十
比較的標高が高いこの地域は、秋風が吹き始めるのも早い。夏休みが終わる頃には鈴虫の音色が聞こえ始めた。とはいえ日中の残暑はいまだ厳しく、長袖に戻すには尚早な気候だ。
――コンクールが終わって、あっという間に半月ほどが経過した。
あの日、喝采を浴びた俺達は片付けも早々に帰校したが、奏者達は「悪夢」を表現した後とは思えないくらい澄み切った笑顔を浮かべていた。俺が号泣しそうになるから本当にやめて欲しかった。まあ「笑って帰ろう」などと格好つけたことを言ったのは俺自身なのだが。
会場に残った絵理子達曰く、表彰式はざわざわと異様な雰囲気だったらしい。大トリを飾ったのが俺達だったというのもあるだろうが、その時点で我が校の審査の結果がわかっている者がいたからかもしれない。いや、審査というか、なんというか……。
もともと俺が指揮を振った時点で決まっていたことだ。
翡翠館高校吹奏楽部は、失格となった。
あれだけの演奏をしたのだから、悔しさや悲しさが全く無いと言えば嘘になる。俺は他校の演奏を一つも聞いていないので贔屓目になってしまうが、普通に審査されていれば支部大会に進めたのではなかろうか。少なくとも金賞は間違い無い。ただ、失格だとわかっていたからこそ、開き直って完璧に演奏できたのではないかとも思う。成績にこだわっていれば、守りに入ったような、無難な演奏になった可能性もある。
そういう上品な演奏を披露したのが、まさに躑躅学園だったようだ。全ての団体を聞いた京祐が教えてくれた。地区大会の時の俺と同じ感想である。『ローマの祭り』も、終楽章なんかは下町の飲んだくれがはしゃぎ回る、文字通り「お祭り騒ぎ」みたいな楽曲だ。曲想と表現が噛み合わない演奏は、退屈でつまらない音楽に聞こえただろう。
躑躅学園は金賞を受賞したものの、代表には選ばれなかったそうだ。
「ものすごくライバルみたいな感じだったのに、拍子抜けだよねえ」
夏休み明けの平日の午後。がらんとした講堂にいるのは、俺の他にもう一人。
あの日「ブラボー」と力いっぱい叫んだ日向が、床に寝転がったまま声を上げた。
「……お前は相変わらずこの世にいるんだな」
県大会の演奏と、その後の万雷の拍手。ともすればそのまま成仏してしまうかに思われた日向であったが、時折こうしてふらっと現れるのは今までと同じだ。コンクール前よりも消えている時間は増えたように感じるが、三日おきくらいで練習の様子を見に来ている。
「何? 文句あるの?」
「ねえよ」
意外なだけで、消えて欲しいなどと思うはずも無い。こいつがいたから俺や部員達は報われたのだ。まあ、成仏するのが本人のためであるとは思うが。
「そういえば絵理子先生から聞いたけど、あの子達大丈夫なの?」
「絶対に大丈夫じゃないだろ」
日向が懸念したのは、三年生の役員達のことだ。補習組とも言う。そんな不名誉なレッテルを貼られた面々は、ことごとく夏休みの宿題を放棄していたらしく、今も各教科の教諭に捕まっている。
コンクール後は世間がお盆休みに入るし、これまでの血の滲む努力を慰労してもらおうと一週間以上の完全オフを設けたにも関わらずだ。ふざけんな。放棄ってなんだ。不法投棄の間違いだろ。
「というか、この前代替わりしたんだよね? 相変わらず三年生が幅を利かせているのは問題なんじゃない?」
日向の言う通りだ。
オフ明けの練習が始まって早々、次の役員が決まった。部長は予想通り美月となった。副部長はパーカッションの折笠護だ。春の新入部員勧誘の際に、五名の二年生を率いて復帰を申し出てくれた男子部員である。あの時「美月とは縁を切った」とまで言った護と、張本人である美月がツートップを張るというのもなんだか不思議な話だ。
生徒指揮者は、なんと一年生の董弥が就任することとなった。部員全員による無記名式の投票で決まったので文句を言う者はいないが、上級生でないといけないというルールが無いとはいえ異例中の異例のことだろう。淑乃は「私がいるうちは、調子に乗ったことを言った瞬間に粛正する」などと意味のわからないことを供述していたが、まずは大人しく宿題をやってくださいとしか言えない。
