十三
喜ばしい知らせが立て続けに舞い込んだ。
一つは、梅雨が明けたということ。雨天が多く湿った空気の中では、楽器というのは気持ち良く演奏できない。それは管楽器だけでなく打楽器も一緒である。なんとなく呼吸も浅くなるので、身体への負担も大きいのだ。湿度そのものはそう変わらなくても、雨が降らないだけで環境はだいぶ改善される。
そしてもう一つは、野球部が危なげなく準々決勝に進んだことである。対戦相手は、こちらも順当に勝ち進んだ躑躅学園に決まった。
野球応援については輝子と話をした日に部員へ伝えていた。俺の独断で決めてしまったので、一人くらいは反対や不満を表明する者がいてもおかしくないと思ったのだが、むしろ彼らの方が乗り気だったのは予想外だった。
――海の日の前日の日曜日。三連休の中日ということもあり、準々決勝が開催される球場は多くの観客で埋め尽くされていた。
「恭洋、お願いだから熱中症で倒れないでよ」
吹奏楽部を引率する絵理子が、内野スタンドで演奏準備を始める部員達をぼうっと眺めていた俺に忠告した。俺のことが心配というよりは、もしも俺がいなくなって指揮を振る役目が回ってきたら嫌だからそういう言葉が出てくるのだ。「それはさすがにお前の被害妄想だろう」という指摘もあるかもしれないが、彼女からセリフと一緒に押しつけられたのが
「そういえば、日向ってお前のところに行ってるのか?」
部員達には聞こえないように小声で質問すると、絵理子は露骨に動揺しながら「さ、さあね?」と上ずった声を発した。あからさま過ぎて疑うのもバカバカしくなる。
「別に隠さなくたっていいだろ。そもそも俺なんかのところにいるより、お前の方が居心地は良い、だろうし……? いや、それはたいして変わらんか」
「おい無職」
「なんだよ」
「あなたと一緒にしないで」
「じゃあ、お前のところにいるんだな?」
「それは……」
どうも歯切れが悪い。いきなり「おい無職」などと持ち前の切れ味鋭い罵倒を見せたと思えば、途端に
合同演奏会の後もしばらく姿を消していた日向だが、結局今回も一週間以上は失踪している。
「私もしばらく見てないわ。そもそもこっちは夏休み前で忙しいの。あなたと違ってね」
「あー、はいはい。そんな超多忙の絵理子先生を引率に頼んでしまって申し訳ありませんね!」
「はあ!? というか、生徒と一緒になって引率されるあなたにプライドは無いの!?」
「そんなもん最初からある訳ねえだろ!」
「開き直らないでよ!」
「――あの。暑苦しいからいい加減にしてもらえませんか」
いつの間にかヒートアップしていた俺達に、最前列の玲香がブリザードみたいなオーラを出しながら割って入る。我に返ってバンド全体を見回すと、もう皆の準備は終わっていた。玲香と同じくらい冷ややかな視線が俺達に向いている。
「あー、なんだかだいぶ涼しい、な……」
「バカを言ってないで早く指示してください」
「はい……」
部員達の方がよっぽど大人だ。
絵理子はそのままパーカッションパートの後方に行ってしまった。簡単な救護スペースが
奏者達のウォーミングアップが始まると、応援団の声出しも同時に始まった。今日は一応「全校応援」という体なので、生徒や教諭も続々と集まってきた。たまたま目に入った理事長の渋川は、昔と変わらず親戚の叔父さんみたいな雰囲気でグラウンドを見つめていた。隣には汐田校長の姿もある。何故か俺と目が合うと、すぐに逸らされてしまった。もしかしたら美月のことを見ていたのかもしれない。なんだかんだ言って娘のことは気になるらしい。
プレイボールが午前十時ということで、気温が上がりきる前に応援ができるのは幸運であった。だが、空は雲一つ無い晴天が広がっており、直射日光は容赦無く襲いかかってくる。
「木管楽器はタオルを絶対外すなよー」
