九
県大会当日は早朝から燃えるような太陽が昇り、これでもかと言うほどの熱気を放っている。
そんな灼熱の一日の始まりを飾ったのは、いつもの如く目覚ましに鳴らされる爆音BGMだ。
闘志を煽る不安定な音のうねりと、心臓に打ち込むように繰り返される五拍子のリズム――ホルスト作曲『組曲惑星』の、第一曲。副題は『火星――戦争をもたらす者』である。
普段なら耳を塞いで実行犯を睨みつけるところだが、今日は違う。まさに俺にとって戦いの一日が始まろうとしているのだ。これほど感情が昂る楽曲もなかなか無い。
最高の選曲だ。
「あんたまで戦闘民族になったら、いよいよみんな武装蜂起するんじゃないの?」
様子のおかしい俺を見て日向が困ったように言ったが、俺の場合はそのくらいの意気の方が良いだろう。
翡翠館高校吹奏楽部は、必ず今日全ての聴衆にインパクトを与える。
奏者達はやるべきことを全部やってくれた。あとはステージの上で自信を持って披露するだけでいい。今まであいつらは必死に練習を続けてきた。もうこれ以上、自分自身を追い込む必要など無い。
「お前、今日は大丈夫そうなのか?」
「うん。どんなに消えそうになっても、絶対に聞くよ」
頼もしい限りだ。
「よし。それじゃあ、行こうか」
「うん」
すっかり俺の本番の衣装となった、黒い礼服一式と、群青色の生地のネクタイ。今日もゴールドのストライプが上品に輝いている。
そして、これまで父親の遺品の中で唯一触れていなかった、長方形のケース。蓋を開けると、中には父親が使っていた指揮棒が入っている。
「今日だけ、お借りします」
それだけ呟いて蓋を閉じ、そのまま鞄に入れる。
朝食もしっかり摂った。
全ての準備が終わると、玄関からブザー音が鳴る。
「おはよう」
「ああ。わざわざ悪いな」
仏頂面の見本みたいな顔をしているのは、俺を迎えに来てくれた絵理子だった。
「絵理子先生、おはよ!」
「はい、おはよう」
日向には笑顔を向ける絵理子も、いつも通りだ。扱いの差に不満を言う気などとうの昔に失せているので、俺は黙って玄関の鍵を閉めた。
「――そういえばあの日、本当にお母さんが来たんだね」
学校へ向かう道中で、日向が思い出したように言った。
「ああ……。その、瑠璃さんにもお前が見えなかったみたいで……」
忍びない気持ちになったのでそう返すと、日向は責めるようにこちらを睨む。
「なんであんたが申し訳無さそうにするの」
「いや、なんとなく……」
寝ぼけたまま消えてしまった日向は、それから二日経った昨夜まで姿を現さなかった。
「お母さん、どんな感じだった?」
「俺の世話をしていた頃と全然変わらなかったよ」
「そか」
日向は多くを語らず、移り変わる車窓の景色をぼうっと見つめている。
「……瑠璃さん、今日会場に来るって」
運転席で絵理子が呟いた。
同時に、俺のスマホがメッセージの着信を伝える。
送り主は京祐だった。
たった一言、「行くからな」とだけ書かれた内容に思わず笑ってしまう。見ようによってはストーカーか犯罪予告だ。まあ怪我を押して無理矢理足を運ぶのだろうから、執念に関しては似たようなものか。
「京祐も来るみたいだ」
「……そう」
絵理子は囁くように答えた。
ちなみに絵理子は酔っ払うと記憶を失うタイプらしく、プレストで荒れていたことは覚えていないようだ。こちらからつつくのも憚られるので、彼女がこれまで秘めていた件については今のところ聞かなかったことにしている。
――もう見飽きるくらい通い続けた通学路から翡翠色の屋根が見えると、いっそう気が引き締まった。
「ありがとう」
「別に」
「パーカッションパートのフォローは頼んだ」
「ええ」
短いやり取りだけ交わして、俺は音楽準備室へ向かう。
「おはようございます」
最初に出くわしたのは玲香だった。
今日は出番が最後のため、集合もいつもより遅らせてある。部員達の集まる時間はまだだいぶ先だ。
「お前、もう来たのかよ」
「そんな言い方がありますか」
「いや、別にいいけどさ……」
俺は楽器を演奏する訳ではないので構わないが、奏者達はあんまり早くウォーミングアップをして疲労が溜まったら元も子も無い。三年生は無尽蔵みたいなスタミナなので、杞憂かもしれないが。
