十二
山の木々の葉が鮮やかな赤色に染まる、秋麗らかな土曜日。その始まりを告げたのは、耳を擽る甘美なピアノの音色であった。
ドビュッシー作曲の『夢』だ。
ベッドで横になった状態でこの曲を聞くのは半年ぶりである。ありきたりな言い方をすれば、全てが終わるはずだったあの日こそ、全ての始まりであった。
空中を浮遊するような旋律と、ゆらめくテンポ。
半年前はささやかな走馬燈が流れたけれど、今は違う。激動の数ヶ月間のハイライトが、次々と脳内のスクリーンに映し出された。
そして訪れる最後の音――へ長調のハーモニー……。
俺はゆっくりと目を開けた。
「おはよ」
活発そうな明るい眼差しと、透き通ったメゾソプラノの声。
オレンジ色を身に纏った日向の挨拶を聞いて、俺は静かに覚醒した。
「ああ、おはよう」
カーテンを開けると、日の出を迎えたばかりの空には予報通りの晴天が広がっている。
「いよいよだね」
「そうだな」
俺達は会話とも言えぬくらいの短いやり取りだけを交わした。
いつからかしっかり摂るようになった朝食を済ませ、ドアノブだけ不自然に真新しい玄関の扉の鍵を掛ける。
ほとんど毎日通い続けた通学路。目的地の近くには、銀杏の落葉が作る黄色い絨毯の敷かれた並木道がある。
その木々の間から覗くのは、いつもと変わらない翡翠色の屋根。
「――おはようございます!」
ただのシンボルである校門の周辺には、既に部員達が集まっていた。
「遅いですよ!」
「早く講堂を開けてください!」
「今日は重役出勤なんですねー」
「え、無職なのに?」
「まあまあ、今日は仲良くしましょうよ」
「そうですよ。こんなに天気も良いんだし」
……ぱっと見た感じ、とりあえず皆が元気なようで安心した。
「なあ、まずひとつだけ言っていいか?」
最も手前にいる美月へ声を掛ける。
「はい」
「今何時だ?」
「えー、七時みたいですね」
「集合時刻は?」
「忘れました」
「……じゃあ、今日の開演時刻は?」
「六時です! 夕方の!」
「てめえら半日も何して過ごすんだよ!」
ちなみに指示していた集合時間は九時である。
「いやいや、秋村さんだってこうして来ているじゃないですか」
「それは、どうせ花見の場所取りみたいに何時間も前から来るクソ迷惑な奴がいると思ったから来てみただけだよ。まさか出待ちされるとは思わなかったけどな!」
何が重役出勤だ。ブラック過ぎる。
「無職だから白とか黒なんて関係無いのでは? 無職だけに無色ですよね、あはは!」
もうここがワルプルギスだろ。
「……まあ、冗談はさておき」
突然真顔になった美月はまるでいつもの玲香みたいだと思ったが、そこで初めて三年生の姿が無いことに気づいた。
「先輩方は、予定通りに集合しますよ」
俺が違和感を覚えたことを察知したのか、美月が言葉を続ける。
「今日は、先輩方には音楽に集中して欲しいんです。そういう訳ですから、裏方の仕事は全て私達が引き受けることにしました」
なんでもないことのように言う美月と、微笑みながら頷く他の部員達。
「全てって……」
準備という意味では昨日までが大変であったことに間違い無いのだが、当日は当日でやることが山のようにある。まさに全員で作り上げる演奏会なのだ。
「先輩達がとっても上手なことは、もうわかってるんです。だからこそ、最後は舞台の上で全部出し切って欲しい。そうすればあのストイック過ぎる変人集団も、未練無くこの部を去ることができるでしょうから」
悪口を言っているくせに、美月はもう泣きそうになっていた。
「部長! まだ早いよ!」
後ろにいる部員から突っ込まれ、しんみりしたムードを掻き消すような笑い声があちこちから上がった。
「秋村さんも!」
「ん?」
なんのことだろうと思って瞬きをすると、すっと一筋だけ雫が流れた。
「……そうだな。今日は一年に一度の晴れ舞台だし、泣いてる場合じゃないよな」
さっと指先で頬を拭った俺は、集まっている一同を見渡す。
「お前らも、先輩の居場所なんてもう無いって思わせるくらい、魂を込めて演奏しろよ。三年生に対して遠慮なんかしてたら、盛り立て役にもなれないだろうからな!」
「はい!」
