部員達が撤収する頃には、辺りも夜の闇に包まれていた。だが、日が落ちたにも関わらず気温は高いままだ。台風明けであることが関係しているかはわからないが、おそらく今日は熱帯夜になるだろう。

「なんか、みんな本当に別人になっちゃったね」

 日向がしみじみと呟いた。俺も同感だ。校長室を襲撃したり生徒会室の前でデモをしたり、そんな武装勢力みたいなことをしていた集団とは思えない。

「いや、まずそれがおかしいんだけどね?」

 苦笑しながら日向が指摘した。

「でもあいつらは、最初からずっと『音楽』にだけは真剣だった。本当、尊敬するよ」

「うん」

 日向の目にはほんの少しだけ切なさが滲んでいた。

「お前にも、また助けられたな。ありがとう」

 それだけ言うと、彼女がぷいっと顔を逸らした。たまには可愛いところもあるのだなと思ったが、口にするのはやめた。感謝の言葉を誤魔化したくはなかったから。

 ――全ての片付けと戸締まりを済ませた俺は、帰宅する前にとある場所へ足を向ける。絵理子は既に帰ったらしい。どうも奴の心情が掴めない。まあ、これまでよりは多少距離感が縮まったと考えても良いのだろうか。

「ん? こっちって、もしかして……」

「ああ。プレストに寄ってみようと思って」

 臨時休業とのことだったが、その後の様子が気になったのだ。

 とはいえ、そもそも夜の営業をしているかわからないので単純に時間外で閉店中かもしれない。それならそれでマスターに何かあった訳ではないことがわかるので、確認ができれば充分だ。

「――お?」

 学校からたいして離れていないプレストは、少し歩くだけで建物が視界に入ってくる。ドアに据えつけられたランプが煌々と光っているのがすぐにわかった。

 店の目の前まで来ると、いつものように営業中であることを示すプレートが吊り下げられている。俺は安堵の息を漏らし、そのまま扉に手を掛けた。

 聞き慣れたウィンドチャイムに招かれ、俺はカウンターに向かう。

「おや。お久しぶりです」

「ご無沙汰してます。夜もやっていたんですね」

 マスターはいつものようにグラスを磨いていた。店内の照明は暗めに調節されており、昼とは全く違う雰囲気を漂わせている。BGMは、ラフマニノフのピアノソナタ第二番。

「いや、ちょうど今日から夜営業を始めたんですよ」

「今日から!?」

「あれ、知っていたからいらっしゃったんじゃないんですか?」

「いや初耳です。臨時休業の看板を見て心配していたので、なんとなく寄っただけですよ」

「それはそれは。余計なご心配をお掛けしましたね」

「いえ……」

「臨時休業は、夜営業の準備のためだったんです。本当は昨日から始めようと思ったんですけど、ほら、台風だったでしょう」

「ああ」

 そういうことだったのか。

「はい、どうぞ」

 熱々のおしぼりを手渡され、俺は両手で受け取った。店内はほど良く冷房が効いており、おしぼりの熱さがむしろ気持ち良い。

「何を飲まれますか?」

「えーと」

 マスターの背後にあるメニュー表も、昼間とは違っていた。一目瞭然なのは、アルコールメニューが多いことである。

「もしかして、夜はバーってことですか?」

「ご名答」

 まあたしかに、周りに飲み屋は無いし、時間帯的にカフェではなくバーにしたのだろう。俺にとってはあまり関係無いが。

「アイスコーヒーで」

「えっ」

「お酒飲めないんで……」

「ああ……」

 夜の方が客単価を稼げるだろうに、俺みたいなよくわからない人間のせいで昼とたいして変わらない状況になってしまった。申し訳無い反面、どうして夜営業開始の一日目から俺しか客がいないのだろうと思うと、たとえコーヒーを一杯注文しているだけだとしても貢献している気持ちになる。