「その、何度もになるけど……。本当に悪かったな」
「はい? なんのことですか」
「フルートの件に決まってるだろう」
「ああ。謝罪され過ぎてウザいと私が思っていることに気づいて、それに対して謝罪をされたのかと思いました」
「どういうことだよ!」
智枝に憧れてフルートを始めたのが玲香だ。そんな彼女に対して俺がしでかしたことは、劫罰を受け入れるべき悪行である。十年越しで両者の楽器を壊すなど、悪い方向で神懸かり的だ。
「さすが死神ですね」
「いやそういう意味の神じゃなくて」
「冗談です」
ずっと真顔の玲香が何を考えているか推し量ることは至難の業である。
「……正直、楽器が床に落ちたあの瞬間、初めて殺意というものを覚えました」
そんな告白は聞きたくないし、そもそも初めてである訳が無いと思う。
「始めた時から、ずっと使っていた楽器ですからね」
「……そう、だよな」
「でも、あなたからお借りしたフルート。癖が全然無いんです。それなりのレベルがあれば、誰でもすぐに馴染んでしまうような……」
「……」
「ずっとずっと、大切にされていたんでしょう。吹けばわかります。だから、今回のことは事故なのだと割り切ることができました。もし学校の備品の楽器で代用ということになっていたら、取り乱したでしょうけど」
「そ、そうか」
取り乱すとどうなるのかは怖くて聞けない。
だが、彼女が気持ち良く演奏できるのであれば、それ以上に望むことは無かった。実際、彼女の出す音からは先日までの硬さが消えていた。
「秋村さん」
「なんだ?」
「日向は、どこかで聞いていてくれるでしょうか」
どこか遠くへ眼差しを向ける玲香の質問に、俺は目を見開く。
「……ああ、聞いてるさ。だってあいつが言ったんだ。『絶対に音楽を続けて』って。きっと見届けてくれるよ」
実際に見ているのだ。今日だけは何があっても絶対に。
「あなたが珍しくポジティブなことを言うなんて、まるで本当のことみたいですね」
そう言った玲香も、珍しく微笑を浮かべている。
「では、また後ほど」
「ああ」
音も無く彼女は廊下を歩いていった。相変わらずアサシンみたいな奴だ。
俺もとりあえずスコアをチェックしよう――。
「ん?」
先ほど玲香が向かった方から、ざわざわと話し声が聞こえてくる。
「あ。おはようございます」
先頭にいる副部長の優一が呑気に挨拶をする。
その後ろには、ぞろぞろと部員がついてきていた。
「……はははっ」
「え?」
「お前らって奴は……」
これでは集合時間などあって無いようなものである。
こいつらは最初から最後まで一貫している。どこまでも、音楽のことしか頭に無いのだ。
先生と生徒なら小言の一つも出るだろうが、指揮者と奏者の関係であれば話は別である。
こんな最高なバンドを指揮できる俺は、本当に幸せ者だ。
♭
日向が姿を消していたこの二日間も、もちろん練習に明け暮れた。
充分に仕上がったと自信を持って言える。
本番では練習以上のことなどできない、という教訓のような言葉は昔からある。それが日々の練習の大切さを強調する言葉なのだとしたら、このバンドには不要だ。自制を求めるくらいに練習しまくってるんだから、そんな説教じみたことを言っても興醒めである。
「よし。今の演奏をそのままステージの上でやればいい。俺から言えるのはもうそれだけだ」
最後の通し演奏を終え、俺は皆にそう声を掛けた。
何百回も繰り返したフレーズ。
皆でチューナーを睨みながら調整したハーモニー。
体の芯まで刻み込まれたリズム。
指示も含めて完璧に暗記した楽譜。
その全ては、今日の十二分間のためにあった。本番当日の舞い上がったテンションが錯覚させるのではなく、これまで積み上げた日々が自信を裏付けてくれる。
「みんな、トラックが来たわよ」
良い頃合いで登場した絵理子が落ち着いた様子で連絡した。部員達は手早く、かつ慎重に楽器を積み込んでいく。
「いよいよだな」
「ええ」
「そういえば、結局指揮者は最初から俺のままなんだよな?」
「そうね」
「今日のパンフレットにも俺の名前が載ってるってことか?」
「ああ。はいこれ」
絵理子はどこからともなく薄い冊子を取り出してこちらへ手渡した。
