十五

 休憩中に次のステージの着替えを済ませた奏者達が舞台袖に集合した。萌波がデザインしたシャツだ。仄暗い中にありながら、エメラルドグリーンに染まる彼らの鮮やかさは壮観である。

「あれ、お前も着替えたのか」

 第一部で大仕事を務めた絵理子もシャツを着ている。ちなみに俺もだ。

「え、ええ……。みんなから執拗に言われて……」

 戸惑ったように絵理子が答えた。第二部のポップスステージは、玲香と美月という新旧の部長が司会を行うため、絵理子はフリーである。なんなら客席で演奏を聞いても問題無かったのだが、こんなに目立つ衣装を着てしまったらそれは無理だ。本番中に何が起こるかわからないということもあるので、彼女には大人しく舞台袖で待機してもらうことにする。

「あなた、本当に明るい色が似合わないわね……」

「うるさいな」

 憐れむような目をする絵理子に何故か同情された。そんなことは俺がいちばんわかっているので触れないで欲しい。

 既に舞台上の準備も整っている。やはりグランドピアノが出ているのは違和感を覚えるが、思ったよりパーカッションパートとのゆとりがあったので演奏への支障は無いだろう。

 第二部は淑乃と董弥も指揮を振る。生徒指揮者として、淑乃は最後の、そして董弥は最初のステージだ。姉弟揃っての晴れ舞台なので、和美と中継で繋がることができて本当に良かったと思う。

 ポップスステージのコンセプトは「私達が紡ぐ物語」だ。部員達は『メリー・ウィドウ』で味を占めたのか、今回の選曲候補に挙がったのはミュージカルや劇の付随音楽が多かった。それならいっそのことほとんど統一させてしまおう、ということになったのだが、コンクールの自由曲にしても遜色無いくらいの曲がずらりと並ぶので全然ポップスステージっぽくない。『オペラ座の怪人』、『レ・ミゼラブル』、『ウエスト・サイド・ストーリー』、『ポーギーとベス』……。

 はっきり言って重過ぎると思う。決定した奏者もたいがいだが、そのまま黙認した指揮者は頭がおかしい。俺だけど。

 だが、やるからには観客を退屈させてはならない。これまで積み上げてきたものを生かし、物語の情景が鮮明に浮かぶような演奏をすることが、このポップスステージの大目標である。

 それは、かつて「炭みたいな音色」や「味の無いガムのような表現」だと俺にこき下ろされた三年生達の、俺に対する最後の反抗でもあった。

 もちろん、メインディッシュしかないコース料理さながらのプログラムの中にも、これまで演奏した『ディスコ・キッド』や『宝島』といった箸休め的な曲も演奏する。そんな言い方をしたら恐れ多いことこの上ないのだが、あくまで相対的にという意味だ。

『間もなく第二部が開演致します。ロビーにお出での方は――』

 会場スタッフがアナウンスをかけた。

 オープニングは、ガーシュイン作曲の『ポーギーとベス』組曲。一九二〇年代のアメリカ南部を舞台にしたオペラだ。一応恋愛物語ではあるが、殺人や薬物、乱闘などが描かれるのでけっこう血生臭い。結末もハッピーエンドとは言い難いものの、この組曲は全体を通して楽天的な明るさが支配しており、メロディーも非常に親しみやすい。ブロードウェイで初演されたこのオペラは、二十世紀を代表する作品として愛されている。

 ――奏者全員のスタンバイが整い、開演ブザーが鳴った。

 その瞬間、ステージ上は眩いばかりの光に包まれる。間髪を入れずに俺は指揮棒を振った。

 このメンバーで演奏する最後の舞台。

 十年に及ぶ翡翠館高校吹奏楽部の旅路を締めくくるステージが、幕を開けたのだった。


 ♭


 リハーサルでも一通り確認したので全く心配していなかったが、玲香と美月のコンビはかなり相性が良かった。たいてい美月が話を振るのだが、玲香の返しがめちゃくちゃなのだ。会話が成立するギリギリですらあったが、聴衆にはけっこうウケているようである。