 というか、こんなお盆前の夏休み真っ只中じゃなくても良かったのではなかろうか。開店するということはそれだけ費用もかかるのだと、素人の俺でもわかるというのに。

「また失礼なことを考えているでしょう」

「い、いえ……」

 その洞察力の高さをもっと別のところに活かしたらどうなんだ。……どうせこの思考も読まれているんだろうな。

「心配いただかなくても、今日はこの後お客様がいらっしゃる予定ですよ」

「あ、そうなんですか」

 それなら長居は無用だ。こうしてマスターの無事も確認できたし。

 そう思った矢先に、再びウィンドチャイムが鳴った。

 入口でうとうとしていた日向が飛び起きる。

「マスター、こんばんは……あれ、日向?」

 入店してきたのは絵理子だった。俺が視界に入った瞬間、殺気を感じる。全く距離感など縮んでいないのだと思い知った。

「……どうしてあなたがいるのよ」

「たまたまだけど」

「はああああ」

 そんな露骨に嫌がらなくてもいいじゃないか。

「バーを始めるって言うから楽しみにしていたのに、こんなアイスコーヒー野郎に先を越されるなんて」

「別にいいだろ!」

「マスター、ハイボールください。あと、サンドイッチとミネストローネ」

「お、そんなのもあるのか。マスター、俺にも同じのお願いします」

「あ、やっぱりオムレツとオニオンスープで」

「なんでだよ!」

「はいはい。仲が良いですねえ。はっはっは」

「どこが!?」

 マスターは微笑みながら手早くオーダーに取りかかった。絵理子はこれ見よがしにカウンターの隅に座る。

「……まさか、予約していたのが絵理子だったとは」

 俺が呟くと、マスターはきょとんとした顔をこちらに向けた。

「いえ、狭川先生はご予約のお客様ではありませんよ」

「え」

 この店で絵理子以外を見たことが無かった俺は素直に驚いた。

 そうこうするうちに注文した品が現れる。やはり美味しい。

 絵理子はタバコをふかしながらハイボールで喉を鳴らしている。別に犯罪を犯してる訳ではないのだが、同級生のなれの果てみたいな光景なので、なんだか複雑な気持ちになる。

 空腹だった俺は、黙々とサンドイッチを口に運んだ。さすがにアイスコーヒーというのも申し訳無いので、おかわりにはジンジャーエールを注文する。……たいして変わらないか。