次の舞台は九月の文化祭だ。淑乃以外の三年生もまだまだ現役というようにこれまで通り練習に打ち込んでいる。この数ヶ月のことを思うと功労者達でもあるので無碍にはできないが、最近は下級生達もさすがに引き始めている。
「今回の件の弱みにつけ込んで、そろそろ引導を渡してもらうか」
「そんな言い方しなくても。あの子達も悪気がある訳じゃないだろうし」
「宿題をやらなかったのは、悪気どころか確信犯でしかないだろ」
「あんたも本当ねちねちしてるよね」
「指揮者ってのはたいがいそういうもんだ」
「そんな各方面から狙撃されそうなことを言ってもいいの?」
そもそも俺には真正面から殴り込んできそうな不良教師がいるのでどうでもいい。
結局、絵理子の退職の件もあれから動きは無い。俺の知らないところで進んでいる可能性もあるが、いよいよ三年生は受験や就活が始まる季節だし、なんとも言えない。
「進路かあ。みんなどうするんだろうね」
「俺もあまり知らないけど、大半は進学するみたいだぞ」
「できるの? とくに補習組」
「……それは絵理子に頑張ってもらうしか」
日向も人のことを言えないくらい毒舌である。元凶は絵理子だけど。
「まあでもあの子達のことだから、引退するまではどうせ部活漬けだよね」
それでは下級生の手前困るのだが……。
話が振り出しに戻ってしまった。
「引退、か……」
文化祭が終わると、俺がいた頃と同じなら十月の上旬には定期演奏会が待っている。それぞれの合間で京祐からコンサートのオファーをいくつかもらったが、そう大きな舞台ではない。文化祭も学校の体育館を使うため、コンサートホールを利用するような大がかりなステージは定期演奏会のみである。
昨年、翡翠館高校は定期演奏会を開催できなかった。二年ぶりの舞台に向けて、部員達の士気も高くなるだろう。そして、定期演奏会は三年生にとって最後のコンサートでもある。もう一ヶ月半程度しかないのだと考えると、なんだか急に寂しくなった。
「――ちょっとあんた!」
と、いきなり講堂の入口から大声が聞こえる。何事かと振り返ると、そこには肩で息をする淑乃がいた。
「匿ってくれない!? 数学の先生に追われてるの!」
「投降しなさい。今すぐにだ」
「なんで!?」
少ししんみりした俺の気持ちを返してくれ。
「おーい。村崎さんはここにいますよー」
「ちょっとあんたやめてよ! 仲間を売るつもり!?」
「『泣いて馬謖を斬る』って奴だな。宿題もしないお前はそんな言葉知らんだろうが」
「泣いてないじゃん! むしろ笑ってるでしょうが!」
「そりゃ本当に逃げ出してくる奴がいたら笑うしかないだろ!」
敢えて本人には言わないが、よりにもよって一番長引きそうな淑乃が現れたというのも問題だ。
応酬を続けていると、追いかけてきた数学教師にあっさり見つかった淑乃はそのまま身柄を確保され、教室へ連れ戻された。物凄く怨念のこもった目で睨まれたが、俺は心を鬼にして見送った。そうやって逃げている時間が一番もったいないのだ。
「さすが、現実から逃げ続けて無職を貫く男は言うことが違うね」
「……」
「リアルタイムで、もったいない時間を過ごしているよね?」
「うるさいな!」
少なくともこうして吹奏楽部に携わっているうちはマシだろう。いつまで続くかはわからないが。
そのまま講堂の中へ戻ろうとすると、再びこちらへ向かってくる人影が見えた。今度は誰だ。
「あれ、絵理子先生じゃない?」
日向がその人物の名を呟く。奴がわざわざこちらへ出向くなんて珍しい。嫌な予感しかしない。
段々近づくうちに彼女の顔色がいつにも増して蒼白なのがわかると、予感は確信に変わった。
「……ああ、無職は今日も呑気なオーラを振りまいているわね」
「一言目からそれかよ」
絵理子の言葉にはいつだってそれなりの含有量の毒が存在するが、慣れたとは言っても気分の良いものではない。
「なんだよ。そんな親族の訃報を聞いたような顔して」
「不謹慎なこと言わないで!」
ヒステリーも健在だ。
「先生、どうしたの?」
日向が優しく尋ねると絵理子は露骨にたじろぐ。日向がいるおかげで殺伐とした雰囲気は多少緩和されるが、彼女が消えてしまった時のことを考えると戦慄しかない。