 部員に関しては第一部でも「ヤバい人達」だということが仄めかされていたし、実際にそれを知る者が客席にもいるので、おそらく玲香の司会から滲み出る独特な雰囲気を素直に感じ取っているのだろう。

 今回のステージは、寸劇も歌唱もダンスも無い。吹奏楽部のポップスステージと言えば、わりとなんでもありのイメージだが、今日はエンターテインメントのほとんど全てを演奏に注ぎ込んでいる。音楽しかないと豪語する三年生達を尊重したからであるが、二人の司会は堅苦しさを和らげてくれている。

 肝心の演奏も、非の打ち所が無かった。とくにソロを担当する奏者のレベルが高過ぎて、一周回って笑えてくる。

 目論見通り、表情豊かな楽曲が散りばめられているおかげで観客も楽しめている様子だ。

 今さらながら、定期演奏会の前からこれと言ったトラブルが起きていないことに思い至る。

 本当に俺は解放されるのだろうか。

 解放されたとして、俺はこの先どうしたら良いのだろう。

 まずは、目を覚ました楓花のところへ行くべきだろうが……。

「――ちょっと、本番中に何をぼうっとしている訳?」

 絵理子の声で現実に戻される。

 今は淑乃が指揮を振っており、俺は舞台袖で待機している。

「……絵理子。今までありがとうな」

 自然と口から感謝の言葉が漏れると、彼女は少し驚いてから苦笑した。

「もっと早く言いなさいよ」

「はいはい、すいませんね」

 どこまでも可愛げの無い絵理子だが、最後まで不協和音なのが俺達には合っているのだろう。

 楽曲が終わり、拍手が起こる。

 遂に、ラスト一曲とアンコールを残すのみとなった。

『――楽しい時間は本当にあっという間ですね! この第二部も、そろそろ終わりが近づいてきました!』

 美月が元気良くアナウンスすると、場内から「えー!」と不満の声が上がる。奏者冥利に尽きるというものだ。

『ありがとうございます。私達はまだまだこれからも皆さんの前で素敵なエンターテインメントを披露できるように頑張っていきます! ね、先輩!』

『いや、私は今日で引退なんだけど』

『そこは私達を応援してくださいよ!』

 終わりを感じさせない軽妙なトークが続く。

『改めまして、今年一年部長を務めさせていただいた私から、ご挨拶を申し上げます』

 ――ん?

 俺はつい絵理子と顔を見合せた。玲香の言葉が、もともとの台本には無いセリフだからだ。

『ここにお集まりの皆さん、そして配信でご覧の皆さん。今日はたくさんの方に私達の演奏会をお届けすることができて本当に幸せです。ありがとうございました。また、今日を迎えるにあたりご尽力いただいた皆様にも感謝を申し上げます』

 玲香が話す後ろでは、何やら舞台配置を変えているような音が聞こえる。いったいどうしたと言うのだ。まさかここまで来てトラブルでも――。

「恭洋。とりあえず玲香の話を聞きましょう」

 冷静な絵理子の声が少しだけ俺の心を落ち着かせた。

『十年前、まだ小学生だった私が初めて聞いたブラスバンドの音色は、黄金期を迎えていた翡翠館高校の演奏でした。あの「エメラルド」のサウンドに憧れた私達を導いてくれた人物こそ、指揮者の秋村さんと、顧問の狭川先生――まさに当時の奏者だったんです』

