前ではあったが。

 ある日たまたま第三職員室を訪れた二年生部員が辞表を見つけてしまったのだ。定期演奏会であれだけ気持ちを伝えたのに辞めるだなんて、と部員達が泣き叫ぶ様子はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図みたいだったのだが、絵理子はむしろそれを見て退職を見送ったらしい。家出を引き止められた母親のような心境だったのだろうか。あんな素行不良な母親ならこちらから進んで家出したいと思うけれど。

「秋村君はいつでも反抗期ですからね」

「……」

 誤魔化すようにホットココアを啜る。

 絵理子も禁煙は始めたようなので、それについては良しとしておこう。

「ところで、今日はまた珍しい時間にいらしたんですね」

 マスターが指摘するように、まだ時刻は十時前だ。普段の俺はたいてい昼以降に訪れることが多い。

「ああ、実はこの後用事があって」

「ほう。それは珍しい」

「瑠璃さんに会うんですよ」

「……そうですか。ということは、もしかして」

「ええ。楓花の面会に行こうと思って」

「なるほど」

 マスターは柔らかな微笑みを浮かべた。当然彼も楓花のことは知っている。ずっと寝たきりだったことに関しても、だ。

 彼女は先週からようやく面会可能となった。それまで定期的に瑠璃が様子を教えてくれたが、容態は安定しているし後遺症の類も今のところは見られないようだ。リハビリも始まっているらしい。