朝から元気な返事だ。
俺が講堂へ向かって歩き始めると、談笑を交わしながら皆が後に続く。一部始終を見つめていた日向も、最後尾から暖かい眼差しで後輩達の姿を眺めていた。今日の演奏会の成功を祈るように。そして、これからの吹奏楽部の未来を託すように。
――その後、後輩達の気遣いが伝わったのか三年生達はぴったり九時に集合し、それぞれ粛々とウォーミングアップを始めた。文化祭が終わるまでは過干渉なくらいだった彼らも、徐々に部の運営を後輩へ引き継いでいった。まさに「引退」といった感じの光景は、指揮者という立場から見ると寂寥感の募るものであったが、後輩達の成長という意味では喜ばしくもあった。
「ここで練習するのも、今日で最後なんですね」
講堂の隅でプログラム進行の最終チェックをしていた俺に、玲香が声を掛ける。
「……落ち着いたら、またいつでも遊びにくればいい。もうここは吹奏楽部が占拠したからな」
「合法的に?」
「もちろん」
「それなら良かった」
玲香は極めて自然に微笑んだ。
「やっぱり、普段からそういう表情をした方がいいぞ」
「はい?」
「せっかく美少女なんだから、もっと笑いなさい」
「セクハラです」
「はいはい、なんとでも言えばいいよ」
俺は忘れていない。あの夏の合宿の朝。意味不明な手段で俺を叩き起こしにきた玲香達は、口々に自分のことを美少女だと言っていたのだ。
「良い思い出ですね……」
「どこがだよ!」
「……ふふっ」
思わず噴き出した玲香が、そのまま大きく笑い声を上げた。表情が豊かなのはフルートの演奏だけだった彼女も、今ではこんな立派に感情を表に出すことができるようになった。
「ちょっと? なんでそんな緊張感の無い雰囲気を出してんの?」
見かねたように近づいてきたのは淑乃だ。
「存在するだけで周りがピリピリする淑乃に言われたくない」
玲香が容赦無く言い返す。
「あ? それどういう意味よ」
「おい、どうしてたった一往復かそこらの会話で爆心地みたいな空気を作り出せるんだよ、お前らは」
「そんなの、いつも爆心地みたいなところにいたからに決まってるでしょ」
「そうですね」
「こいつら……」
認めたくはないが、あながち間違っている訳でもない。一番最初に彼女達の指揮を振った時の感想が『ゲルニカ』だし。
「そういえば、和美さんは今日来るのか?」
ふと思いついて、俺は淑乃に質問した。
あの病院のコンサート以来、和美とはご無沙汰だ。相変わらず忙しくしているのだろうか。
「ああ、お母さん? ちょうど今日夜勤みたい」
「そうか……」
何も気にしていないように言った淑乃の顔が僅かに曇る。呑気に笑っていた玲香へ声を掛けたのも、やはりどこかで苛立ちのようなものがあるのだろう。
「萌波のご両親が、しっかりビデオ撮影してくれるって言ってなかったか? ライブで見られないのは残念だけど、映像でも伝わるような演奏をしないとな」
「うん……」
まだ表情から陰が消えていない淑乃のことは少し気になったが、そうこうするうちにリハーサル開始の時間が来てしまった。
「淑乃。まだ何があるかわからないでしょう。まずはしっかり準備しないと」
「……そうね」
玲香が言ったのは気休めにしかならないセリフだったかもしれないが、淑乃は少しだけ微笑んで彼女の励ましを受け取った。
徐々に奏者が集まってくる。
それからしばらく、入念にリハーサルを行った。「本番の楽しみが減っちゃうから」と、日向はずっとどこかへ行っていた。
昼休憩を挟んでから、いよいよホールへと向かう。
躑躅学園の公演が始まる頃合いと重なったため、会場の入口やロビーは非常に混雑していた。やはり実力のあるバンドの演奏会は人気が高い。
翡翠館高校は楽器の搬入等もあり裏口からの会場入りとなったのだが、幸いにも目立ったトラブルは起きなかった。忘れ物に関しては、合同演奏会の失敗(トランペットパートがミュートを忘れた)の反省を生かし各パートリーダーが責任を持ってチェックしたので、慌てて学校へ戻るような事態にもならなかった。