 なんだかくすぐったい。

『正直、二人ともまともな大人かと言われると、大きなクエスチョンマークがついてしまうのですが……』

 上げてから落とすのやめろ。

『二人とも、十年間ずっと責任を感じていたからこそ、「エメラルド」を復活させたいという私達の気持ちに応えてくれたんじゃないかって思うんです』

 セリフの途中で、舞台袖が少しざわざわし始めた。どうやら誰か訪れたようだ。

「こんなタイミングでいったいなん、だ……」

「こんにちは」

 目の前に突如として現れたのは、メガネを掛けた少女。そしてその後ろには十名程度の男女がいる。

「お前……」

「覚えていてくれましたか? あの時はありがとうございました」

 軽くお辞儀をしたその少女は、記憶が正しければ合唱部の部長だ。たしか名前は……。

「八神です」

 そう、八神菜々花だ。ちょっとリアクションに癖がある気弱そうな女子生徒。「あの時」というのは俺が伴奏を手伝った際のことだろうか。

「どうしてこんなところに?」

「皆さんからお願いされたので。できることがあれば言ってくださいと、あなたにも伝えたじゃないですか」

「たしかにそんな話もしたような……。あっ、ちょっと!」

 記憶を辿る俺を無視して、集団はそのままステージへ上がってしまった。彼女が先頭ということは、おそらく合唱部のメンバーなのだろうが……。

『――あいにく今日はゲストを招くことができなかったのですが、そんな私達のために駆けつけてくれた方々がいます。翡翠館高校合唱部の皆さんです!』

 スポットライトに照らされた合唱部が一礼すると拍手が起こった。

 これはいったいどういうことだ。全く聞いてない。

 絵理子も呆然としたままステージを見つめている。

『これまで吹奏楽部を守り続けてくれた狭川先生。そして、廃部寸前の私達を救ってくれた秋村さん。今まで言えなかったけど、みんな二人のことが大好きです。そんな二人へ、私達から最初で最後のプレゼントを贈ります。そして、今日このステージをご覧いただいている皆さんと、天国にいる私達の大切な仲間への感謝を込めて、一曲披露したいと思います。聞いてください。――「心の瞳」』

 優しく滑らかなグランドピアノの伴奏が始まったのを聞いて、俺は瞬時に全てを理解した。

 第二部の舞台上にピアノを配置したのは、このためだったのだ。それから、平日の夕方に俺と絵理子を遠ざけたのも、合唱部と練習をしていたからに違いない。吹奏楽部の練習後では夜遅くになってしまうから、夕方だったのだ。

 ――コーラスが始まる。

 若々しく澄んだ声が。そしてその歌詞が。

 じんわりと俺の心に染み込んでくる。

 中学校の合唱コンクールでおなじみのこの曲だが、当時の俺は聞く度につらく苦しい気持ちを抱えた。

 俺は「愛」なんて知らずに育ったから。

 愛される資格など無いと決めつけていたから。

 でもそれは、とんでもない大間違いだった。

 ずっと俺を育ててくれた瑠璃も。

 高校卒業まで気にかけてくれた渋川も。

 指揮者として認めてくれた芳川も。

 俺にはずっと、大切な物が見えていなかったのだ。

 ――そして巡ってきた、この半年間。

 こんなどうしようもない男を、周囲はいつも助けてくれた。

 こんなどうしようもない大人を、奏者は受け入れてくれた。円陣に加えてくれた。

 今なら俺にもわかる。

 愛するということも、絆の意味も。

 ずっと遠回りをしていたけれど。

 みんなのおかげで、ようやく気づくことができたんだよ。

「こんなの……ずるい……」

 床に膝をついて涙を拭っていた俺が隣を見ると、絵理子も嗚咽を漏らしながら号泣していた。

 それを見たら俺も限界を超えた。

 大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちて、舞台袖の床に大きな染みを作る。

 というか、歌詞がヤバすぎる。語彙が消失するのも仕方が無いくらいに俺達を包み込んでくるのだ。合唱そのものも表情豊かに優しく語り掛けてくるし、少ない人数の男子達が一生懸命歌っているところを見ると、こっちの感情がぐちゃぐちゃになる。