「それにしても、本当にあっという間の半年間でしたねえ」

「え?」

「春先に言ったじゃないですか。この店の名前の由来を聞かれた時に」

「ああ……」

 そんなこともあった気がするけれど、正直うろ覚えだ。ただ、瞬く間に時が流れていったことに関してはマスターの言う通りである。

「秋村君。もう時間を無為にしてはいけませんよ」

 真っ直ぐ見つめられた俺は、頷く他なかった。

 でも、言われなくてもわかっている。

 あのオレンジの少女との約束だから。


 ♭


「あら、お久しぶりです」

「どうも」

 総合病院の廊下で鉢合わせたのは和美だった。

「淑乃は元気ですか?」

「んー、どうかしらねえ。だいぶ思い詰めているみたいだけど」

 淑乃は夏頃から音大を目指したいと考えていたらしい。彼女の場合、実技よりも学科試験の方が問題なので苦労しているのだろう。絵理子がほぼマンツーマンで指導しているが。

「まあ、あれだけ素敵な演奏会ができるまで成長したんだもの。きっと大丈夫だと思います」

「そうですね」

「秋村さんのおかげですよ」

「いや、俺は何も……」

「またまた。董弥のこともよろしくお願いしますね」

「ええ、もちろん」

「今日は、あの七階の?」

「はい」

「そうですか。あの方、日に日に元気になってますよ」

「それは何よりです」

「じゃあ、私はこれで」

 そのまま和美は担当する病棟へと向かっていった。俺は会釈を返してからエレベーターに乗り込む。

 廊下の最奥、七〇五号室。

 ノックをすると瑠璃の声が返ってきた。

「どうも」

 部屋に入った俺の耳にピアノの音色が溶け込む。ドビュッシーの『月の光』だ。

 楓花は、ベッドの上で穏やかに寝息を立てていた。

「寝ちゃってるのか」

「ええ。まだ疲れやすいみたいで」

 瑠璃が答える。この景色だけ見ると半年前からさほど変わらないので、本当に意識を取り戻したかどうかも怪しく感じる。

「大丈夫。ちゃんと起きますから」

 俺の感想を見透かしたように瑠璃が言った。

「まあ、まずは座ったらどうですか」

「あ、うん」

 俺は窓際に置いてある丸椅子に腰掛けた。ベッドを挟んで対面には瑠璃がいる。

 なんだかんだ言って、彼女と話すのも定期演奏会以来だ。

「ちょうど良かった。あなたには、もういろいろ話しても良い頃合いだと思っていたんです」

 いきなりの意味深なセリフに、つい身構えてしまう。

「そう緊張しなくても大丈夫ですよ」

「あ、ああ……」

 ちょうど『月の光』が終わったので、瑠璃は停止ボタンを押した。室内には空調の作動音だけが微かに漂っている。

「――あなたのご両親は、私の世代の希望の星でした。どちらもコンクールで優秀な成績を残し、海外のオーケストラとも共演するような……」

 それは知っている。

「でも、当然ライバルも多くて。そのうちの一人が、後に私の夫となる男だったんです」

 初めて知った、というか瑠璃の素性についてはもともと全く情報が無い。楓花と日向の母親だということも知らなかったくらいだし。

「あなたの両親と私達夫婦は、同じ音大の出身なんですよ」

「え、あんた音大出てんの!?」

「はい。専攻はアルトサックスでした」

「そうだったんだ」

「ちなみに夫は指揮科でした」

「指揮ってことは、父さんと同じ……」

「ええ。私はプロを目指すつもりは無くて、もともと教員志望でした。翡翠館に通ってる時は吹奏楽部にいましたし、いつか役立つだろうと思って全ての楽器の奏法を勉強したんです」

 それで俺にも全部教えられたのか。

「問題は夫です。どうもあの人、あなたのお父さんのことになると周りが見えなくなることが多くて。それ以外は至って普通の好青年だったんですけど」

「そもそも瑠璃さんはどうやって知り合ったの?」

「たまたまです。ふふふ」

「そ、そうですか」

 妙に迫力のある微笑みが返ってきたのでそれ以上の追求はやめた。まあ、出会いっていうのは広い意味で言えば全部たまたまだしな。太平洋くらい広い意味だけど。

「大学卒業前の、最後の国内コンクール。それまで既にいくつかの賞を取っていたあなたの父親は、参加しないものだと思われていました。逆に、その時点でとくに受賞歴も無かった夫は最後のチャンスだと思っていたんです」

 正直、どんなコンクールか知らないが、学生がそう容易く何人も受賞できるようなものじゃないと思う。身内のことで恐縮だが、父が天才だっただけであって、瑠璃の旦那さんが神経質にならなくても良かったのではなかろうか。

「ただ、出ちゃったんですよねえ……」

「は?」

「あなたのお父さん。空気を読まずに出場しちゃったんですよ」

 そんな身内の恥みたいな話は聞きたくなかった。

「で、一位を取っちゃって。二位が夫」

「……なんかすいません」

「あなたが謝ることではありません。それに、二位でも充分立派だと思いますよ。そもそも夫はまだ学生だったのに焦り過ぎでした」

「それ、母さんは何も言わなかったの?」

「良い質問ですね。ずばり、あなたのお母さんは、お父さんをめちゃくちゃ応援してました」

 どこが良い質問だ。夫婦揃って頭の中がお花畑か。

「しかも! うちの夫はもともとあなたのお母さんに惚れていたんですよねえ」

 救いは無いんですか。

「つまり、私の夫はあなたのお父さんに、成績もプライドも女も持っていかれてしまったんです!」

「ねえ、なんでそんな興奮してんの? あんたの旦那だろ?」

「……すいません取り乱しました」

 サイドテーブルに置いてあったペットボトル入りのお茶を一口飲んで、瑠璃は再び冷静になった。

「問題はその後なんですよ。私は彼の支えになりたいと思って結婚しましたけど、最初のうちは客演指揮者として地方のオーケストラに呼ばれるのが年に何回か、といった感じで。それでも地道に活動を続けてようやく大きな舞台に上がるチャンスが巡ってきたのですが、タイミング悪くインフルエンザに罹ってしまったんです。その公演の代役の指揮者が、あなたのお父さんでした」