 絵理子はわりと早いペースでアルコールを消化している。大丈夫なのだろうか。

 日向はボックス席でぐっすりと眠っている。

「じゃあ、もう一杯だけいただいたらお暇しようかな……」

「お構いなくゆっくりしていってくださいね」

 マスターに会釈を返しつつ、レモンスカッシュをオーダーする。

「どうぞ――」

 俺の目の間にグラスが置かれた、その瞬間。

 ドアが開く音と同時に、一人の女性が現れた。

 日向が着ているのとそっくりの、水色の涼やかなワンピースと白いキャペリン。右手には革製の大きなキャリーバッグ。

「いらっしゃいませ」

「こんばんは、マスター」

 帽子の下から聞こえたのは、丸みを帯びたソプラノボイス。

「……え?」

 俺はその人物をつい凝視してしまった。

 だって、その声には確実に聞き覚えがあったから。

「……?」

 異変を察知した絵理子も様子を窺っている。

「あらあら。随分懐かしい子達がいるじゃありませんか」

 そのセリフに、自然と背筋が伸びる。表面上はまるで聖母のように優しい声だが、どこか裏を感じる口調。

 穏やかな調子で突然過激なことを言う、かつて俺の保護者だった人と同じ声。

 呆然とする俺の横に、絵理子がやってきた。彼女も俺と同じように固まっている。

 後ろ手にドアを閉めたその人物は、自然な動作でキャペリンを取った。

「お久しぶりです。ふふふ」

 口元に手を当てながら微笑を浮かべる女性。

 当時から癖が変わっていない。

「家政婦さん……」

瑠璃るりさん!」

「ん?」

「え?」

 俺と同じタイミングで絵理子も声を出した。だが、お互い困惑のあまりその先の言葉が出てこない。

「あらあら」

 たった一人になった小学生の俺の面倒を数年間にわたって見てくれた女性。俺に様々な楽器の吹き方を教えてくれた恩人。

 家政婦さんとの、十四年ぶりの再会だった。


 ♭


「どうして恭洋が瑠璃さんを知ってるのよ」

「それはこっちのセリフだ!」

「まあまあ。いきなり大人気ですねえ」

 絵理子が「瑠璃さん」と呼んだその女性は、間違い無くかつての俺の家政婦さんその人であった。渦中にいるにも関わらず、本人は優雅にグラスを傾けている。

「そりゃ私は知ってるわよ。楓花のお母さんなんだから」

「……は?」

 何を寝ぼけたことを言っているんだ。

「そんな訳無いだろ。俺の家に住み込みで働いてたんだぞ」

 よりにもよって楓花の名前が出るとは思わなかった。しかも母親なんてあり得ないだろう。

「絵理子ちゃん、ずいぶんキツい感じになりましたねえ。尖ったナイフみたい」

 俺達の会話をまるで無視して家政婦さんが呟いた。絵理子の印象について異論は無いが、この人も気軽に「絵理子ちゃん」などと言い出すので混乱する。

「恭洋さんは相変わらずバリアを張ってるし」

 そりゃ、現れるなんて思わなかったスパルタ教育マシーンが沸いて出たのだから、警戒するに決まっている。

「……あの、瑠璃さん?」

「はい?」

「本当に恭洋の世話をしていたんですか?」

「ええ、本当ですよ。もっとも、この人が中学三年生の時に、追い出されてしまったんですけどね」

 再会の衝撃で感覚が鈍くなっていたが、今さらながら気まずさが込み上げてきた。

 彼女が言った通りだ。中学最後の一年で、家政婦さんに小さな不幸が立て続いたのである。最後は自宅で電球を取り替えていた時に脚立ごと転倒して怪我を負ってしまった。翡翠館を受験することが決まっていた俺は、そのまま彼女に暇を告げたのだ。

「まあまあ。そんな綺麗な話じゃないでしょう。『俺と一緒にいると死んじゃう』って泣き喚いて、無理矢理家の外へ追い出したくせに」

 皆まで言わなくもいいだろ。

「そう、だったんですか……」

 絵理子は複雑な顔をしている。

 ……ん?

 ということはつまり……。

「楓花の母親!?」

「だからそう言ってるじゃありませんか。頭がからっぽなのも変わりませんねえ」

 からっぽというか、真っ白になった。

「たしかに言われてみれば、瑠璃さんと顔見知りになったのって、高校に上がってからだわ……」

 神妙な面持ちで絵理子が言った。

 家政婦さん――瑠璃はにこにこと掴みどころの無い笑みを浮かべている。

 そこで俺は重大な事実に気づいた。

 転がるようにカウンターからボックス席へと向かう。

「おい、日向、起きろ!」

 ぐっすり眠っているオレンジ色の少女を揺さぶると、むにゃむにゃと寝ぼけた声が返ってきた。

「……日向?」

 瑠璃の表情が強張る。

「起きろってば! 母さんが来たぞ!」

「……うぇ」

 奇妙な呻き声を上げながら、むくりと日向が起き上がる。

「何? もう今日は疲れたんだけど」

 目を擦りながら彼女は苦言を吐いた。だが俺からしたらそんなことを気にする余裕も無い。

 日向が見えない者からしたら、俺の行動は完全に危ない人間にしか思えないだろうが、瑠璃は怪訝な顔をしたままじっとこちらを見つめている。マスターも空気を読んでカウンター越しの景色と一体化していた。