『音楽を演奏するなら、相手の「心」に届けないとね』

 俺の頭の中で、もう何年も前に楓花が言ったセリフが蘇る。

 ……ああ、もう充分に届いた。

 俺も、こんなバカみたいに最高なサプライズを用意してくれたみんなのことが大好きだよ。

 ありがとう。

 ――ピアノの音が静かに消えると、場内は暖かい拍手に包まれた。

『では、このまま最後の曲に行っちゃいましょう!』

 寒暖差の激し過ぎる美月の司会が始まっても、俺はその場を動けない。絵理子も同じだ。

『少しお待ちいただけますか? 指揮者の方が泣き崩れてしまって……』

 スタッフの女性がアナウンスで横槍を入れる。反射的にマイクの方を見ると、悪戯っぽい微笑みを返された。心無しか目元が赤く見えるのは気のせいだろうか。

 というか恥ずかしいからやめて欲しい。

「余計に出て行きづらくなったでしょうが!」

 囁やき声で怒鳴ってもスタッフはどこ吹く風である。会場からも「秋村頑張れー!」とか聞こえる。どうして俺限定なんだ。

「ひえっ……。そんなぐしゃぐしゃになって大丈夫ですか?」

 舞台から戻った菜々花が俺を見て言った。誰のせいでそうなったと思っているんだ。

「早く行ってあげてください。みんな待ってますよ」

「あー! わかったわかった!」

 俺が立ち上がると、パーカッションの紅葉が勢いよく走ってきた。

「ほら! 先生も行くよ!」

 手を取られた絵理子が狼狽えているのを無視して、紅葉はステージに連行していく。

「ちょっと、どういうつもりよ!」

「まあまあ。最後くらい先生も一緒に楽しみましょうよ。衣装だってバッチリじゃないですか」

「あああああ!!」

 どうやら、最初からそのつもりだったらしい。着替えを断れなかった絵理子が百パーセント悪い。

 ステージに上がると、舞台配置がめちゃくちゃになっていた。それでも奏者達は楽器を持って準備万端みたいな顔をしている。この際、細かいことはどうでも良いのだろう。楽譜も暗譜しているはずだ。

 全員がスタンディングのまま、司会のアナウンスを待つ。唯一座っているのは、ドラムを担当することになったらしい絵理子だ。あまりにも無茶振り過ぎて爆笑しそうになる。

『最後にお届けするのは、今年の入学式の日に披露した楽曲です! 私達も全てを出し尽くしますので、どうぞお楽しみください! 今日は本当にありがとうございました!』

 美月がマイクを置いた。

 冒頭を奏でる絵理子と玲香に視線を送る。いきなり最前線に送られた兵士みたいな絵理子だが、どうやら腹を括ったようだ。

 指揮棒を動かすと、軽快なピッコロの旋律が始まる。そして、段々と盛り上がるメロディーの頂点で――。

「ディスコ!!」

 奏者と会場から、今日一番の歓声が上がった。


 ♭


「終わっちゃったねえ……」

 しん、と静まるホールの二階席。舞台の上ではスタッフが片付けを行っているが、どこか別の世界のことのように感じられる。

 声を上げたオレンジ色の少女は、座席に腰掛けて虚空を見つめている。

 ――定期演奏会は無事に幕を下ろした。『ディスコ・キッド』の後には、翡翠館高校吹奏楽部のアンコールの定番である『オーメンズ・オブ・ラブ』を演奏したのだが、最後は客席からスタンディングオベーションまでいただいてしまった。

「お前、ずっと二階席で見てたのか?」

「うん。ここまで届くかなと思って」

「……ちゃんと届いたか?」

「うん。大丈夫。しっかり受け取ったよ」

「良かった」

 絵理子や部員達は観客のお見送りに行っている。俺も向かうべきなのだが、絵理子が察してくれた。ただ、まさか日向が二階席にいるとは思わなかったのでだいぶ時間を食ってしまった。