 旦那さんのツキの無さも凄まじいと思う。

「そこからです。夫がおかしくなったのは。ちょうど楓花を身ごもった頃でした」

 ふと、今さらながらこの人ってもうわりといい年齢なんだよな、と思い至った。家政婦をしていた頃と比べると歳を重ねた感は否めないが、それでもまだまだ若々しく見える。

「人が真面目な話をしているのに、どうでもいいことを考えていますねえ。お仕置きされたいんですか」

「怖えよ」

 褒めたのになんでだ。

「……とにかく、あの頃の夫は精神的に相当参っていたんですが、私は楓花の出産でフォローもできなかったんです。そうこうするうちに、秋村家ではあなたが生まれ、木梨家では楓花が生まれた。そしてあなたを産んですぐ、お母さんは亡くなってしまった」

 そう繋がるのか。

「すると、お父さんも翌年には後を追うように事故に遭って……。本当に痛ましいことでした。この国の音楽界においても、もちろんあなたにとっても。ずっと気にしていたのですが、あなたの状況を知ったのはようやく楓花の育児が落ち着いた頃でした。親戚中をたらい回しにされていると。しかも行く先々で凶事が発生すると」

 そのあたりまで来ると俺もおぼろながら記憶があるので、説明されなくてもわかる。結局小学三年に上がる頃、最後の引き取り手にも家を追い出されたのだ。遠い親戚だったが、どんな関係だったかまでは覚えていない。

「あなたの行く宛が無くなる、ほんの少し前に私の夫もいなくなりました」

「……いなくなった?」

「ええ。失踪してしまったんです」

 突然の衝撃的な告白に理解が追いつかない。

「どうすれば良いか、私も混乱しましたが……。ひとりぼっちになったあなたの状況を知って、育てることを決めたんですよ」

「楓花は?」

「私の両親に面倒を見てもらいました。幸い、すぐに会える距離ですから頻繁に帰ってましたし」

「そうか……」

 俺はずっと瑠璃のことを本職の家政婦かと思っていたので、見かねた親戚の誰かが雇ってくれたのだろうというくらいにしか考えていなかった。まさか、俺の両親と関係があったなんて……。

「そういえばさ。日向って、本当にあんたの子なのか?」

「なんですかその失礼な質問は」

 瑠璃はすぐに窘めたが、いつもの微笑にほんの僅かな硬さがあることを、俺は見逃さなかった。

「年齢を考えると、あんたがうちにやってきて一、二年で日向が生まれたことになるよな? でも当時あんたが妊娠していた記憶も、長期間不在だった記憶も無いからさ」

「無駄に物覚えはいいんですね」

「うるさいな」

「……まあ、あなたの言う通りです。日向は私の夫の姉夫婦が授かった子ですよ」

「じゃあ、どうしてあんたのところに?」

「あなたの父親と一緒です」

「は?」

「生まれてすぐ、二人とも交通事故で亡くなりました」

「おい、嘘だろ?」

「今さら嘘を吐く意味があるんですか?」

「人が死に過ぎだろ!」

 頭痛がしてきた。サスペンスじゃないんだから。というか、俺の周囲の人間はなるべく外出を控えた方が良いのではないか。こう何人も事故に遭っているのは、そういう車両を引き寄せているとしか思えない。