俺は指揮棒を取り出しながら前列の部員に指示を出した。マウスピースの下からフェイスタオルを被せて輪ゴムで留めている木管楽器の面々は、その姿だけ見れば全然格好良くないし演奏もしづらいので不憫ではある。しかし、とくに木管楽器はもともと日光に弱いので致し方無い。コンクール直前で楽器にトラブルが起きることは、絶対にあってはならないのだ。十年前の智枝の件があるので神経質にもなる。
「――よし。みんな準備はいいかー!」
柄にもなく大声を出すと、皆もいつもより大きく返事をした。
「今日は野外だ! 上品で綺麗な演奏なんていらないから、とにかく楽器を鳴らすこと!」
「はい!」
「音程も気にしなくていい! 多少音色が汚くなっても構わない! 一番大事なのは『選手の背中を押してあげること』だ! わかったな!」
「はい!」
やり取りだけ聞いているとまるで軍隊である。だが屋外においては、こうしたひとつひとつの指示や実際の演奏が「聞こえない」ことだけは避けなければならない。コンサートで観客の心に音を届けることを目指して活動してきたのが俺達だ。それならば、今日音を届けるべき相手は選手である。
「ただし、少しでも体調が悪くなったらすぐに絵理子のところへ避難すること! それから、守備中は必ず着席して休憩を取れよー!」
一通りの指示を終えた俺は、先ほど絵理子からもらったスポーツドリンクを飲んだ。温いことには目を瞑る。無いよりはマシだ。
反対側のスタンドには、躑躅学園の生徒が集まっている。ただ、意外なことに吹奏楽部の姿が見えない。
「なんだ、向こうは今日来ないんだ」
クラリネットの璃奈が口を尖らせながら呟く。
「ん? 来て欲しかったのか?」
「そりゃそうですよ」
「ふうん?」
恐らく躑躅学園はこの試合を落とすと思っていないのだろう。準決勝以降は吹奏楽部も登場するかもしれないが、どうやら今日は不参加のようだ。
「来週コンクールだしな」
「いや、地区大会ですよ? 弱小校ならともかく、躑躅学園なら絶対突破できるじゃないですか」
「学校によっていろんな考え方があるんだろ。俺達は俺達で、全力で応援すればいい」
「……はーい」
璃奈はまだ思うところがあるようだが、大人しくチューニングの用意を始めた。
たしかに躑躅学園の音は聞いてみたかったが、顧問である智枝が何を考えているかなどわかるはずも無い。璃奈がなぜ不満そうにしているか気になったものの、直後に試合開始前の場内アナウンスが響いたため、その小さな疑問はあっという間に俺の頭から消えた。
いよいよ試合開始である。
♭
翡翠館高校のチームスタイルは打ち勝つ野球らしく、安打は度々出るしチャンスもそれなりに来るので応援する側はけっこう白熱する。ただ、投手力とか守備力については完全に躑躅学園が上手だ。ノーガードの殴り合いみたいな試合展開になれば我が校にとって有利であっただろうが、躑躅学園の投手が要所で踏ん張るので、少しずつ点差が開いていく。
七回表にも失点を許した翡翠館高校は、次の攻撃で得点できないとコールドゲームが成立するところまで追い込まれていた。
これまで必死に応援を続けてきたスタンドにも、若干の諦めムードが漂っている。それは吹奏楽部の皆も同じだった。単純に疲労もあるだろう。屋外で長時間演奏するなど初めての経験だし、いくらスタミナがついたとは言っても消耗するスピードが屋内とは段違いだ。
引きこもりの俺も、体力は限界を迎えつつあった。今回の依頼を二つ返事で快諾したくせに情けない話だ――。
「この回はキャプテンに打順が回ってきます! もっと声を出していきましょう!!」
全く疲れを感じさせない応援団長の大声がスタンドいっぱいに響き渡った瞬間、弛緩した空気にほどよい緊張感が戻った。
……そうだ。俺は今日、なんのためにここへやって来たのだ。体力の乏しい自分が情けないのではない。そんな思考になっていることそのものが論外なのだ。
炎天下でも学ランを着てずっと大声を張り上げている応援団は、最後まで諦めていない。
それはもちろん、野球部のナインも同じことである。