「最後まで聞いてくれてありがとな」

「約束したからね。それに、途中で消えちゃうなんて死んでも死にきれないよ。あっ、もう死んでるけど」

 ブラックジョークにもほどがある。

「逆に言えば、もう未練は無いかな。こんな素敵な舞台を見ることができて、あたしは幸せだよ」

「おい、縁起でも無いこと言うなよ。楓花が完全に回復するまでは安心できないだろ」

「んー、さすがにそこまでは無理、かな」

 寂しそうに呟く日向を見て焦燥感が募る。

「と、とにかく! また明日から再スタートだ! 今年こそアンサンブルコンテストにも出場しないといけないし――」

「ねえ、あんたさ」

 俺の言葉はぶつりと遮られた。

「そんなこと言ってるけど、今後はどうするの?」

「……」

 痛いところを突かれた。俺もさすがに自覚している。いつまでも無職なんかでいる訳にはいかないと。「呪い」が無いのであれば、真っ当な大人になるべきだ、と。

「まあ慌てて決めることじゃないけどさ。もしあんたさえ良ければ、これからもあの子達の面倒を見てやってよ。絵理子先生のことも手伝ってあげて」

「……ああ、もちろんそのつもりだ」

「それなら良かった。虚無みたいな生活に戻ったら許さないからね」

 日向は座席から立ち上がって俺の方を向いた。

「あと、お姉ちゃんともしっかり話すんだよ? いきなり今日の演奏会を見てびっくりしただろうから」

「うん」

 結局、春に一度行って以降は楓花の病室を訪れていなかったが、これでようやく俺も心置きなく見舞いに行ける。

「それにしても、あの合唱はヤバかったね」

「ああ、浄化されて消えるかと思った」

「何それ、悪魔じゃん」

「俺は似たようなもんだろ」

「またそんなこと言って」

「……冗談だよ」

 こんな中身の無い会話がどこか懐かしく感じるのは、いったいどういう理屈なのだろう。

「凄く嬉しかった。あんたや絵理子先生が認められたことも、あたしのことをずっと覚えてくれたことも」

「忘れる訳が無いだろ」

「……うん。ありがとう」

「……」

「あー、お母さんとお姉ちゃん宛に、手紙でも書いておけば良かったなあ」

 急に日向が残念がる。

「この後書けばいいじゃないか」

「ううん。もう時間みたい」

「えっ」

 ちょっと待ってくれ。

 そんなバカな話があるか。

「なんだよ、それ。演奏会は終わったばかりだって言うのに」

 焦る俺に、日向はゆっくり首を横に振った。

「まだなんにも返せてないだろ! これからが本番じゃないか!」

「あんたもわかったでしょ? 今日の演奏と、お客さんの拍手。吹奏楽部は完全に復活したよ。もう絶対『幻』になんてならない」

「そ、それは……」

「あたしが望んだこと、もう全部叶っちゃったもん。バラバラになってたみんなはひとつになったし、吹奏楽部は蘇ったし、お姉ちゃんも目を覚ました。それにあんたのくだらないオカルトも消えた」

