十一

 九月の頭に開催された文化祭も無事に終わった。体育館で行った吹奏楽部の演奏会では、春の部活紹介よりも格段にスケールの大きなパフォーマンスを披露することができ、好評のうちに幕を閉じた。人数が増えただけでなく、ひとりひとりのスキルが向上した成果であろう。

 京祐から依頼されたいくつかのミニコンサートも全てつつがなく終わった。

 あとは最後に残った一大イベント――定期演奏会のみである。

 現在は準備の真っ只中だ。

 今回の演奏会は、県大会前に俺達へ聞かせてくれたゲリラコンサートに着想を得て、この半年間の翡翠館高校吹奏楽部の軌跡を辿るプログラムとなっているらしい。

 どうしてそんな他人事みたいな言い方なのかというと、基本的に我が校の定期演奏会は部員に丸投げだからである。大人の関与は最低限なので、俺もこれまで通り各楽曲の指導が中心だ。日向には「大人の括りに入れてもらえて良かったね」などと言われたが、余計なお世話である。

 定期演奏会といえば、場合によっては地域のプロの演奏家などを招待するゲストステージを挟む場合もあるが、今年は無い。演奏会そのもののスケジュールすら未定だったのだから当たり前である。吹奏楽曲を中心とした第一部と、ポップスステージの第二部というシンプルな構成だ。

 これまで演奏したことのある楽曲があるとはいえ、もちろん今回初めて披露する曲も多い。その中で、第一部ではなんとあの『断頭台』も演奏することが決まってしまった。部員達曰く、今年のコンクールの自由曲である『ワルプルギス』の前に演奏して、二曲を連続させたいのだとか。どうしてわざわざそんな悪趣味なことをするのかと思ったが、奏者の総意なら仕方が無い。どうせならもっと明るい曲をやればいいのに。

「――マスターも是非来てくださいね」

「ええ、もちろん」

 俺はこのところ毎日通っているプレストのカウンター越しに、マスターへ話し掛けた。コーヒーもホットかアイスか迷う季節だ。今日は曇り空のせいか若干肌寒いので、俺の手元にはいつもの金色の線が一本入ったカップとソーサーが置いてある。

 夕時の喫茶店はなかなかノスタルジックな雰囲気だ。今日はクラシックでなくジャズがかかっているので余計にそう感じられる。

「先月のコンクールのような演奏がまた聞けるなら、本当に待ち遠しいですね。演奏会ということは、それが何曲も楽しめる訳ですし」

「そんなに言っていただいてありがとうございます」

「いえいえ。事実ですから」

 マスターもあの日万雷の拍手を送ってくれた中のひとりである。ずっと昔から翡翠館高校の吹奏楽部を見てきた人にそこまで言われるとなんだか恐れ多い。

「大事な演奏会の前なのに、毎日こんなところに来て大丈夫なんですか?」

「自分で『こんなところ』なんて言ったらおしまいですよ」

 今日も俺しか客がいないことへの自虐かもしれないが、相変わらず商売と趣味の境が不明瞭である。

「なんかよくわからないんですけど、平日の夕方は部員だけでミーティングをしたいみたいで。俺は邪魔なんですって」

「あなたこそ、自分から『邪魔』だなんて言うものじゃありませんよ」

「いや実際言われたんで」

「……」

 丸投げしている手前、俺は部員の言いなりだ。練習後ではなく敢えて夕方にミーティングするというのはどうも引っ掛かるが、まあたいした意図は無いだろう。ちなみに絵理子もこの時間は部活への関与を遠慮して欲しいと言われたらしい。俺は「邪魔」で彼女が「遠慮」なのは甚だ遺憾だ。