彼女は既に一度会場入りしている。裏方の仕事があるのだろう。その際にもらったと思しきパンフレットには、プログラムの最後に我が校が記載されている。
「あれ?」
指揮者のところは空欄になっていた。
「なんだこれ」
「さあ? 連盟は私が変更の連絡をしてくると思ったんじゃない? 結局そんな連絡は無くて、パンフレットも間に合わなかったんでしょう」
まるで他人事みたいに言う絵理子。
つまり、今日会場に来た一般の聴衆や各学校の生徒は、いざアナウンスがかかるまで指揮者不明ということか。
「なんだか悪いことをしているみたいな気分だな」
「無職も悪でしょ」
「なんで今そんなこと言うんだよ!」
「この学校で悪行と言えば吹奏楽部だしね」
「救いが無さ過ぎる」
「別にいいんじゃない? 今回ばかりは私達に理があるでしょう。あなたの指揮はルール違反じゃないんだし」
彼女の言う通りである。理はあったけれど、力が無かったのだ。いつも力だけで全て解決しようと暴走していた吹奏楽部のことを思うと、まるで逆なので皮肉としか言いようが無い。
俺達が会話をしているうちに、皆の準備が終わった。着替えも完了している。もういつでも出発できるようだ。
下級生の中にはコンクール衣装と一緒に緊張感まで身に纏っている部員も見受けられるが、三年生があまりにもリラックスしているので集団としての固さはあまり感じない。
「なんでそんなに落ち着き払ってるんだ?」
たまたま近くにいたパーカッションの紅葉に声を掛けると、彼女は達観した目でこちらを見返した。
「んー。私って補習を受けるくらいバカじゃないですか?」
いきなりなんの話だ。
「そんな私が言うのもおかしいんですが……。なんていうか、完璧にテスト勉強して迎える試験の開始前みたいな感じなんですよね。もちろん緊張はしていますけど、それ以上に楽しみなんです。今までの努力が報われるかもしれないと思うと」
そう言って笑う紅葉の横顔は、高校生とは思えないほど大人びて見えた。
今日の演奏は表彰されないので、そういう意味では全く報われる結果にならない。だからこそ、失格という言葉の重みは常に俺の胸にのしかかっている。
だが、紅葉はそんなことを言っているのではない。ただひたすらに「エメラルド」の音色を届けようと、その一点のみ見つめているのだ。他の三年生もそうだろう。
俺と絵理子は顔を見合わせて、つい笑ってしまった。そこまで神格化されているかつての部員が、今では無職と不良教師なんだから。
「あれ。いつもめちゃくちゃ不協和音なのに珍しいですね?」
紅葉の言葉で我に返る。
「まあ、腐っても同級生だからな」
「調子に乗らないで」
「……本当に可愛くない奴だ」
「は? また刃物を向けられたいの?」
「お前それ合法だと思ってんのか?」
「あなたは法の適用範囲外だから」
「俺の人権をなんだと思ってんだよ!」
「無用の長物」
「あ? 役立たずってことか? てめえマジでいい加減に――」
「ふふっ! はははっ」
俺達のしょうもない論戦(泥試合)に、紅葉が噴き出した。
……またやってしまった。頭に血が上ると周りが見えなくなるのはお互いに相変わらずだ。
「あの。あなた達って本当に大人なんですか?」
「そうだよ!」
「そうよ!」
見かねた玲香の機械的な質問にも、まるで余裕の無い返事をする自称大人達。
「やっぱり私達がしっかりしていないとね」
「そうですね! 普段は本当にダメダメですね!」
淑乃の言葉に美月が便乗する。
先ほどまで緊張感を漂わせていた下級生達も、美月の容赦無い一言を聞いて笑みを零している。
結果時に雰囲気がやわらいだから良かったのだと、無理矢理ポジティブに捉えることにした。
名残惜しいが、そろそろ会場に向かう時間だ。
「みんな、笑って帰ろうな」
最後にそれだけ言うと、部員達の元気な返事が講堂いっぱいに響いたのだった。
♭
もはやこの文化会館もホームグラウンドのように感じられる。もちろんその方が良いに決まっているし、安心感が全然違う。
楽器を組み立てるロビー。全員が入ると僅かに窮屈なリハーサル室。そして肝心の舞台。そのどれもが俺達の平常心を維持させてくれるだろう。
――徐々に本番の時間が近づいてきた。
ロビーで待機する吹奏楽部に、応援の声が届く。