躑躅学園の本番中、俺達には中ホールがあてがわれている。こちらも空いていて助かった。部員の中にも、当初は躑躅学園の舞台を見に行きたいと考えていた者がいたようだが、いざ本番前になると他のバンドを気にする余裕など無く、皆が中ホールで最後の調整を行った。
「――ん? おい、美月」
ホールスタッフから改めて渡された正確な進行表を確認していた俺は、ひとつだけ気になるところを見つけた。
「はい、なんでしょう」
「これ、ミスプリントだよな?」
俺が示したのはポップスステージの舞台配置が描かれた用紙の、とある一箇所。
「なんでパーカッションの後ろにグランドピアノが出てるんだ? 今日は不要だろ」
「ああ、これはそのままで大丈夫です」
……意味がわからない。しかも、そのままページをめくってもずっとピアノは置かれたままである。
「大丈夫じゃないだろ。なんで使わない楽器を出しておくんだよ。よりにもよってステージを圧迫するバカでかい楽器だし」
「……」
美月はほんの一瞬考えを巡らせると、俺を真っ直ぐ見て困ったような顔をした。
「秋村さん、聞いてないんですか? 大ホールは明日もコンサートがあるんですって。本来は今日の公演が躑躅学園だけだったので余裕を持ってできるはずだった明日の準備が、私達のおかげで
「は!? そんな話聞いてないぞ! すぐにお詫びを――」
「まああああ!」
「……ま?」
「ちょっと待ってください!」
奇声を発しながら俺のシャツの袖を引っ張る美月はお淑やかさの欠片も無いが、とりあえず話を聞くことにする。
「私達の本番がスムーズに終わるのかわからないから、とりあえず休憩中にピアノだけはステージに入れさせて欲しいって言われたんですよ。明日のコンサートで使うんですって」
「……ふうん?」
普通そんなことするか?
「なんか文句あるんですか」
いきなり美月が不良になる。
「い、いや、文句っていうか……」
「さっき、お詫びって言いましたよね? つまり我々は迷惑を掛けた側です。スタッフの方が頭を下げて依頼してきたことを断る権利があるとでも?」
「なんでお前が偉そうなんだよ」
「秋村さんがねちねちうるさいので」
「……わかったよ。じゃあ、第二部はずっとピアノが置いてあるってことだな? パーカッションパートには移動するとき気をつけるように言っておけよ?」
「もちろんです!」
どうも腑に落ちないが、美月が言う通り俺達は無理を聞いてもらった身だ。あまりにも演奏に支障があれば交渉するが、ただ置いてあるだけなら気にしなければ良い話だ。
「では、秋村さん。本番前に皆で士気を高めたいので、どっか行ってください」
「もうちょっと言い方があるだろ!」
「――いいからさっさとこっちへ来なさい」
中ホールの客席から突然上がったのは、いつも俺に対してだけ冷たく鋭い、聞き慣れた声。
「絵理子……」
「頼まれた通り、学校内の戸締まりと最後のチェックは済ませたわ」
「先生、ありがとうございます!」
絵理子は午前中に外出していたため、学校ではすれ違うことも無かった。今日会うのは初めてである。
なんとなくそのまま突っ立っていると、絵理子と奏者達から「空気読め」みたいな視線を受けた。
仕方無く俺がホールを出ると、絵理子もついてくる。
「ん? お前も追い出される側なのか」
「そうね。あなたと一緒なんて心外だけど」
「こいつ……」
ロビーにいても手持ち無沙汰なので、俺は控え室へ向かうことにした。指揮者用の小部屋である。
絵理子は電話の着信に対応していたので、放っておくことにした。
――僅か六畳程度の楽屋に入った途端、なんだか妙に落ち着いた。
時計を確認すると、もう躑躅学園の公演は終了している時刻だった。大ホールの設営に関しては、翡翠館の方が躑躅学園よりも人数編成が小規模であるため、不要な部分の片付けを行うだけでほとんど終わる。その片付けについても、躑躅学園側が対応するとのことだった。こちらとしてはいろいろな意味でありがたいが……。
数日前に言われた、「智枝ちゃんに会いなさい」という瑠璃の言葉が蘇る。
いったい、会ってどうしろと言うのだ。
いずれにしてもあちらは本番終了直後で疲れており、逆にこちらは本番前で騒々しい。彼女を見つけることすら難しそうだ。とりあえず、しばらくこの狭い部屋にいれば良いだろう。もともと俺は引きこもりだし。