「狭川先生はそもそも仕事があるし、関わろうとしなくてもやることがあるからでは?」

 それは遠回しに、吹奏楽部に関わらなければ暇を持て余して茶をしばくしかない無職への当てつけだろうか。こっちは毎日売上に貢献してるんだぞ。

「カスタマーハラスメントですよ」

「思っても口に出していないでしょうが!」

「はい今出ました」

「あああああ!」

 俺達が茶番を繰り広げていると、入口から控え目なウィンドチャイムの音が響く。

「――あらあら、二十八歳児が迷子になっているみたいですね?」

 とてつもなく最低最悪なセリフと同時に登場したのは、先月再会して以降顔を合わせていなかった瑠璃である。

「いらっしゃいませ」

 マスターは手早くお冷やを用意し始める。

「アイスティーで」

「かしこまりました」

 流れるようにオーダーを通しながら、瑠璃は当然の権利みたいに俺の隣へ座った。

「……いきなりなんだよ。俺は自分の意思でここに来てるんだけど」

「でもあなた、十年もぷらぷらと吟遊詩人みたいな生活を送っていたんでしょう? 迷子じゃないですか、人生の」

「……」

 かつて生徒会長の輝子に言われた時にも思ったが、俺の中では吟遊詩人という扱いにそこまで嫌悪感は無い。楽器もできるし。

「ああ、間違えました。吟遊詩人も立派な職業ですもんね。恭洋さんは、浮浪人、落伍者、税金どろぼ――」

「はいはい俺が全部悪かったですよ! 申し訳ありませんね!」

 誓って言うが、納税はちゃんとしている。たまに遅れるけど。

「そろそろ時間なので行きます。ご馳走様でした」

 いまだに「家政婦さん」としてのイメージが強過ぎるせいで、俺ははっきり言って瑠璃のことが苦手だ。合奏練習の時間が迫っているのは事実なので、カウンターの上に代金を置いて立ち上がる。

「まあまあ。ずいぶん嫌われてしまいましたねえ」

「自分の言動を省みなさいよ」

「うふふ」

「いや、うふふじゃなくて」

「ほほほ」

「……ちっ」

 この雲を掴むような、実体の無い感覚がずっと慣れない。よっぽど娘達の方が接しやすい。日向などは本当に実体が無いのに。

 俺はそのまま扉へ向かう。

「……恭洋さん。定期演奏会のこと、聞きましたよ。頑張ってくださいね」

 背後から真剣な瑠璃の声が聞こえ、扉に伸びかけた手が止まる。

「翡翠館高校の前に、躑躅学園の公演があるんでしょう?」

「……ああ」

 瑠璃が言ったことは誤りではない。会場を抑えられたことは幸いだったものの、俺達の開演時刻は夕方六時と遅めだ。もともと昼公演が入っていた躑躅学園の後しか、空いているスケジュールが存在しなかったからである。よりにもよって前の団体が躑躅学園とは、因縁深いを通り越してそれこそ呪いじみた偶然だが、今回はどちらかというと翡翠館がストーキングした側なのでむしろ申し訳無い。

「当日、智枝ちゃんに会いなさい」

「……え?」

 俺は思わず振り返ってしまった。視線の先には優雅にアイスティーを飲む瑠璃がいた。

「どうしていきなり智枝が出てくるんだよ」

「いいから。この先、翡翠館と躑躅学園の吹奏楽部はこの地区を引っ張る存在となるでしょう。いつまでも指揮者同士が険悪なのは好ましくありません。定期演奏会が同じ日に重なったなら、ちょうど良い機会じゃないですか」

「そもそも俺が一方的に嫌われているんだけど」

「そういうところが二十八歳児だと言っているんです」

「……」

 本当に容赦が無い。

「いいですね?」

「……はい」

「時間大丈夫ですか?」

「あ」

 呼び止めた瑠璃に指摘されたのは釈然としないものの、そのまま店を後にする。

 最後までミステリアスな空気を纏わせた彼女の真意など、俺にはわかる由も無かった。


 ♭


『さて、明日は吹奏楽部の定期演奏会ですよー! 開場は十七時三十分、開演が十八時ちょうどです! 入場は無料とのことなので、是非皆さん足を運んでくださいねー!』

 お昼休みの校舎には、いつものようにキンキンとした声が放送に乗って響く。ただし、これは輝子の声ではない。先日行われた選挙で新たに会長となった女子生徒である。この番組もしっかりと引き継がれたらしく、新会長は輝子に負けじと毎回元気いっぱいだ。