「それも含めて『呪い』だったというのがわかったのは、つい半年くらい前の話です」

「呪いって……」

「あなたの体質云々だけではありません。私の夫は……」

 瑠璃は一度言葉を詰まらせた。そして俺の方を改めて眺めてから深く息を吐く。

「……私の夫は、あなたの父母を呪っていたんです。どこで知り得たかもわからぬ怪しい手段を使って」

「そんなオカルトがあってたまるかよ」

「あなたが言うんですか?」

「それは、たしかにそうだけど……。いったいどんな内容の『呪い』なんだよ」

「秋村に関する者が不幸になること。ただそれだけです」

「は? そんな漠然とした呪いに、俺達はずっと振り回されてきたって言うのか!?」

「恭洋さん、声」

「あ」

 つい立ち上がってしまった俺が目線を下げると、寝ている楓花が呻く。

「曖昧な内容のせいで、あなたの体質が形成されてしまったのかもしれません」

「そんな……」

 俺は力無く椅子に座り直した。

 結局、ただの嫉妬や執着じゃないか。逆恨みに巻き込まれたこちら側は、たまったものではない。

 音楽をやっている人間がそうなってしまうということが、俺にはどうしても許せなかった。

 いったい何と闘っているんだ。どこに目を向けているんだ。

「その点、智枝ちゃんは踏み留まれたようで良かったです」

 儚げに瑠璃が言った。たしかに、あいつも同じような考え方に囚われていたのかもしれない。

「あなたに家を追い出された後、いろいろ考えたんです。さすがに不幸が起き過ぎだ、と。絶対に夫は何か知ってるんじゃないかと思いました。だから私は楓花にあなたを託して、失踪した夫を探すことにしたんです」

「え?」

「翡翠館高校に入学したら秋村という同級生を探して、彼を吹奏楽部に入れなさい、と」

「じゃあ、こいつは最初から俺のことをわかって……」

「ええ。ただ、なかなか夫の行方はわからず時間だけが過ぎていきました。結局、この子達とまともに触れ合うこともせず両親に甘えてしまい……。私は母親失格です」

「父親の方が最低だろ」

「……間違いありませんね。ようやく彼の手掛かりが見つかったのは、楓花の事故が起きた直後でした」

「そんなに時間がかかったのか」

「ええ。彼は遠い異国の地にいたので。私はこの子と日向を置いて、彼を見つけに行くことを決めました。最後にあなたへ手紙だけ送って、私はこの国を離れたんです」

 楓花の事故を知らせた、あの差出人不明の手紙。どこかで見た覚えのあるあの文字の主は、瑠璃だったのだ。

 その時の彼女の心境など俺には知る由も無い。だが、寝たきりの楓花とまだ中学生かそこらの日向を置いて一人で海外へ行くことに、尋常ならざる覚悟が必要だったことはわかる。

「そこまでして知りたかったの?」

 俺が聞くと、瑠璃はにっこりと口角を上げる。

「知りたいに決まっているでしょう。いくらあなたの世話をしていたとはいえ、妻である私まで呪いの対象になるなんて、いい度胸をしていると思いませんか?」

 目だけは全く笑っていない彼女の言葉に、冷や汗が背を伝う。

「それに、あなたまでくだらない呪いに付き合わせ続ける訳にはいきませんでしたからね」

 今度はちゃんと暖かみのある笑顔と言葉だった。

「ありがとう……」

「いえいえ。まあ、海外へ飛んだはいいものの、実際に見つけるまでまた数年かかったんですけどね。もうさすがの私でも発狂するかと思いました」

 不謹慎にもその姿を一度見たいと思ったが、おそらくこの世の終わりみたいな光景になるのですぐに掻き消す。

「ようやく会えたのが、今年のバレンタインの頃でしょうか。――海が見える教会の裏に、彼は眠っていました」

「……え?」

「とっくに亡くなっていたんです。案内されたらお墓があるんですもの。驚きですよね」

 何も言葉が出てこない。

「その教会には、夫が預けたという手記が保管されていました。自分を訪ねてきた者に渡して欲しいと」

 それはもう手記というか遺書なのでは……。

「そこには、あなたの父親がどうしても邪魔で、自分が調べた禁術で呪いをかけてしまったと書かれていました。生まれてくる子どもも不幸になればいいと。でも、いざ実際にあなたの父親がいなくなると、音楽のイメージがさっぱり湧かなくなってしまった。そこで初めて、自分が今まで向き合っていたのは『音楽』ではなく『ライバル』だったと気づいたようです」

「そりゃ、コンクールも二位になる訳だ」

 吐き捨てるように言うと、瑠璃は申し訳無さそうに下を向いた。

「……お父さんだけじゃなく、お母さんまで死んでしまって。もともと音楽関係の家柄である秋村家の親戚もあなたを介してどんどん不幸に見舞われていくところを見て、夫は疲弊していきました」