そう思った矢先に、ドアをノックする音がこだまする。
「絵理子か? どうした?」
部屋の中から俺が返事をして、数秒。
内開きのドアがゆっくりとこちらに向かって動く。
「……どうも」
姿を現したのは見慣れた不良教師、ではなく――。
たった今、現実逃避をして面会を避けようと画策した人物。
野田智枝、その人であった。
♭
「……」
「……」
かれこれ五分以上、室内が無人であると錯覚するほどの沈黙が流れている。とりあえず智枝には余っていた椅子に座ってもらったが、向かい合う俺には全く視線を寄越さない。
智枝は白いブラウスに黒いロングスカートとパンプスという、いかにもステージに上がる人みたいな格好をしている。まだ本番が終わってすぐだからか、額には僅かに汗が滲んでいる。そんな忙しい時に、俺なんかの相手をしていて良いのだろうか――。
「……あの、お疲れ様」
耐えきれなくなったのと、年上の俺が話を切り出すべきかもしれないという遅過ぎる気遣いから、俺は乾いた声を出した。
「私達の演奏、聞いてたんですか?」
「あ、いや、その」
しどろもどろを表現しなさいという課題があったら満点を取りそうな俺の様子に、智枝はため息を吐く。
「あなたは昔から他人に関心がありませんでしたもんね」
昔というのは、もちろん十年前のことだろう。
「コンクールの件で罵倒されるものだと思っていたので、拍子抜けです」
「え?」
「だって、私のせいで翡翠館は失格になったんですよ? あなたにとっては、吐き気を催す邪悪でしかないじゃないですか」
さすがにそれは言い過ぎだが、簡単に許せるほどのことでもないのはたしかである。でも、こんなところで智枝を糾弾したって何も生まれないのだ。きっかけは智枝だったにせよ、他校の顧問だって同調した訳だし。
「……本当、変わらないんですね。そういうところ」
呆れたように智枝が呟く。
「いや、そもそも俺の方だしな。邪悪というか、『死神』は……」
俺が自虐を口にした途端、智枝はこちらを睨みつけた。
「そうやっていつも自分は周りから一線を引いているような態度なのに、どうして指揮者なんかやってるんですか!」
正論で責められると、俺は言い訳すらできない。
「当時も、指揮台の上でしか自分自身を表現できないあなたを見ているとイライラしたんですよ。本当に音楽のことしか考えてなかった。まるで私達は道具みたいでした」
そんなふうに考えたことは無かったが、奏者がそう感じたなら受け入れるしかない。
「どうしてあの時、はっきり否定しなかったんですか。私を突き落としてなんかいないって。勝手に足を踏み外しただけだって!」
「……言ったよ」
「伝わってないんですよ! なんで指揮台から一歩下りた途端、いつもダメ人間になるんですか!」
「……」
「あの後部活に復帰した私が、どれだけ苦労したと思ってるんですか……」
智枝の声は段々萎んでいった。
なぜ彼女ばかりが被害者のように振る舞うのかと逆上する気にはならなかった。智枝が、当時見舞いに訪れた同級生に対して俺の関与を否定していたことを知っているからだ。それにも関わらず事態が悪化したのは、俺に信用や求心力が無かったために決まっている。
「先月の理事会で私が言ったことは、絵理子先輩から聞いてますよね?」
「ああ……」
端的に言えば、部活動に一極集中できる顧問でもない大人が指揮を振るのは問題だという意見である。
「合同演奏会の時はバラバラだったのに、まさか地区大会であんなに仕上げてくるなんて……。やっぱり十年前みたいに、あなたが指揮者としては優秀だと思い知りました。しかも、今は定職にも就かず吹奏楽部につきっきりだと聞いて、どうしても我慢できなかったんです」
「優秀なのは俺じゃなくて奏者だよ」
「うるさい!」
ヒステリーをぶつけられるのは絵理子で慣れているが、後輩に怒鳴られると余計に立つ瀬が無い。
「あなたみたいなのが吹奏楽部に関わったら、この地区のバランスがおかしくなるんですよ! なんですか、あの県大会の演奏は!? 最高過ぎて拍手すらできませんでしたよ!」
「……ん?」
褒められた、のか?
