十四
金管楽器による華々しい三拍子のファンファーレが、定期演奏会の開演を告げる。
ショスタコーヴィチ作曲の『祝典序曲』である。
今日の秋晴れの空のような澄み切ったイ長調のハーモニーが、開始早々からホール全体に響き渡った。
序奏がクレッシェンドの頂点に達すると、一気にテンポが上がる。金管楽器の次は木管楽器が主役だ。親しみやすく明るい旋律が流麗に奏でられる。一糸乱れぬ隊列の行進のように高速連符がシンクロしたかと思えば、トロンボーンの豪快なフォルテシモが待ってましたとばかりに登場し、その後は中低音の滑らかなメロディーへと移っていく。目まぐるしく主役が変わるこの楽曲は強弱の差も激しく、一曲目から聴衆に大きなインパクトを与えた。
後半になっても木管楽器はずっと統率が取れているし、金管楽器も全くバテることなく存在感を示し続けている。そんな両者を背後から盛り立てるのは、絶妙な合いの手を入れるパーカッションだ。ティンパニ、シンバル、スネアドラム、そしてトライアングル。それぞれが煌びやかさを演出し、演奏全体に華を添える。
まさに今日という日を祝うために選曲された、オープニングを飾るに相応しい序曲だ。
クライマックスに向かうクレッシェンドが全体合奏のフォルテシモを導き、最後は全員がユニゾンを奏でて堂々と楽曲が閉じられた。
音を切った瞬間に拍手が沸く。幕開けとしてはこれ以上ないほどの大成功だ。
俺は一度舞台袖へ下がった。
絵理子のナレーションの合間に、部員達は次の楽曲の準備に取りかかる。
第一部は完全にコンサート仕様である。奏者自らは司会をせず、演奏に集中する。ただし、絵理子が読み上げる原稿を作成したのは部員達だ。
この第一部のコンセプトが、俺という指揮者がやって来てからの半年間をプレイバックするものだということが、絵理子のアナウンスで説明された。
『――半年前、降って沸いたように出現したのは、今指揮を振った一人のOBでした』
ナレーションが始まった途端、まるで化け物みたいな扱いをされた俺に客席から微かな笑い声が起こる。
『そのOBはかつて「エメラルドの音」と評された翡翠館高校吹奏楽部において、歴代最高の生徒指揮者であると同時に、最も不名誉なレッテルを貼られた男でした――歴代最悪の部員、と』
原稿を読み上げる絵理子は朗読劇を披露するように情感たっぷりであった。そういえば、こいつは国語教師なのだと今さら思い至る。
『残念なことに、吹奏楽部そのものもめちゃくちゃな状態でした。練習狂いの上級生と、お嬢様が牛耳る後輩達。その間を取り持っていた太陽みたいな女の子は、ある日突然天国に行ってしまいました』
悲しげに話す絵理子の演技力が光る。
結局、天国に昇ったはずの少女と邂逅できたのは、俺と絵理子だけであった。
『空中分解した吹奏楽部は迷走を極めました。今日お越しの皆さんの中にも、その時の記憶が残っている方もいるでしょう。まあ、とにかくやべえ集団だったという訳です』
暗い雰囲気だったのにいきなり砕けた話し方へ変化したため、再び観客の笑いを誘う。
『絶体絶命の窮地に陥った私達へ課せられたのは、新入部員獲得のノルマ。もし達成できなければこの部活は廃部になる……』
このセリフを合図に奏者が一斉に楽譜をめくり、俺は再び指揮台へ向かう。
『まだ出会って数日しか経っていない指揮者と部員は、入学式の部活紹介に賭けるしかありませんでした。この演奏から再び伝説を作り上げるのだ、と』
心の中で四拍カウントし、指揮棒を構える。
静かに始まる木管楽器の旋律。モノクロの景色が徐々に色づき、広がるクレッシェンド。
豪快なティンパニの音に導かれ、閃光のようなトランペットソロが火花を散らす。
半年前よりも部員が増えパートの不足が無くなった『架空の伝説のための前奏曲』は、あの時と同様に高い集中力によって緊張感を生み出し、失敗すれば終わりという当時の状況を再現した。
こちらも最後まで完璧に演奏しきると、大きな拍手が沸く。
『なんとか新入生に吹奏楽部を印象づけられたことが功を奏し、多くの一年生部員の獲得に成功した吹奏楽部は、離れていた二年生も復帰しどうにか命を長らえたのでした』
ナレーションが再開する。
『――さて、本日の定期演奏会の第一部。なんだか劇みたいに感じませんか? オペレッタのように素敵な歌手はいませんが……』
いつも事務的で感情の乏しい絵理子が、朗読劇の主役になるというのも感慨深い。
『いやむしろ、オペレッタ――喜歌劇というのは、あまりに豪華な舞台。音楽、ダンス、芝居、そして衣装や小道具。まさに芸術のフルコースのような贅沢さです。そんなオペレッタの歴史において欠かすことのできない傑作こそ、私達が次に演奏することとなった「メリー・ウィドウ」でした』