「家政婦さん、こっちへ来て」

 つい昔の呼び名のまま瑠璃を手招きすると、彼女は大人しく近寄ってきた。絵理子は俺達のことを遠い目をしながら眺めている。

「どうして恭洋さんが、あの子のことを?」

 ――不思議そうに俺を見た瑠璃の様子に、俺は泣き出しそうになった。

 彼女にも、見えないのか。

「あ。お母さんだー」

 まだ半分寝ぼけている日向が間抜けな声を出す。

「家政婦さ――いや、瑠璃さん。今ここに日向がいるんだよ」

 真剣な顔で彼女に話し掛けたのに、「あらあら」と受け流される。

「恭洋さん。どこに日向がいるんですか?」

「だから、ここに――」

 苛つきさえ覚えながらボックス席へ振り返る、と。

 日向の姿が消えていた。

「え? おい。どこ行ったんだよ」

 これが芝居なら、相当の名演だろうという自負があった。

 本当に芝居フィクションならいいのに。

 こんなタイミングで日向が電池切れになってしまうなんて……。

「いろいろと、積もる話もあるようですねえ」

 情緒不安定な俺を前に、瑠璃は全く取り乱すことが無かった。優しく俺の肩に手を置いた彼女は、何かを察したように「戻りましょう」と静かに言った。

「マスター、おかわり!」

 着席した途端、重苦しい雰囲気を吹き飛ばすように瑠璃が大きな声を上げる。

 ほんの僅かな時間で、コースターの上にグラスが置かれた。

「今日は貸し切りでもいいですか?」

 悪戯っぽく微笑みながら瑠璃が尋ねる。マスターは困ったような顔をしたものの「どうぞ」と短く返事をした。

「恭洋さん、絵理子ちゃん。店主の許可は貰えましたよ。お話を聞かせてもらえませんか?」

 俺も瑠璃に聞きたいことは山ほどあった。だが、何よりも優先して日向のことを伝えるべきだろう。絵理子もそれには賛成だったらしく、黙って頷いた。

 ――俺はここ数ヶ月のことをかいつまんで語った。

「そうですか……。楓花と日向が、吹奏楽部の命運を恭洋さんに託したんですね……」

 事の経緯を語る上では十年前の件にも触れる必要があったが、瑠璃はずっと黙って話を聞いてくれた。

「……恨まないの?」

「恨む? 誰を?」

「俺に決まってるだろ。あんたの娘二人は、俺の呪いのせいで大変な目に遭っているかもしれないんだぞ。小さい頃から俺を見ているあんたなら、よくわかるだろ……」

 どうしてこんなに穏やかなのか不思議なくらい落ち着き払った瑠璃は、昔のように「ふふふ」と笑う。

「日向は、元気ですか」

 その問いは、俺の心に深く突き刺さった。

「ああ、責めている訳ではありません。今こうしてあの子と触れ合ってくれる人がいる……それって、親としては凄く嬉しいことですから。あなた達に見えているなら、私だってそのうち見えるかもしれませんしね」

 そう言われても気まずさが晴れない俺は、氷が溶けきってほとんど味の残っていないレモンスカッシュを飲み込んだ。

「……日向は、本当に太陽みたいな子だよ。あの子がいなければ、俺は吹奏楽部に関わることも、絵理子と再会することもなかった。俺みたいなネガティブ野郎を焚きつけてくれたあいつには、感謝しかない」

 素直な気持ちを吐露すると、瑠璃は「そうですか」とだけ呟いた。

 絵理子がマスターに飲み物のおかわりを注文したので、俺も便乗する。

「――で、瑠璃さんはどうしてここに来たの?」

 今度は俺が聞く番だ。

「ああ。マスターから聞いていたんですよ」

「知り合いなの?」

「知り合いというか、恩師ですかね?」

 瑠璃がそうぼやくと、マスターは苦笑した。

「どうして疑問形なんですか」

「冗談ですよ。ふふふ」

 俺は二人の話についていけない。

「恩師って、なんの?」

「学校に決まっているでしょう。もっと言うと、私が通っていた翡翠館高校の恩師です」

「えっ。あんたって俺の先輩だったのか……」

 初めて知った。

「マスターって、用務員じゃなかったでしたっけ」

「それは秋村君達がいた頃の話です。もともとはちゃんと先生をやっていたんですよ、こう見えても」

「そう、だったんですか……」

 世間は狭いものだと痛感する。

「じゃあ、瑠璃さんは今までどうしていたの?」

 漠然とした質問を飛ばすと、珍しく彼女は困ったような顔をする。

「それに答えるのは、もう少し経ってからですかねえ」

「は?」

 煙に巻かれた俺は、若干反抗的な声を上げてしまった。

「恭洋さん」

「は、はい」

 少しでも反発しようものなら粛正されていた幼少期の記憶が蘇り、つい背筋が伸びる。

「あなたには、大事な仕事がまだ残っています。全部終わったら話せる時も来るでしょう。まずは、目の前のことに集中しなさい。翡翠館高校吹奏楽部を復活させるんでしょう?」