「表彰式の時なんて、後ろから刺されないかずっと震えてました。十年前のあなたみたいに」
無意識に右手が古傷を擦った。
「……この十年間。私はずっと先輩達に囚われていたのかもしれません。知ってました? あなたの次の生徒指揮者って、私なんですよ」
「えっ」
「卒業してからもそう。楓花先輩の背中を追いかけて大学に進んで教員免許を取って、絵理子先輩を避けて躑躅学園に赴任して、芳川先生のもとで指揮を学んで……。ようやく去年結果が出たと思ったらあなたが現れたんです。これもある種の『呪い』みたいなものなんですよ……」
そんな事情があったのか。
「それでも、どうしたって先輩達の演奏には追いつかなくて。全国大会を決めた、十年前の支部大会の『断頭台』がずっと耳の奥に残っているんです。たぶん、芳川先生もそうなんだと思います。躑躅学園に転勤されてから結果が出なかったのも、過去に囚われていたからでしょう」
堰を切ったように智枝の話が続き、俺の中でもパズルのピースが噛み合うように納得感が増していく。今年の躑躅学園の『ローマの祭り』に関しても、上品に仕上げようとした訳ではなく、俺達の存在にプレッシャーを感じたことで縮こまった演奏になってしまっただけなのではないかと思った。
だが、もしそうだとしたらあまりにももったいないことである。奏者が他のバンドを気にしてどうするのだ。
「演者が一番意識しないといけないのは聴衆だ。少なくとも俺の代は、みんながその一点だけを考えていた。お前だってそうだろう。それこそが、翡翠館高校吹奏楽部が目指した『エメラルド・サウンズ』なんだから」
そのワードに、智枝は少しだけ目を見開いた。
「……エメラルド、か。ずいぶん久しぶりに聞きましたね」
「この半年間も、俺達はそのサウンドを目指してやってきたんだ。だから、県大会の演奏を最高だったと感じてくれたなら指揮者冥利に尽きるよ」
意識すべき対象を見誤って成績すら伴わなかった躑躅学園。
成績なんか関係無く、聴衆の心に音を届けた翡翠館。
「……やっぱり、敵わないなあ」
もう笑うしかないといった様子で、智枝は顔を上げた。目つきの鋭さは、いくらか丸くなっている。
もしも自惚れでないとしたら、智枝は俺に憎しみを抱いていないのではと、今さらながら思い至った。
「私は、本当に、なんてことを……」
上を向いたことでなんとか目元に溜まっていた涙が溢れて一筋頬を伝うと、智枝は両手で顔を覆った。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさいっ……」
決壊した涙は止まらず、彼女は嗚咽を漏らしながらしきりに謝罪を繰り返す。
「智枝。みんな受け入れたんだ。もう謝らなくていい」
「でも!」
反発する彼女に、俺はポケットから取り出したハンカチを渡す。
「あなたは私のせいで全国大会に出ることも、引退することすらできなかった。それだけじゃなく、私はあなたの大切な時間を十年も奪ってしまったんですよ!」
「お前のせいじゃないんだってば」
「私はもともと知ってたんです! 秋村恭洋が『死神』だと!」
「……え?」
智枝の告白に驚きを隠せない。
「他人に無関心なあなたは当然把握してないでしょうけど、私達って同じ中学なんですよ?」
「マジかよ」
「あなた、よく中学の音楽室でピアノを弾いていたでしょう。こっそり聞いてたんです、私。でも『あの人には関わらない方がいい』って言われて、理由を知ったんです」
たしかにピアノはよく弾いていた覚えがある。
「翡翠館で吹奏楽部に入った時にはびっくりしましたけどね。まさかあなたがいるなんて思いませんでしたから。あなたの秘密については広まっていないようだったので、私も黙っていたんです。でも――」
全国大会の前に、あまりにも立て続けてトラブルが起きたことで俺の「体質」は露見した。
「私のお見舞いに来た同級生がその話題で盛り上がっていた時に、私はつい同調してしまったんです……。指揮台の上では全く隙の無い生徒指揮者の弱みを握ったつもりでした。楽器を壊された腹いせもありました。そんな軽率で幼稚な考えのせいで、あなたは刺され部活を去ってしまった……」
再び智枝の両目からぼろぼろと涙が零れる。
「あなたは私の楽器が壊れてしまったあの日、すぐに家から楽器を持ってきて貸してくれたのに。あんなの、不幸な事故でしかなかったのに……」
彼女が言ったのは事実だ。もっとも、その後すぐに智枝は怪我をしたのでほんの短い間だけの話だが。
「――でも、もう『呪い』なんて起こらないんでしょう?」
いきなり智枝が発した言葉に、俺は耳を疑う。内容もそうだが、どうしてそれを知っているのだろう。
「瑠璃さん――楓花先輩のお母さんに聞きました」
「えっ……」
ここでその名前が出てくるとは思わなかった。
しかし、よく考えれば「智枝と会え」と言った人物こそ――。