「何が疲弊だよ。だったら呪いを解けばいいじゃないか」

「ダメだったんです」

「は?」

「解けなかったんですって。だから、何も言わずに日本を飛び出たと。自分がいなくなれば効果も無くなるんじゃないかって」

「無責任にもほどがあるだろ!」

「声」

「あ、すいません」

「ただ、その後日向の両親が死んだことを知った夫は絶望しました。だって、彼らは秋村家とは無関係なのだから。そこで夫は、呪いの矛先が自らの周辺にも及び始めたんじゃないかと考えたそうです。まさに『人を呪わば穴二つ』……。だから夫は最終的に自ら命を絶ちました」

「なんだよ、それ……」

 絶望するのはこちらの方だ。それじゃあ、誰も救われないじゃないか。

「夫の手記を持ち帰った私は、そういった『呪い』の類に詳しい専門家のところへ行って、一切を話しました」

「それ、ちゃんとした人なの? 詐欺とかじゃなくて?」

「私が会った感じでは、信頼できそうな人でしたよ。その方が言うには、術者が亡くなったなら『呪い』も消えているだろうって。まあ、素人の私にその真偽を確かめることなんてできないんですけどね」

「それであんたは『もう呪いなんてありません』って言ったのか」

 県大会直前にプレストで瑠璃と再会した時のことだ。

「ええ。でも恭洋さん。そうなると一番気になるのは『夫がいつ死んだか』ということですよね?」

「あ、たしかに」

 旦那さんが亡くなって呪いが解けたなら、それ以降に起きた災難は呪いとは無関係ということを意味する。

「十三年前の春です」

「へえ……」

 年数で言われてもいまいちピンと来ない。

「あなたが高校に入学する直前です」

「……は!?」

 素っ頓狂な声を上げてしまった瞬間、今度こそ楓花が目を覚ました。

「んむ……ん?」

 寝ぼけ眼と目が合う。

「んん? もしかして、恭洋?」

「……ああ。そうだよ」

「ずいぶん久しぶりだねえ」

 こっちまで眠くなるようなのんびりした口調だが、間違いなく十年ぶりに聞く楓花の声であった。

「楓花。すぐ戻るからちょっと待っていてくれ」

「え?」

「瑠璃さん、ちょっと」

 俺は瑠璃を連れて一度病室を出た。まだ話が途中だったからだ。

「さっきの、本当か?」

「何が?」

「だから! 俺が高校に上がる頃にはあんたの旦那さんが亡くなってたって」

「そうですよ」

「じゃあ、楓花と日向はたまたま事故に遭ったっていうのか? そんなことがあるかよ!」

「恭洋さん」

「それが本当なら、この十年はいったいなんだったんだよ! 高校の最後だって――」

 パン、と乾いた音が鳴った。

「恭洋さん。病院で大声を出すような無礼をあなたに教えたつもりはありません」

 俺の頬を打った右手を下ろしながら、静かに瑠璃が言った。

「でも、こんなのって、あまりに……」

「ごめんなさい。全て私と夫のせいです。でも……」

 瑠璃は病室の扉をちらりと見てから俺の方へ向き直る。

「楓花は目を覚ましてくれた。日向もあなたと絵理子ちゃんのところに現れてくれた。そしてあなたは自分の力で呪いを克服しようとして、仲間ができた。自分勝手ですけど、本当に良かった」

「……そもそも、あんたは何も悪くないだろ」

「いえ。夫を一人にさせてしまいましたから。――さて、後は若いお二人で楽しくやってください」

「なんでいきなりお見合いみたいなこと言うんだよ」

「いいからいいから」

「え、おい、ちょっと!」

 強引に病室へ戻された俺は、ぽかんとする楓花に対して愛想笑いを浮かべることしかできない。

「では、ごゆっくり」

 にやにやしながら瑠璃はドアを閉めて、どこかへ行ってしまった。

「……とりあえず座れば?」

 楓花に促されて、先ほどまで自分が座っていた椅子に再び腰掛ける。

「……廊下、寒くなかった?」

「いや、大丈夫」

「そう……」

「……」

 やりづらいわ!

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