絵理子のセリフが続く。今回の演奏会のパンフレットには『メリー・ウィドウ』のあらすじなどが解説されたページがある。開演までに目を通してもらえたお客様は物語をイメージしながら演奏を聞くことができるし、後からパンフレットを見たお客様も振り返りができるようになっている。
『地位と名誉と金、そして不器用な大人達の恋模様が描かれたこの喜劇は、吹奏楽の世界においても大切なレパートリーのひとつとして愛されています。――まあ、そこまではいいんですが』
再び急に絵理子の口調が乱暴になる。優等生と不良の二重人格みたいな原稿は、やはり彼女が適任だ。実物は八割くらい不良だけど。
『六月の合同演奏会を控えた吹奏楽部には、トラブルが続出していました。精神を病んだ指揮者と、身体を病んだ顧問。諸事情で練習に参加できなくなった三年生もいました。今日と同じステージで披露した演奏は、お世辞にも良い出来とは言えない代物でした。いったいどこが喜劇なんでしょう。もう無理矢理にでも笑うしかありませんね、ははは』
当事者としては全く笑えないのだが、懐かしさを感じるくらいには過去のこととして受け止められる。
『そんな私達が音楽をする目的を再認識できたのは、とある場所でのコンサートでした。――実は今日の演奏会は、昼公演を行っていた躑躅学園さんのご厚意により動画投稿サイトにてライブ配信されているんですが、その場所の皆さんもご覧になっているでしょうか』
俺はつい絵理子の方を見てしまった。これはアドリブだ。
『あの時、私達を招待してくれて本当にありがとうございました。おかげで、私達は大切なことを思い出せました。――それでは、会場の皆さんも色鮮やかな喜劇の世界へご案内しましょう』
はっと我に返った俺は、早足で指揮台に向かう。
『舞台は二十世紀初頭のパリ。貴族の社交界で繰り広げられる、絢爛でエレガントな物語を想像しながらお聞きください』
アナウンスが切れたのを合図に、超快速のフォルテシモがパーティーの開宴を告げた。
ずっと舞台の上にいる奏者達に、疲労の色は全く見えない。それどころか自分達がパーティーへ参加する貴族になったような、上品で艶のある音色を奏でている。
今回の演奏は「大人っぽさ」を出していこうということになっている。中学校でよく取り上げられる楽曲だからこそ、高校生にしかできない表現を目指したのだ。完全に大人にはなりきれない、上品さもあるけれど甘酸っぱさも隠しきれていない音色は、エリートになっても不器用な恋しかできない大人達のイメージとぴったり合致した。
とくに圧巻なのは、あの病院のコンサートの時と同様に中間部のソロを吹く淑乃だ。トランペット用にアレンジされたメロディーの切なくも美しい響きは、聞く者全ての心に染み込んでいった。
合同演奏会の時はヤケクソみたいに暴走したフィナーレも、今回はちゃんと理性が保たれている。ハッピーエンドとなった物語を締めくくるに相応しい演奏となった。
進行は極めて順調だ。
絵理子のナレーションで次の楽曲が紹介される。本来であれば、昨年の定期演奏会で披露するはずだった『春の猟犬』である。今日で引退となる三年生との思い出を振り返る中でこの曲は外せないと、二年生の希望でプログラムに採用された。俺は初めて知ったが、昨年はこの楽曲が全く仕上がらなかったために不和が広がったらしい。俺が一度だけ三年生とこの曲を合奏した際に『猟犬の葬式』みたいな演奏になったのはそういった経緯があったからか、と妙に納得してしまった。
でも今日は大丈夫だ。タイトルとは季節が違うけれど、秋空の下を元気に駆け回る猟犬のような躍動感が表現された演奏をしてみせた奏者達は、一年越しのリベンジをしっかりと果たしたのだった。
その後コンクール課題曲の演奏が続き、第一部は佳境を迎えた。
『――暖かい拍手をたくさんいただき、本当にありがとうございます。次が第一部最後の楽曲です』
名残惜しそうな絵理子の声が場内に響く。
『かつて翡翠館高校吹奏楽部は全日本吹奏楽コンクールの全国大会へ出場を果たしたことがあります。しかし、当時は大会直前に様々なトラブルや衝突が起こり、本番では散々な演奏をしてしまいました。輝かしいはずの功績が、触れてはならないタブーとして刻まれてしまったのです』
第一音楽室に飾られた集合写真が思い浮かぶ。誰も笑っていないあの写真こそ、禁忌の象徴であった。
『全国大会の自由曲は「幻想交響曲」の第四楽章、「断頭台への行進曲」でした。――あれから十年、奇しくも翡翠館高校吹奏楽部がコンクールの自由曲に選んだのは、その続き……。「ワルプルギスの夜の夢」だったのです』