 定期演奏会の広告は、今回も例によって俺の寄付(賄賂)が奏功し何度かアナウンスしてもらうことに成功した。

 そんなCMも、いよいよ今日で最後となった。

「チケット代取らなくて、本当にいいの?」

 自販機近くのベンチに座って休憩する俺の横で、日向が尋ねてきた。

「ああ。五月にもらった活動手当もあるし、そもそもここ一年は支出ってほとんど無いからな。講師を呼んでもいないし、楽器も買ってない」

 もっと言うと、遠征も無かったし、今回の定期演奏会にゲストを呼ぶギャラも発生しないし、そもそも去年定期演奏会を開いていないので繰越金もあるのだ。目立った出費と言えば、参加した演奏会の楽器運搬(トラック)代と、合宿にかかった費用、それから玲香のフルートの修理代くらいだろうか。

「そうは言ってもさ。ホールの利用料だけでもバカにならないでしょ」

「たしかに多少は不足分もあるけど、それは俺が出すからいいよ」

「あんたただでさえ収入が無いのに、貴重な遺産を食い潰していいの?」

「まあ、なんとかなるだろ」

 ちなみに、玲香の楽器は完璧に直ったので、貸し出したフルートは既に自宅へ戻っている。俺が言うのもなんだが、これからも大事にしていって欲しいと思う。

「適当だなあ」

 日向は口を尖らせているが、もうここまで来ると、お金がどうとかそういう俗っぽい話はなるべく考えたくなかった。

「それに、そろそろ俺も……」

「ん?」

「……いや、なんでもないよ」

 十月の日中は非常に過ごしやすい。空は幾分か低くなったように感じるが、小春日和の陽気である。予報では明日も晴れらしいので安心だ。

 本当は躑躅学園の定期演奏会を鑑賞できれば良かったのだが、そういう訳にもいかない。一日二公演、それも別団体ともなればホール側の負担も相当だ。連盟の鶴の一声でなんとかねじ込んでもらった俺達が余計な迷惑を掛けては、まさに恩を仇で返すような仕打ちである。翡翠館高校はほとんどゲネプロ(本番前の通し練習)をする時間が取れないので、ギリギリまでいつもの講堂でリハーサルを行う予定だ。なんだか県大会の時と同じようなことになっている。

「あ、こんなところにいた! 秋村さん、こっちへ来てください!」

 ひょっこり現れたのは、新部長の美月である。

「こんなところってなんだよ」

「いいからいいから」

 有無を言わさず腕を引っ張られ、俺は校舎の中に連れ戻される。美月も合宿以降は発作を起こしていない。どうも前部長である玲香のクールな部分を見習いたいらしく、振る舞いには常に気を配ることにしたらしい。そもそもが校長の娘でお嬢様というステータスなのだから、あの冷血で無愛想な玲香を手本にするくらいなら自宅の使用人に一から鍛え直してもらえばいいと思うのだが。