 達観したような表情の日向に、俺は掛ける言葉が見つからない。

「だから、なんにも返せていないなんて、そんなこと無いんだよ? あたしにもう一度『エメラルド』を聞かせてくれて、本当にありがとう」

 やめろ。これで最後みたいに思わせないでくれ。

「……あんた、『黎明』って言葉知ってる?」

 唐突な質問に、ただでさえ動揺している俺は面食らった。

「い、いや、聞いたことはあるけど意味は……」

「そっか。昔、絵理子先生の国語の授業で出てきたんだよね。直接的な意味は『夜明け』らしいんだけど、『新しい事が始まろうとする』って意味でもあるんだって」

 シンプルに素敵な言葉だと思ったけれど、彼女が言いたいことまでは掴めない。

「本当は、あたしが夜明けの主役になりたかった。没落した吹奏楽部の、黎明の主人公に……」

 胸が締めつけられる。

「でも、夜明けを見届けることはできた。黎明の瞬間に立ち会えた。こんな奇跡があると思う?」

 すうっと、日向の頰に涙が伝う。その雫は床に落ちる手前で消えていく。

「だから、もう思い残すことは無いんだ」

「なんで……。どうしてそんな……」

 無理矢理笑顔を作る日向を見ていると、『心の瞳』で枯れ果てたと思っていた涙がまた勢いよく溢れ始めた。

「ああ、もう。情けないなあ」

 近づいた日向が肩に手を置いたが、感触が無い。

「みんなにもよろしくね。絵理子先生は仕事を辞めるなんて許さないし、禁煙しなかったら呪ってやるから」

「……わかった。しっかり伝えておくよ」

「それから、お母さんとお姉ちゃんにも。今まで育ててくれてありがとうって」

「ああ。ああ……」

 最後くらい笑って送り出すべきだとわかっていても、到底無理な話だった。

「凄く残酷なことを言うけどさ。あたしが生きたままだったら、ここまでの演奏会にはならなかったんじゃないかな」

「……お前、何を言ってんだ! そんなことよりお前の命の方が大切だろうが!」

「まあそりゃそうだけど」

 必死な俺に、日向は苦笑を返す。

「今度は、お姉ちゃんやみんながあたしの遺志を継いでくれると思うから。もちろん、あんたもね」

「そんなの当たり前だろ!」

「うん。良かった。約束だよ」

 ホールの一階で、ざわざわと声が上がり始めた。見送りが一段落したのかもしれない。

「――さて。じゃあ、行くね?」

 ちょっと外出するようなテンションで、日向が言った。

「よく考えれば、うちのお母さんってあんたのお母さんでもあるんだよねえ」

「瑠璃さんのことか?」

「うん」

 たしかにそうかもしれない。彼女は俺の育ての親だ。

「知ってると思うけど、お姉ちゃんって完璧超人だからさ。たった半年だったけど、の抜けたお兄ちゃんができたみたいで楽しかったよ?」

「ああ。俺も楽しかった。きっと忘れないから。絶対に覚えておくから」

「うん!」

 お互いに大粒の涙が零れた。

「あっ、絵理子先生!」

「えっ?」

 舞台上を指した日向に釣られて背後を振り返る。最後に声だけでも聞かせられるだろうか。

「ん? 絵理子? 部員達しかいないみたいだけど……」

 再び日向の方を向く、と。

 ――そこに、もう彼女の姿は無かった。

「おい、日向……?」

 嘘だと言ってくれ。

「日向? まだいるんだろ?」

 悪い冗談だと。いつもみたいにからかっているだけだと。

「――ん?」

 彼女の立っていた場所のすぐ近くに、一枚の紙片が落ちていた。

 どこか見覚えのあるその紙切れを手に取ると、翡翠館高校のロゴが目に入る。

「これ、まさか……」

 本番前の楽屋でのワンシーンが脳裏に浮かんだ。

 慌てて裏返しにすると――。

『ありがとう』

 歪んだオレンジ色の文字で、たったそれだけが記されてあった。

「……」

 紙片を持つ手が震える。

 あいつは最後の力を振り絞ってこれを遺したんだ。

 どこからかオレンジなどというマイナーな色のペンを調達してまで。

 もうペンを握ることすらギリギリの状態であったにも関わらず。

 こうして、形に遺してくれたんだ。

「う……うわあああああああ」

 俺は絶叫した。

 ホールいっぱいに俺の慟哭が響く。

「ちょっと恭洋!? どうしたの!」

 異変を察した絵理子が二階席にやってくるまで、そう時間はかからなかった。

「何があったのよ、いったい……」

 蹲ったまま泣き続ける俺を、絵理子は困惑した表情で見下ろしている。

「こ、これ」

 ようやく俺は紙片を彼女に渡した。

「え? 何?」

「日向が」

 その名前を告げた瞬間、絵理子の顔が強張る。

「日向がそれを遺して……」

 もう、つら過ぎて最後まで言えない。

「そう……」

 だが、絵理子もすぐに察したようだった。

「最後まで、あの子らしい……」

 彼女の足元に、ぽたぽたと雫が落ちる。

「日向……。日向あああああ」

 とうとう絵理子も崩れ落ちてしまった。

 こんなに感情を表に出す絵理子を見たことが無い。

 それだけあの少女の存在は俺達の精神的支柱であった。

 大人二人の泣き声は、しばらくやむことが無かった。

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