「お前ら! この程度でへばるってことは、基礎練習がまだ全然足らないってことだよなあ!!」
ほとんど最後の力を振り絞る勢いで叫ぶと、皆は一斉に青い顔をして首を振った。
「じゃあ、まだまだフォルテシモでいけるよなあ!!」
「はあい!!」
一般の生徒がドン引きしているのが視界に入った。もうテンションが完全に運動部である。
「この回、絶対チャンスが来るから! お前らも盛り上げていくぞ!」
「はい!!」
何一つ根拠は無い鼓舞だ。しかし、試合前に俺自身が言ったように、もしもこの応援が選手の背中を押すのならば、彼らはチャンスという形で応えてくれると信じていた。
「ブラスバンドも気合いが入ったようなので! 皆さんも全力でお願いします!」
こちらの様子を見ていた応援団長が満面の笑みで叫ぶと、呼応するように歓声が上がった。
そしてこの大きな歓声は、見事にナインへ伝わることとなる。
先頭バッターが出塁すると、スタンドのボルテージはさらに上昇した。その後アウトカウントを重ねたものの、得点圏にランナーを残した状態で四番を打つキャプテンに打順が回ってきた。
――その、初球。力強いスイングでキャプテンが打ち返した白球は、バックスクリーン目がけて一直線に飛んでいく。躑躅学園のセンターは、早い段階で追うのを諦めていた。
起死回生のスリーランホームランであった。
応援席は今日一番の歓声に包まれていた。だが、周りと喜びを分かち合いたくても、吹奏楽部は休まずに演奏を続けなければならない。それでも、先ほどまでは疲労の色が見え隠れしていたサウンドは清涼感を取り戻した。
ダイヤモンドを一周したキャプテンに惜しみない拍手が送られる。これまでの試合を応援できなかった分、こうして実際に野球部が活躍している姿を見ることができたのは嬉しい限りである。スタンドに向かって右手の拳を突き上げるキャプテンは、最高に格好良かった。
「秋村さん、余所見してないでちゃんと指揮を振ってください!!」
アルトサックスの優一が声を張り上げたので、俺は慌ててバンドに向き直る。いつの間にか俺の方が集中を欠いていたらしい。
次の打者が三振に倒れたため攻撃は終了してしまったが、スタンドの熱気が冷めることはなかった。
――その後の両者は互いに譲らず、スコアが動くこと無く試合終了となった。優勝候補に対して一矢報いた翡翠館高校の野球部がスタンドに走ってくると、健闘を称えるように歓声と拍手が沸く。ナインの中には涙する者もいたが、キャプテンに続いて挨拶をする姿は凜々しく見えた。
病院でのコンサートで玲香が言っていたように、俺達は「非日常」を提供する側の存在だ。ただ今日に関して言えば、観客席を魅了していたのはもちろん野球部である。日常では絶対に味わえない興奮や感動を与えてくれた彼らの姿には、間違い無く俺達が目指すべきエンターテインメントと相通ずるものがあった。
「……よし! 今日の合奏練習は十五時から! それまでは楽器を吹かずしっかり休むこと!」
「はい!」
俺の指示が聞こえたのか、生徒や教諭の一部はぎょっとした顔をしていたが、むしろ「今日はもうオフです」などと言おうものなら三年生あたりが学校に居座って徹底抗戦の構えを取るだろう。最近は過激な行動こそ無いものの、武闘派の血が流れているのは事実だし、先輩達のそういう(真似して欲しくない)一面を感じ取った後輩が影響され始めているような気もする。
つまり、やりたいようにやらせてあげるべきということだ。幸い体調不良になった部員もいない。
球場の外に出ると、学校へ戻るバスが待機していた。
続々と乗り込んでいく部員達を眺めながら、ひとまず日陰で水分補給する。俺はライブコンサートの閉演後に似た心地の良い虚脱感に包まれていた。
「――あの!」
突然声を掛けられる。
「君は……」
走って俺の後を追ってきたのか、その人物は肩で息をしている。ひょろひょろの俺とは比べるまでもなく立派でがっちりとした体格と、精悍な顔つき。そして土汚れの目立つユニフォーム。