「玲香先輩に始末されたいんですか?」

「そんな質問が自然に出てくるような人間を見習うなよ!」

 俺の横をふわふわ漂いながら、会話を聞いていた日向が声を出して笑った。

 少し歩くと、音楽室前の廊下に到着する。そこには大きめの段ボールがいくつか置いてあった。

 飛び跳ねるようにそちらへ向かった美月は、びりびりにガムテープを剥がして中身を取り出す。いったいどこがクールなんだ。

「やっと届きました! 間に合って良かったです!」

 眩しいくらいの笑顔を浮かべながら、美月は手に持った物を広げてみせた。

 我が部のシンボルカラーであるエメラルドグリーンに染まった、一枚のシャツ。そこにはゴールドで描かれた音楽記号や音符などのプリントがふんだんにあしらわれている。

「ポップスステージの衣装です!」

 まるで宝物を見つけたように喜ぶ美月を見ていると、きっと他の部員達も同じようにはしゃぐのだろうと容易にイメージできた。

「このデザイン、萌波ちゃんが考えたんですよ」

 シャツを抱き締めながら美月が呟いた。

 そうか。美月はこれで萌波とも……。

「あいつ、新入部員勧誘の時もビラのイラストを担当してたしな」

「はい。昔から器用なんです。人間付き合いは不器用なのに」

「お前が言うなよ」

「あなたにも言われたくありません」

「……ふっ」

「……ははは」

 俺達はつい噴き出してしまった。日向も笑っている。

「明日は、最高の演奏会にしましょう」

「ああ、もちろん」

 演奏は仕上がっている。衣装も揃った。宣伝はばっちりだし、会場も申し分無い。

 あとは肝心の奏者達だが……。

「わあ! 届いたんだね!」

「めっちゃいい感じじゃん!」

「秋村さんもぼうっとしてないで喜んでくださいよ!」

「秋村さん? うわ、いたんだ」

「早く明日にならないかなー!」

「これ、放課後着てみてもいいかな?」

「いいね! 着ようよ!」

 どこから聞きつけたのか、わらわらと部員が廊下に集まってきた。何やら聞き捨てならない発言もあった気がするが……。

 どうやらみんなの士気も全く問題無いようだ。

「……明日、お客さんからまた言ってもらえるかな? 『ブラボー』って」

「どうかなー。躑躅学園と比べられちゃうとねー」

「え、明日両方聞く人とかいるの?」

「そりゃいるんじゃない? 躑躅学園も入場料はタダなんだって」

「へー。でも、うちらと躑躅学園って、そんなに実力差あるのかな?」

「わかんない!」

 ん?

 二年生達が交わしている、一見なんの変哲も無い会話。

 どうしてこんなに違和感が憑き纏うのだろう。ふと日向を見ると、彼女も俺と同じ心境らしく怪訝な表情をしている。

 ……まあ、でもそりゃ言われたいよな。「ブラボ-」の声なんて、滅多に上がるものでは、ない、し――。

「おいちょっと待て」

 突然会話に割り込んだ俺の緊迫した様子に、その場の二年生達が何事かと身構える。

「なあ、さっきなんて言った?」

「はい? いきなりなんですか?」

 問題の発言をした部員に詰め寄ると、不審な目を向けられる。

「いいから!」

 肩を掴む勢いの俺は、思わず大きな声を出してしまった。

「い、いや、ごめん……」

「ん? 躑躅学園の話ですか?」

「その前だよ」

「前? ああ、『ブラボー』って言われたいな、と」

「それ、いつの話だ」

「何言ってるんですか。県大会の時に決まっているじゃないですか。秋村さんだって聞いたでしょう?」

 ――嘘だろ?

「お前にも聞こえたのか?」

「そりゃ、あれだけ豪快に叫ばれたら聞こえますよ。気持ち良かったなー」

 つい日向へ顔を向けると、彼女は涙で頬を濡らしながら微笑んでいた。

「そうか……。お前らも聞いていたんだな……」

 そのまま会話から離脱し、ふらふらと日向のもとに近づく。

 どうして俺と絵理子にしか認識できない日向の声が、奏者に聞こえたんだ。

 てっきり、あの「ブラボー」を受けたのは俺だけだと思っていた。

「伝わってたんだね……。良かった。本当に良かった……」

 嗚咽を漏らしながら崩れ落ちた日向の手を握る。

「……ちっ」

 もう、ほとんど感覚が無い。

 堪えろ、と自分に言い聞かせた。まだ涙を流すには早過ぎる。反射的に俺はもう片方の拳を強く握りしめた。

「お前、明日は大丈夫なのか?」

 県大会の前日と同じ質問をすると、日向は何度も頷く。

 こいつは姉と同じで、曲がった事や嘘が嫌いな奴だ。きっと明日も全部見届けてくれるだろう。

 失敗なんて絶対しないし、させない。

 集大成に相応しい舞台を作り上げてみせる。

 だが、素晴らしいコンサートにすればするほど、目の前の少女との別れが近づくという予感があった。

 ――いや、近づく、などという曖昧な表現はやめよう。

 明日、日向は消えてしまうかもしれない。

 盛り上がる部員達を余所に、俺はまだしゃがみこんだままのオレンジの少女を見下ろしながら、それ以上に掛ける言葉も見つからず立ちすくんでいた。

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