「そ、その……」
何やらもごもご言い始める絵理子。
「今度の定期演奏会なんだけど……」
ちょうど先ほど思いを巡らせていたワードが出てきた。
「あの、実は……。『箱』が……」
「『箱』? なんの?」
こいつは深刻な顔をして何を言っているのだ。
「演奏会の『箱』なんて、会場のことしかないでしょう……」
「ああ、そういう意味か。たしかいつもあそこの文化会館だったよな?」
俺の現役時代は、今年もコンクールなどでさんざん演奏したあの会場を使っていた。というか合同演奏会も毎年開かれるほどだし、この地区の学校は大ホールか中ホールかといった違いはあれど基本的にあそこを使う。便利なものだ。
「ま、まあそうだったんだけど」
「だったってなんだよ」
「ほら、去年は中止になったじゃない?」
「そうみたいだな」
「その後はあなたが現れるまで部活の体も成していなかったでしょ?」
「そうかもしれないけど顧問のお前が言うなよ」
「うるさいわね!」
「……」
ああ言えばこう言う奴だ。
「それはあんたでしょ」
日向は無視する。
「取ってなかった……」
「は?」
「会場の予約を取ってなかったの! 今のままだと『箱』が無いのよ!」
「……へえ!?」
俺の間抜けな奇声が校舎にぶつかってこだました。
「マジか?」
「マジね」
「ん? ちょっと待てよ。箱が決まってないってことは、もしかしてスケジュールも未定ってことか!?」
「そうね」
「そうね、じゃねえんだよ!」
こいつは言うべきことだけ言ったら急に落ち着き始めた。伝書鳩かよ。
というか、いくらなんでもこれは……。
「どうせ無能と思っているんでしょう!?」
「うるせえなあ。いきなり発狂すんなよ」
暴れだしたいのは俺の方だ。
「とにかく問い合わせるしかないんじゃない?」
冷静なのは日向だけだ。本当にどちらが大人かわからない。
「今日はホールの事務局が休みだった……」
とことんツキがない。もう見慣れた光景だけど。
「じゃあ明日すぐに連絡してみるか」
それは当然のこととして、実際どうするか……。ちょうど良い日取りで空いていれば、まだ一ヶ月以上あるので予約可能だと思う。空いていれば、だが。
最悪、あの文化会館以外もあたってみるしかない。とはいえどこの学校もあそこを使うということは、それ以外に適当な場所が無いということも意味している。正直期待はできない。
お通夜みたいな空気が漂う中、絵理子のジャケットのポケットから着信音が響く。
「――もしもし。はい、そうですが。……ええ!?」
電話に出た彼女が素っ頓狂な声を出した。
「はい、はい……。いや、そんな……」
どうでもいいが、まだクソ暑いのにどうしてこの女はジャケットなんか着ているんだろう。真っ黒だし。喪服か?
そんな格好をしているから、訃報とかお通夜みたいな単語が出てくるんじゃ――。
「痛え!」
絵理子に思いきり足を踏まれた。
「あ、いえなんでもありません。……はい。承知しました。それではお待ちしております」
通話を終えた絵理子は、困惑した表情を浮かべている。
「今度はなんだ?」
悪事が連発する雰囲気に、県大会前のことを思い出して頭痛がしてくる。
「吹奏楽連盟が、今からここに来るんですって」
「連盟?」
「理事長と校長に用があって連絡したら、ちょうどこの後アポイントが取れたみたいで。私とあなたも同席できないかって」
「……俺も!?」
また何かペナルティを食らうのかと動揺していると、絵理子は真っ直ぐ俺を見ながら「落ち着きなさい」と窘めた。
「大丈夫よ。謝罪に来るだけみたいだから」
思わぬ単語が彼女の口から飛び出た。
「県大会のことよ。翡翠館高校を失格処分にした件みたい」
「今さら?」
「ええ。今の電話の相手が判断したそうよ」
「誰だよ」
「芳川功雄」
「えっ」
「芳川先生が、今から来るの」
俺はしばし呆然としてしまった。
こんな形で恩師と再会するとは思わなかった。
どんな言葉を交わせば良いのかわからぬまま、俺は絵理子に連れられて校長室に向かう。
そんな俺の様子を、同行する日向が心配そうに見つめていた。
♭