「楓花先輩があんな状態になってしまってから私もよくお見舞いに行ってるので、瑠璃さんとはもともと顔見知りなんですよ。県大会の後にお話をする機会があって、そこであなたのことを知りました」
「そういうことだったのか……」
これまでの話を整理した俺は、ようやく全て理解した。
すると、智枝が急に立ち上がった。
「ん?」
そのまま自然な動作で床に正座する。
「本当に、すいませんでした」
「いやいやいや!」
後輩の土下座なんて、死んでも見たくない。
俺は半ば無理矢理彼女を再び椅子に座らせた。
「――実は県大会の前、失格になるって事以外にもいろいろあってさ。俺が部員の楽器を壊してしまったんだ」
「えっ……」
「しかもどういう因果か部長のフルートをな。俺だって『呪い』が健在だと思っていたよ」
「……」
「でも、結局最後はみんなが俺に思い出させてくれた。聴衆に『エメラルド』を届けるという、十年前と変わらない気持ちを」
そのきっかけを作った、あのオレンジの少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「もう、過ぎたことはいい。お前だって今じゃ立派な指揮者だ。支部大会に出るなんてたいしたもんだよ。これからは、それぞれの役割を果たしていけばいいんじゃないか」
「……そう、ですね」
「瑠璃さんが言っていたよ。この地区を引っ張っていくのは、翡翠館と躑躅学園だって。『バランスが崩れる』なんてとんでもない。お互いが良いライバルになれると思うよ」
偽りの無い気持ちを吐露すると、智枝は初めて微かな笑顔を見せた。
「本当に『呪い』は無くなったんですね。そんな前向きなことばかり言うなんて」
「ネガティブなのは『呪い』というか性格なんだが……」
――冒頭に拷問のような沈黙があったとは思えぬくらい話し込んでしまった。
「今日の公演、無理を聞いてもらってありがとう。片付けまで引き受けてくれて」
「いいんです。私だって一応OGなんですよ? 今まで何もしてこなかった分、母校のためにできることはしないと」
「何もしてないなんてことは無いよ。うちの部長は、現役時代のお前の音に惚れて楽器を始めたんだから」
玲香のことを伝えると、智枝は一瞬目を見開いてからゆっくりと天井を見上げた。色褪せた記憶を辿るように。
「そうだったんですか。ずいぶん懐かしいですね……」
「ああ」
もう舞台の設営は終わっているだろう。部員達が音出しやポップスステージの演出を確認している頃合いだ。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「わかりました。本番前にすいませんでした」
「いや、むしろ本番前で良かったよ」
「そうですか」
指揮棒とスコアを手にした俺は、ふと思い当たったことを尋ねてみる。
「そういえば、瑠璃さんからどこまで聞いたんだ?」
「え? どこまで、というのは?」
「どうして『呪い』が消えたのか、理由を聞いていないんだよ。……いや、お前にもそんなことまで言わないか。あの人、何を考えているかさっぱりわからんし」
「あー。そ、そうですね」
「ん?」
なんだか歯切れが悪くないか?
「お前、もしかして何か知ってるのか? ちょっと教え――」
「しっ!」
いきなり智枝が口に人差し指を当てたので、俺の言葉は中途半端に切断された。
無音になった室内とは対照的に、ドアの向こうから廊下を走る足音が聞こえる。しかもかなり急いでいるらしく、両足が刻むテンポは速くて不規則だ。
俺を呼びに来たのか? それにしても慌て過ぎでは……。
段々大きくなる足音が俺の不安を増長させる。もしや何かトラブルでも起きたのか。
「――恭洋!」
ノックどころか、ドアそのものをぶち壊す勢いで豪快に現れたのは、手にスマホを握りしめながら肩で息をする絵理子だった。後ろには日向もいる。
どう見ても不吉なのは、二人揃って今にも泣き出しそうな顔をしていることだ。
「なんの騒ぎだ?」
恐る恐る聞くと、呼吸を整えた絵理子が真っ直ぐ俺を見つめた。
「楓花が……」
「ん?」
楓花?
「今病院から連絡があって、意識が回復したって!」
――俺と智枝はぽかんと口を開けて固まった。
手からスコアが滑り落ちる。
「今、なんて?」
聞き返すと、目にも留まらぬ速さで絵理子が俺に近づき胸ぐらを掴む。
「だから! 楓花が! 目を覚ましたの!」
「わかったわかった!」
前後に揺さぶられ、俺は情けない悲鳴を上げた。
信じられない報告に、俺は平衡感覚も感情もぐちゃぐちゃになる。
だが、こんなタイミングで目覚めるなんてあいつらしいと、冷静に考える自分もいた。
――開場まで、もう一時間を切っていた。
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