「みんな、冷静さも忘れずにな」
首を固められて動きづらそうにしつつも、いつものように温厚な声で語り掛けた京祐。
「まさかここまで成長するなんて……。しかもそれを指揮するのがあの秋村君とは……」
早くも感極まっている理事長の渋川。体調はもう問題無いようだ。
「……頑張りなさい」
「う、うん」
いつになっても不器用な汐田校長と、戸惑いながらもどこか嬉しそうな美月。
瑠璃からも「見てますよ」という監視員みたいなメッセージが届く。たぶん応援してくれているのだと思いたい。
「……みんなを、頼んだ」
日向は小さいながら力のこもった声で全てを託し、俺の手を握った。
「ああ。任せろ」
その信頼に答えるように、俺も日向の手を握り返した。
「――翡翠館高校の皆さん、リハーサル室へご案内します」
そうこうするうちに案内係がやって来たので、ギャラリーはぞろぞろとホールへ戻った。
「絵理子はみんなと一緒に行ってくれ。俺もすぐ向かうから」
「……はいはい」
舞台袖まで同行する絵理子に部員を委ね、俺はぽつんとロビーに佇む。
「――ずいぶん余裕みたいですね」
俺の背後から、アルトパートに入れておけば間違い無さそうな声が響いた。
合同演奏会と同じシチュエーションが再現されるのではという予感はあったが、まさか本当に現れるとは……。
俺に声を掛けたのは、躑躅学園の顧問であり、俺の後輩でもある智枝だ。
「ああ。今日はだいぶ穏やかな気持ちだよ」
「はあ? このままだと失格になるんですよ? あなたのせいで」
「いやいや。失格になるのはお前のせいだろ」
俺もやられてばかりではいられない。
「自分の出番も終わって、呑気に冷やかしか? お前こそ余裕たっぷりだな」
「……開き直りですか?」
明らかに苛ついた様子で智枝が尋ねてくる。
「何をしに来たか知らんが、もう俺は失敗しないぞ? ……さて、
「ちょっと!」
もともと学校で練習しているので、音出しは充分だろう。のんびり話をしている場合ではなくなってきた。
「あなたがいる限り『悪夢』は終わらない! それでも指揮台に乗るって言うの!?」
背中に飛んできた言葉の弾丸は、俺の心まで届かない。
「すごく自分勝手なことを言うけど……。もう既に『悪夢』なんて終わってると思うんだ」
俺はそれだけ答え、小走りでリハーサル室へ向かう。
智枝は呆然としたまま立ち尽くしていた。
♭
リハーサル室に到着すると、ちょうどチューニングを行うところだった。
生徒指揮者の淑乃の指示で、低音パートから基準音が重なっていく。
「フォルテシモで!」
淑乃が叫ぶと、リハーサル室全体がビリビリ震えた。だが、決して耳障りではない。
気持ち良いくらい音程がぴったり揃ったロングトーンのおかげで、俺も集中力が高まる。
右手を挙げると音がやんだ。
「すいません、あと何分ですか」
「あ。さ、三分ほどです!」
虚を衝かれた案内係が慌てて答える。
「ありがとう」
俺はみんなに向き直って、一度全体を見回した。
春に見た、虚ろで闇の深そうな目をした者はもういない。全員が早くステージに上がりたいとでも言うようにキラキラしていた。
「この間のゲリラライブ。本当にありがとう。感動したよ。あんな素敵なサプライズができるバンドなら、コンクールの十二分間くらい余裕だと思う」
残り、二分。
「だけど、今日はそのたった十二分間に、これまでの全てを注いでくれ。多少ミスしても、荒くなってもいい。どうせ賞はつかないんだ。結果なんて気にせず、ただ自分の持つ最高の音を表現すること。イメージするのは、お前らがずっと追いかけてきた『エメラルド』の音色。そして、最高の『
「はい!」
景気の良い返事が室内に響く。
残り、一分。
「これで本当に最後だ。演奏する前も、演奏中も、トラブルには充分気をつけること。この部屋を出た後は、集中を切らさないように」
「はい!」
「……そして、本番直前にも関わらずこんな注意をしなければいけない、曰くつきで臆病な俺に――」
残り十五秒。
「こんな最高のバンドの指揮を託してくれて、本当にありがとう」
――三、二、一。
「……時間です」
もう、言葉はいらない。
必要なのは、聴衆を魅了する音楽のみとなった。
――独特の雰囲気を醸し出す舞台袖。俺は指揮棒を取り出したケースを絵理子に預けた。