久しぶりに訪れる校長室には、汐田以外にまだ誰もいなかった。大きな肘掛け椅子に座りながら優雅にコーヒーを飲む汐田は、春の頃より幾分接しやすそうな空気を纒っているように感じる。
「おや。あなた方が最初に来るとは」
意外そうな口調だが、嫌味には聞こえない。
ちょうど良かった。汐田とは、面と向かって話す機会を窺っていたのだ。
「校長先生。先日はコンクールの応援に来てくれてありがとうございました」
感謝を伝えたが、反応は無い。
「それから合宿の際の美月さんのこと……。本当に申し訳ありませんでした」
改めて頭を下げると、頭上をため息が通過していく。
「……頭を上げなさい」
素直に従うと、窓の外に顔を向ける汐田がもう一度深く息を吐いた。
「美月は、昔はやんちゃな娘でした。はしゃぎ過ぎるとすぐに発作を起こすというのに、こちらの心配はつゆ知らず遊び回るような……」
以前に萌波から聞いた話だと友達が少ないとのことだったが、幼少期はそうでもなかったのだろう。
「自分の子どもの教育もできない人間に教師など務まるか、と私も意地を張っていましてね。気がつけば、皮肉にも娘との接し方が一番わからなくなっていました」
汐田は淡々と語りながら苦笑した。
そして、椅子をこちらへ回転させる。
「狭川先生にも言いましたが、大事に至らなかったのであれば謝罪不要です。家まで送り届けてくれたのでしょう? 適切な対応でしたよ」
「……ありがとうございます」
「そもそも、あなた達を信頼していなければ、私が出張で不在の間に娘を預けることなどしません」
「……えっ」
彼の口から初めてそんな言葉を聞いた。
「新入部員勧誘期間の最終日のことを覚えていますか」
「はい」
「……まさか、あの子が飛び込んで来るなんて思いませんでしたよ。しかも同級生を説得した、と」
忘れるはずも無い。吹奏楽部が存続したのは、美月のファインプレーのおかげだ。
「あんなことをする娘は今まで見たことがありませんでした。それに、部長やあなたが言った『エメラルド』という言葉……。ずっと気になっていたんです。私がこの学校に赴任したのは、全盛期を過ぎてからですから」
「そうだったんですか」
「初めてその言葉を聞いたのは、木梨楓花の面接を担当した時です」
「えっ」
その名前が出てくるとは思わなかったが、よく考えれば彼女はこの学校への採用が決まっていたらしいので不思議な話ではない。
「もう一度吹奏楽部を蘇らせたいと。『エメラルドのサウンド』を取り戻したいのだと目を輝かせていました。赴任前に、あんなことになってしまいましたが……。それでも、姉の意志を継ぐように現れた木梨日向も立派な働きをしていましたよ」
ちらりと腕時計を確認した汐田は、ゆっくりとコーヒーを啜る。
「ただ、良くも悪くも吹奏楽部は『あの姉妹の部活』でしたね。日向さんがいなくなってからは、首領を失った敗残兵の集団みたいでしたから。まともな音楽などできるはずが無い。そんなところに娘を置いておくのも考え物だったんですが、しばらくするとあの子は自分から離脱したようでした」
生徒の活躍を期待しない校長など、どこにもいないだろう。ただ、良い方向に進む未来がイメージできなければ期待していた気持ちも萎える。校長に限った話ではない。誰だって、応援したいと思うかどうかはその対象次第である。汐田の表現が誇大かどうかは別として、俺が初めて会った時の吹奏楽部のろくでもなさについては触れるまでもない。
「――まさか、あなたがあの姉妹の代わりになるとは思いませんでした」
「そんな。あいつらは唯一無二というか、とても俺のような人間とは比べられませんよ」
「珍しく評価しているんだから素直に聞くものですよ」
「うっ」
俺が返答に窮すると、扉をノックする音が響いた。
「どうぞ」
汐田の声に続き、二人の男性が入室する。
一人は理事長の渋川だ。今日も人畜無害そうな微笑みを浮かべている。先日入院したとは思えないほど元気そうなのは何よりだ。
そして。
「失礼します――おお、久しぶりだな、二人とも」