野球部のキャプテンが、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「今日はありがとうございました!」
突然頭を深々と下げられたので、俺は大人げもなく動揺した。
「ちょっと! 頭を上げてくれ! お礼を言いたいのはこっちの方だよ」
「……え?」
「ホームラン、本当に凄かった。最後まで諦めない君達から、俺もあいつらも勇気をもらったよ」
バスの方を見ながらそう答えると、キャプテンは「ありがとうございます!」と言って笑った。白い歯が眩しい。
「でも、俺らも本当に嬉しかったんです! あんな大応援は久しぶりだったので。ホームランを打てたのも、九回まで試合ができたのも、きっと皆さんのおかげです!」
嘘偽りやお世辞を言っているとは全く思えない素直な言葉は、一直線に俺の心へ染み込んだ。
「あの、俺、野球しかやってこなかったんで難しいことはわからないんですけど……。あなたが吹奏楽部を変えたんですか?」
いきなり予想だにしない質問が飛んできた。
「俺は、そんなにたいそうなことはしてないよ」
無難に答えても、キャプテンは不思議そうに俺を見ている。
「昔から、吹奏楽部ってめちゃくちゃ練習していて凄いなとは思ってたんです。下手したら運動部よりも学校にいるじゃないですか」
それは今の三年生がストイック過ぎるのだと思う。
「でも、その割には楽しそうじゃないっていうか。変な奴らだなって思ってたんです」
実際に変人集団なので何も言い返せない。
「それが、あの入学式の日の演奏はまるで別人だったことにびっくりして。今日もあんな生き生きと演奏してくれて、去年までとは全然違うと思ったので」
「……俺が変えたっていうのは、本当に自惚れだと思うよ。あいつらは自分で変わったんだ。誰のために音楽をするかっていうことに気づいたからな」
「誰のために……」
キャプテンは俺の言葉を咀嚼してから、納得したように微笑んだ。
「翡翠館ってグラウンドが無いので、いつも近くの練習場まで行き来してるんです。でも、学校を出発する前も、戻って来た後も、いつでも『音』が聞こえました。それが当たり前になると、俺達ももっと頑張らなきゃって、勝手に仲間意識まで芽生えてしまって。だから、今日スタンドから『音』を送ってもらって、俺達は平常心で試合に臨むことができたんだと思うんです」
「……それなら、良かった。本当に良かったよ」
もう俺は胸がいっぱいになってしまって、語彙力が一ミリもないコメントしか返せなかった。
――バスから、俺を呼ぶ声が響く。
「引き留めてしまってすいません! 俺も応援してるんで! 頑張ってください!」
「あっ、ちょっと……」
捲し立てるように言い残し、彼は再び球場内へ入っていった。わざわざ俺と話をしに来てくれた彼の背中はとても逞しく見えた。会話を交わしただけで感じ取れる真面目さと律儀さに、彼が主将となった一端が垣間見えた。そんな立派な人物から心のこもった言葉を掛けられて、今日の応援に参加した選択は決して間違っていなかったと思えた。
キャプテンは生命力とか命の輝き的な意味で次元の違う存在だな、と考えながらバスに乗る。昔の俺なら「自分みたいな死に損ないと比べるなんて失礼だ」などと卑屈なことを宣っていただろうが、そんな地縛霊みたいな俺の指揮するバンドの音をキャプテンが「生き生きしている」と評してくれたのは素直に嬉しかった。
……そういえば地縛霊で思い出したが、日向は本当にどこへ行ってしまったのだろう。
今日得た高揚感と、コンクールまで一週間を切った緊張感。そして失踪したままの日向に対する僅かな胸騒ぎ。
様々な俺の思いを乗せながら、バスは学校へと向かうのだった。
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