 話し方は穏やかなのに、その言葉には有無を言わせぬ迫力があった。

「は、はい……」

 怯えながら返事をする。昔と同じだ。

「ふふふ。じゃあ、せっかくなので良いことを教えてあげましょう。いいですか? もうあなたに『呪い』なんてありません」

「ふうん……え!?」

 思わず椅子からずり落ちそうになる。

「なんですか? これくらいのことでだらしない」

「何が『これくらい』なんだよ! それこそが全ての悪夢の元凶だろうが!」

「ああ、はいはい。そういう被害妄想意識も相変わらずですねえ。というか、十年も無職をやってるとは思いませんでしたよ。今になってなんだか泣けてきました。そんなちっぽけな男が『呪い』なんて能力を持っているはずが無いでしょう? 身の程を知りなさい」

 一言一句がボディブローのように俺を襲う。というか、能力じゃなくて状態異常と言った方が正しいと思う。どうでもいいけど。

「あなたは、日向が言った『覚悟』という言葉の本当の意味を理解できていませんね」

 細かい事を考えていたら、真剣な顔つきで瑠璃が言い放った。

「……え?」

「関わると決めたなら、『どんなことが起きても』最後まで指揮台に立ち続ける――これ以外に、どんな意味があるって言うんですか」

「……」

 やっぱり母親なんだな、と納得してしまった。瑠璃の言葉は染み渡るように心の中で広がる。

「いいですか。これはあなたへの『期待』でもあるんです。しっかりなさい」

「……はい」

 まるで十年以上ぶりに再会したとは思えないほど、彼女とのやり取りはしっくりきた。

「それから先ほど言っていた『ワルプルギスの夜の夢』の最後の解釈の話ですけど」

 瑠璃が言葉を続ける。俺の話の中でなんとなくその件も織り交ぜてしまったのだが、言及されるとは思わなかった。

「どんな楽曲を選んだとしても、その演奏を評価してくれるのは『お客さん』でしょう? もしもあなた達の演奏が『エメラルド』の音楽になったとしたら、楽曲なんて関係無くお客さんは満足してくれますよ。それに、解釈を考えることも大事ですけど、フィナーレなんですよね? 楽曲を最後まで演じきることに重点を置いた方が良いに決まってます」

「……」

 彼女の指摘は、驚くほどするっと腑に落ちた。思い悩んでいたことがバカバカしくなるくらいに。

「たしか、ベルリオーズって悲恋をきっかけに『幻想』を作曲したって言われてますけど、その後モチーフにした『憧れの人』と結婚してませんでしたっけ?」

「うん。結局離婚したけど」

「人間、そんなもんですよ。絶望の淵で自殺未遂をしたかと思えば、いつの間にか意中の人と結ばれ、また別々になる。そういうふうに人生はできているんでしょうねえ……」

 感慨深い口調で瑠璃が言った。きっと彼女にもいろいろあったのだろう。

 日向の前向き思考を借りるのならば、やはり『ワルプルギス』を演奏することになったのは運命なのかもしれない。散々な思いをしてきた俺の人生で、あいつらに出会えたことこそ希望の欠片だったのだと、今なら思える。

 そんな最高のバンドで、かつて俺が目指した『エメラルド』を復活させる。瑠璃が言うように、一番大切なのはその意志なのだ。

「――ねえちょっと恭洋! あんたも飲みなさいよお!」

 と、いきなり視界の外から呂律の回っていない声が聞こえた。

「……絵理子?」

「そうやって『俺は常識人です』みたいな顔でいつも一線引いてさ! 昔からあなたのそういうところが嫌いなのよ! あなた常識人どころか社会不適合者でしょうがあ!」

「あらあら」

 瑠璃はクスクスと笑っているが、そんな平和な状況ではない。

 完全に絵理子が酔っ払っている。そういえばさっきからやけに静かだと思ったのだ。喋らないくせにアルコールばかり摂取したからだろう。コメントの内容が俺への憎しみに溢れているのはいつも通りだけれど。