低めの身長と痩せた体型。昔に比べて白髪の量が増えただろうか。白い半袖シャツとグレーのスラックスという出で立ちは、同じような格好をした渋川と並んで近所のおじさんのような雰囲気を醸し出している。かつて黄金期を作ったとは思えない優しそうな眼差しが、俺と絵理子を見据えていた。
「芳川先生……」
十年ぶりの対面に、俺はやっぱり掛ける言葉が見つからず、絵理子と一緒に立ち尽くす。
「ぼうっとしていないで座りなさい。理事長先生と芳川先生も、どうぞ」
汐田に言われるがまま、それぞれ応接セットのソファに腰掛けた。
「――秋村君、狭川さん。この間は本当に素晴らしい演奏を聞かせてくれてありがとう」
「い、いえ……」
芳川の言葉にみっともなく俺達が狼狽えていると、何やら目つきの鋭くなった汐田が芳川の方を向いた。
「それは労いの言葉でしょうか。この子達は、その素晴らしい演奏を披露したにもかかわらずなんの表彰もされなかった訳ですが」
瞬時に室内の空気が凍る。
俺は信じられない顔で汐田を凝視してしまった。
「汐田先生」
「……失礼しました」
柔らかくも迫力のある渋川のテノールボイスが汐田を諫める。
「いえ、汐田先生が仰る通りです。皆さん、この度は誠に申し訳ありませんでした」
額がテーブルについてしまうくらい深々と頭を下げたかつての恩師の姿を見て、俺は何を感じれば良いのかわからなかった。
「……取り返しのつかない事をしたと実感したのは、愚かにもあの演奏直後のことでした。賞とか、代表とか、そういう問題だけじゃない。ただ純粋に磨き抜かれた音楽を披露した翡翠館高校の演奏は、あの日の出演団体で唯一、観客の心に届きました」
「そんな、大袈裟な……」
つい声を上げると、芳川が右手を差し出して俺を制止する。
「実際、コンクールの後は連盟にも苦情のような意見書がいくつか届いたんです。それに審査員の方からも、どうしてあの最後の学校は失格なのかと問い詰められました。君達の演奏はそれだけ客席を魅了したんです」
レジェンドである芳川に言われると、妙に説得力があった。
「……だからこそ、そんな君達を失格にした連盟の責任は果てしなく重い」
昔よりもずいぶん小さく見える恩師の姿に、俺はなんとも言えぬ心境に陥る。
「もう終わったことです。俺を指揮者にしたのは部員達の総意なんです。コンクール後に文句を言う者もいませんでした」
俺が芳川を擁護するのはおかしいかもしれないが、正直今さら謝罪をされたところで結果が変わる訳でもない。それに、そもそも事の発端は芳川ではないし。
「あの、智枝は一緒じゃないんですか?」
聞きづらいが気になったので質問すると、芳川は沈鬱な表情を浮かべた。
「それについても本当に申し訳無い。彼女は県大会以来、塞ぎ込んでしまって……」
「ずいぶん過保護なんですね」
つい、本音がそのまま出てしまった。
「許してくれ。まだあの子も十年前のことを引きずったままなんだ……」
絞り出すように芳川が言うと、室内には重苦しい空気が立ちこめた。
「――彼が言った通りです。いくら謝罪を受けても、失格になった事実は変わりません」
汐田が冷たく言い放つ。
「わかっています。こうして私が無理矢理押し掛けたのも、自己満足と言われても仕方の無いことだと理解しています。ただ、何もせずにはいられなかったんです」
かつて翡翠館高校にいた芳川だからこそ、渋川と汐田は面談を受け入れたのだろう。形式じみた謝罪だと切って捨てることは簡単だが、あまりにも罪悪感に苛まれていそうな芳川を見ていると、なかなかそういう気持ちにもならない。
「秋村君。もしも君が今後もこの学校の指揮者として大会に出場するなら、もう失格になんてさせない。だから、これからもあの素晴らしいサウンドを聞かせて欲しい。この通りだ」
もう一度芳川が頭を下げた。
「……そのくらいで良いでしょう。あなたを知っているこちらとしても忍びない」
渋川が穏やかに声を掛ける。
「秋村君、狭川先生。何か言いたいことはあるかね?」
「い、いえ……」
絵理子がすぐに答える。
「一つだけでよろしいでしょうか」
俺はどうしても腑に落ちないことだけ言っておくことにした。
「もしも謝罪をするなら、俺達ではなく部員達にしてもらえないでしょうか」