ステージ上では奏者のスタンバイが完了したようだ。俺も舞台へ上がる。
『魑魅魍魎や魔女達が踊り騒ぐ宴は、まさに「悪夢」のような光景でしょう。でも、どういう訳か恐ろしさやグロテスクさよりも、絢爛さや華麗さを感じてしまうこの曲に、私達は心を奪われていきました。全身全霊を注いだコンクールでは、二年ぶりに県大会へ進出することができました。残念ながら県大会は曲名の通り「幻想」のような、幻の演奏になってしまいましたが……』
敢えて「失格」という言葉は使わない。俺達が受け入れたことだから。
『もしも今日の演奏が皆さんの心に届いたならば、もうこの楽曲は幻になどならないでしょう。私達が歩んだこの数ヶ月間の成果を、十年前の部員であった指揮者と一緒にお届けします。それではお聞きください、ベルリオーズ作曲「幻想交響曲」より第四、第五楽章』
――繊細なティンパニの八分音符とホルンの短調の響きが、処刑前の不穏さを醸し出す。張り詰めた空気を演出する中低音の旋律と、突如出現するトランペットのフォルテシモ。やがて訪れるのは、まるで英雄の凱旋のような輝かしいファンファーレ。だがそこには、罪人の処刑を見ようと訪れた野次馬の雑音と同じくらい下卑た響きが内包されている。
執行が近づき切迫感の増す音楽は、上昇していく金管楽器のハーモニーと細やかに刻まれ続ける木管楽器の八分音符に誘われて一度頂点を迎える。大きな波のうねりのような強弱表現が観衆を煽り、奏者達はいよいよ処刑台に向かう罪人を
罪人の脳裏に「憧れの人」のイメージが一瞬よぎった、その瞬間。
ギロチンの刃が容赦無く罪人の首を刎ね飛ばした。ぽん、ぽん、と転がる首を無視するが如く、再び荘厳なファンファーレが響く。まるで「めでたしめでたし」とでも言うように。
第四楽章が終わって息を吐く間もなく、俺は再び指揮棒を振った。
まだ終わっていないのだ。それどころかこれからが本当の始まりである。罪人を出迎えるのは、魔界に蠢く化け物達……。
この数ヶ月間、俺と奏者が何百回と聞き続けた第五楽章は、何度聞いても「頭がおかしい」という感想が最初に浮かぶ。そんな曲をコンクールという大舞台に持ち込もうとした俺も、簡単に受け入れた部員も、全員狂っているのかもしれない。
だが、狂っているからこそ、表情豊かで聴衆の心を震わす音が奏でられるのだ。
ロンドを踊る魔女達は、このまま夜が明けないことを望んでいるのかもしれない。
だが、いつか必ず太陽は昇ってくる。それはきっと悪夢の終わりを示唆しているのだろう。
そうであるなら、最後まで全力で煌めかせるべきだ。
踊り疲れて倒れるほどに。
後悔を残さないように。
もう二度と、この曲を「幻」にさせてはならない。目が覚めた後も後味が残る夢みたいに、聞く者全ての記憶に縫いつけなければならないのだ。
観客に「また翡翠館高校吹奏楽部の演奏を聞ききに行こう」と思わせたいという願いは、奏者全員に共通していた。それならば、この「麻薬」じみた曲はうってつけではないか。
――この半年間を振り返った第一部も、いよいよ大詰めである。
怒濤のように繰り広げられる舞踏会は、俺達の集大成を彩るのに最適だった。
そして遂にフィナーレが訪れる。狂騒の終着点は、開放感溢れるハ長調のロングトーン。
いつまでも聞いていたいほど、そのハーモニーは神々しく輝いた。
限界までフェルマータを引っ張った俺が左手で音を切る、と……。
「ブラボー!!」
今度は日向一人じゃない。重なるように響いた歓声に釣られ、会場はあっという間に拍手で埋め尽くされた。聞き覚えのある声がいくつもあったように感じるが、そっと胸の中にしまう。
奏者達を起立させた俺も、一礼した後に彼らへ拍手を送る。照れ臭そうに称賛を受ける一同は、ただ立っているだけでは居心地が悪かったのかお辞儀を繰り返している。それがあまりにもバラバラだったので、俺はつい笑ってしまった。
全然慣れてないじゃないか。
もう、お前達はこれだけの喝采を送られるまでになったんだ。もっと自信を持ちなさい。
いつまでもやまぬ拍手を聞きながら、俺は保護者みたいな気持ちになっていた。
舞台が暗転すると、徐々に拍手の音が小さくなった。奏者も舞台袖へと移動していく。
そうか。まだ第一部か。なんだかもう終演のような感覚だ。
『これより休憩時間とさせていただきます。第二部の開始は――』
どことなく催促するような口調で話す絵理子のナレーションの真意に気づいた俺は、慌ててステージを後にした。
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