「私だってずっと一人で吹奏楽部を守って来たのよ! それを、いきなり現れたあなたがどうにかするですって!? また私が無能になるじゃない!」

「絵理子、落ち着けって。はい、水」

「うるさいうるさい!」

 グラスを渡そうとしたが暴れられた。幼児退行まで引き起こしている。

 そんなことよりも「また」ってなんだ。

「高校時代もそう! いっつもあなたと楓花がいいとこどり! どうせ私は裏世界の住人でしたよ!」

「お前はいったい何を意味のわからないこと言ってんだ」

「わかれよ!」

 叫んだ勢いで、グラスに残ったハイボールを一気に飲み干す絵理子。もう勘弁してくれ。

「そもそも、私は翡翠館に採用されるはずじゃなかったのよ!? 楓花があんなことになっちゃったから繰り上がっただけ! でも今の状況を考えれば、やっぱり私じゃダメだったってことじゃない!」

 急にとんでもない新情報が飛び出してきた。

「おい、お前それどういうことだ」

「黙れ無職!」

 教師とは思えぬ暴言を吐いたのを最後に、絵理子は机に突っ伏した。

 今言ったことから察するに、俺はずっと勘違いをしていたのだろう。楓花と絵理子の両方が採用されたとばかり思っていたが、絵理子は「楓花の代わり」であったのだ。

 ようやく、心のどこかでずっと気になっていた違和感の正体を掴んだ気がする。

 時折彼女の口から出た、楓花への微かな反抗。

 再会当初に、俺と組んでまで楓花を蘇らせようとは思わない、と日向の前ではっきり言ったこと。

 これまで絵理子は楓花に対してずっとコンプレックスを抱いていたのかもしれない。

「あなた、あの子達に、恥をかかせたら……私がギロチンを作って首を刎ねてやる、から……」

「怖過ぎだろ」

 猟奇的な殺害予告だけ言い残した絵理子は、そのまますやすや寝入ってしまった。

「……絵理子ちゃんも、なかなか強烈ですねえ」

 瑠璃が欠伸をしながら呟く。どうしてなんてこと無いような雰囲気で流せるのだろう。

「恭洋さん。あなたはとりあえず帰りなさい。ここは私がご馳走してあげますから」

「えっ、でも……」

「絵理子ちゃんはともかく、あなたは指揮者なんですから。もう本番はすぐそこなんでしょう? 夜更かしは厳禁です」

 従わなかったら実力行使に出そうな威圧感を感じ、俺は渋々帰り支度を始める。やっぱり俺の周りは危険人物しかいないのか。

「秋村君。私も県大会は見に行こうと思います。素敵な演奏をお願いしますね」

 唯一の良心であるマスターの優しい言葉が、俺の胸を打った。

「はい。頑張ります。ご馳走様でした」

「ありがとうございました。おやすみなさい」

 マスターに見送られて外に出た途端、じっとりと湿った熱気が纏わりつく。

「――それにしても、智枝ちゃんはどうしましょうかねえ」

 店内に背を向けた瞬間に瑠璃が発した独り言を、俺の耳は聞き逃さなかった。

「え、ちょっ――」

 だが、聞き返す前に無情にも扉が閉まる。

 ……もう気のせいだと思うことにした。今日はいろいろあり過ぎた。

 疲れ切った体で夜道を歩く俺の頭の中には『ワルプルギス』の旋律が巡り続ける。だが、もう「悪夢」という感じは無かった。

 この曲は、「宴」でもあるのだ。

 聴衆を魅了する「宴」を催すのだと考えると、フィナーレはむしろ絢爛でこそあるべきだろう。

 もう、迷いは無くなった。

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