素晴らしい演奏をしたのも、今回の件の一番の被害者も、奏者なのだ。大人だけで終わらせる話だとは思えない。
「もちろんだ。この後練習だろう? もし皆を集めてくれるなら、誠心誠意気持ちを伝えさせてもらうよ」
芳川は俺の言葉を否定せず、快諾してくれた。
時刻は間もなく五時になろうとしている。もうそんな時間か。
「それなら早速音楽室に向かったらどうだ?」
渋川の提案に、俺と芳川が頷く。絵理子はすぐにスマホを取り出し、部員へ連絡を入れる。
「先生方、わざわざ会っていただきありがとうございました」
「何を水臭いこと言ってるんだ。いつでも遊びに来てくれよ」
ソファから立ち上がった芳川の言葉を聞いて渋川が眉を顰める。
「あの、校長先生。ありがとうございます」
俺はたどたどしく汐田に感謝を伝えた。
「……いいから行きなさい。またろくでもない集団になったら容赦しませんからね」
「は、はい。あはは……」
先ほど脱走を企てたばかりの淑乃のことは記憶から抹消して愛想笑いを返す。そんなことよりも、彼がまるで吹奏楽部を庇うようなことを率先して言ってくれたのが、俺は嬉しかった。
校長室を出た俺と絵理子は、改めて芳川と相対した。
「秋村君、十年前は何もしてやれなくて悪かった。狭川さんも、赴任するタイミングで私が転勤になるなんて思わなかっただろう。困惑させてしまったね」
この居心地の悪さはなんだろう。蒸発した父親とうっかり再会したような……。いや、それだと芳川が完全に悪者になってしまうか。少なくとも俺は勝手に逃げ出しただけなので、謝られる筋合いなど無い。
「まさか『ワルプルギス』をやるとは思わなかったが……。なんだか私まで、十年間心のどこかで抱えていた鬱屈とした気持ちを晴らしてもらえた気分だよ。それだけ立派な演奏だった。ともすれば、十年前の『断頭台』よりもな」
俺にはもったいない言葉であった。絵理子も恐縮した様子だ。
「もちろん、定期演奏会でもまた演奏するだろう? 予定が合えば私も行こうと思うんだが、いいかな?」
「ええ、それはもちろ――」
反射的に答えたが、すぐに重大な事実に思い至ったためセリフがぶつ切れになる。
「あ、あの」
「ん?」
俺は絵理子と顔を見合わせた。物凄く気まずい。
「定期演奏会なんですが……」
芳川は怪訝な顔をしている。
「うちの部活もここ一年本当にいろいろなことがありまして……。実は、まだ定期演奏会のスケジュールや会場が決まっていないんです」
正直に打ち明けると、芳川は大きく目を見開いた。
「それは一大事じゃないか! どうしてすぐに相談してくれなかったんだ」
「え?」
「連盟からも文化会館の事務局に掛け合ってみるよ」
「いや、それは申し訳無いというか……」
「何を言っているんだ! 定期演奏会が開催できないなんて、絶対にダメだ! 集大成なんだから!」
突然声を荒げた芳川に呆然としていると、隣で絵理子が頭を下げた。
「申し訳ありません。私が至らなかったんです」
「狭川さん……」
「ご協力いただけるとありがたいです。お願いします」
「……もちろんだ。この数年、君にも大変な苦労を掛けた。それに比べればこれくらいたいしたことではないよ。任せてくれ」
そう言って芳川は力強く頷く。
俺達はそのまま講堂へと向かった。
その後芳川の謝罪を聞いた部員達は、どうリアクションすれば良いかわからないといった感じで戸惑っていたが、あの日間違いなく翡翠館高校の演奏が聴衆を魅了していたことを改めて知ると嬉しそうな表情を浮かべた。やはり俺なんかよりよっぽど大人の対応だった。
そのタイミングで、絵理子は定期演奏会のことを暴露した。完全に自爆テロみたいなヤケクソ具合であったが、連盟の協力が得られるとわかった直後でもあり気が大きくなっていたのかもしれない。
翌日、芳川の協力もあり例年通り十月の第二土曜日にホールの予約が取れた。
まだ暗中模索の状態ではあるが、吹奏楽部はいよいよ最後の舞台に向かって再び走り出す。
だが、それは別れへのカウントダウンが始まったことも意味していた。
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