前の団体の演奏が終わり、部員達がステージに向かう。
ほんの一、二分で準備が終わり、俺も指揮台へと足を運ぶ。観客の前に姿を現すと、何かを察したように息を呑む気配を感じる。
『プログラム十五番。私立翡翠館高校吹奏楽部。課題曲二に続きまして、自由曲、ベルリオーズ作曲「幻想交響曲」より第五楽章「ワルプルギスの夜の夢」。指揮は、秋村恭洋です』
流暢なアナウンスに続き一礼すると、一階席の後ろの方で祈るように手を組むオレンジ色の少女が目に入った。
目立ち過ぎだろ。
笑みを浮かべながら奏者に向き直る。
スポットライトの眩しさや熱さにももう慣れた。
指揮棒を上げた瞬間、皆が一斉に楽器を構えた。
統率の取れたブレスから、軽快なマーチが始まる。徹底的に磨いてきたテンポ感と音程。どこまでも楽譜に忠実な強弱表現とアーティキュレーション。
京祐が指導した低音パートも、絵理子が面倒を見たパーカッションパートも、完璧だった。
僅か三分程度の演奏があっという間に終わると、場内は異様な雰囲気に包まれているような気がした。
だが、俺達にとってその空気はむしろ好ましい。
幕を開けるのは、魔界の舞踏会だ。
――俺が再び指揮棒を動かすと、弱奏の不協和音に続いて地を這うような低音楽器の連符が
トリルと装飾音符によりグロテスクに変貌した「憧れの人」のテーマを高々と歌い上げるクラリネットの璃奈。彼女の音の艶は、春先よりもさらに洗練されている。
パーティーの前の昂揚感を表すように段々盛り上がりを見せる全体合奏は、「魔女の
不気味なチャイムの響きに
金管楽器と木管楽器の掛け合いが繰り返され、一瞬の沈黙の後にテンポが急激に上がる。
リズミカルな八分の六拍子。クレッシェンドの頂点で、パーティーの開演を告げる八分音符の連打が響き渡り、とうとう魔女達のダンスが始まる。
各音域に散りばめられた主旋律と対旋律が交錯し、絢爛な舞踏会が繰り広げられるものの、徐々に雲行きが怪しくなり――。
バスクラリネットのソロが奏でるのは、短調に変化したロンドの主旋律。ここが魔界なのだと改めて思い知らせる仄暗い雰囲気は、やがて全ての楽器を巻き込んだ強奏へと発展していく。
そして再び長調に戻ったロンドと、場を支配するように覆い被さる『怒りの日』のテーマ。
いよいよクライマックスが訪れる。
ここまで練習通りだ。
練習通りに、非の打ち所が無い。あとは、この宴を最後まで聴衆に見せつけるだけである。
全てのテーマが混在し強弱も目まぐるしく移り変わるのに、正確無比な八分の六拍子の上でロンドが続く。
混沌と秩序が同居する、麻薬のような音楽。
この狂気や興奮、恐怖も。
愉悦や憧憬、そして感動も。
全部を客席まで届けるんだ。
俺の命を削ってもいいから。
どうか最後まで、この「エメラルド」の音色を――。
――木管楽器が淡々と八分音符を刻み、演奏は残り四十小節を切った。
フィナーレに向かう奏者達は、狂乱の最中でも最後まで冷静さを失っていなかった。
全員が四つの付点八分音符で助走をつけると、場内にはフォルテシモの嵐が吹き荒れる。
一糸乱れぬ八分音符の連続の到達点には、鮮やかに煌めくハ長調のハーモニーが待ち受けていた。
高らかに響いたその音は、確実に会場の二階席の奥まで貫いた。
長めのフェルマータを俺が切った瞬間、ホールいっぱいに余韻が響く。
……ほんの僅かの静寂。時間が止まったような舞台と客席。
退場するまでが「パフォーマンス」である。
物音一つ立たない中、俺は一同を起立させた。
その刹那――。
「ブラボー!!」
聞き覚えのある大声が響き渡ると、パラパラと拍手が沸き始める。
ほんの二、三秒で場内は喝采に包まれた。
振り返り深々と一礼する。顔を上げると、叫び声を上げたばかりの日向が両手を挙げて拍手していた。
――果たして本当に悪夢が終わったかどうかなど、俺にわかるはずも無い。
だが、こんな素敵な景色が登場する悪夢なら、それでもいい気がした。
ゲリラ豪雨のような拍手に見舞われた翡翠館高校吹奏楽部。
その灼熱の夏は、こうして終わりを告げたのだった。
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