十二
とうとう七月に入った。今月の最後の日曜日にはコンクールの地区大会が開催される。
今日も放課後になるや、吹奏楽部の面々は空き教室でパート練習を始めている。時間が無いという焦りはさほど感じられず、ほどよい緊張感で練習に臨めているのは良い兆候だ。毎日のメニューを淡々とこなす部員達は、二ヶ月前に比べてだいぶスタミナもついた。
合奏練習が始まる前に、俺は久しぶりに生徒会室を訪れていた。
生徒会長の輝子は俺の差し入れたショートケーキをつつきながら、とある新聞記事に目を落としている。
「お前、そんなに行儀が悪いといろんな意味でまずいんじゃないか」
「うるさいですね。あなたしかいないんだからいいでしょう」
つまり、俺のような下等庶民に対して礼儀や作法は関係無いということだろうか。今この瞬間を動画に撮って拡散してやりたい。
というか、俺としてはここへの呼び出され方についても意見を申し上げたいところなのだ。
『いつの間にか校内に馴染んで、部外者だという自覚が皆無になってしまったOBの秋村さん。放課後、生徒会室に来て下さい』
昼休みの放送で実際にかかったアナウンスである。
「おかしいだろ!」
俺がつい怒鳴ると、口元にクリームをつけたまま輝子が首を傾げた。せっかく午後にプレストへ行って、わざわざケーキを調達してやったというのに、当然の権利のようにむしゃむしゃ食べているのがなんとなくむかつく。どういう教育を受けているんだと思った瞬間に、彼女の担任をしている某同級生の顔が浮かんだので、とても空しい気持ちになった。
生徒会とはしばらく接点が無かったものの、輝子は相変わらず昼休みの番組を続けているので疎遠という感じはあまりしない。部活の勧誘期間中は週に三回放送していた番組は、ゴールデンウィーク明けから週に二回のペースに減った。ただ、それでも充分に凄いと思う。
「いったいなんの御用でしょうか? 最近はとくに問題を起こしてないと思いますけどね」
「へえ? 中間試験の後、何人補習受けたんでしたっけ?」
敢えてへりくだった態度で聞いたのに、まるで容赦無く輝子は痛いところを指摘してきた。
「もう終わった話だろ。うるさい奴だな」
「あら、そんなこと言っていいんですか? 部活が存続したのは、私のおかげでもあるのに」
「お前、そんな恩着せがましい奴だったっけ」
たしかに、あの部活勧誘期間終了の日、吹奏楽部が廃部にならなかった背景で輝子の援護射撃が効いていたことは事実である。輝子はある意味一貫していたというか、部活紹介でも、お昼のインタビューでも吹奏楽部を他の部活と差別することなく扱ってくれた。
その点について感謝しているとはいえ、弱みを握っているような言われ方をされるのは心外である。
「はあ……。冗談ですよ」
自身が淹れた紅茶を一口飲んでから、輝子は肩を竦めた。
「ついこの間までお昼休みを地獄の時間に仕立て上げていた集団が、こんな素敵な記事の主役になるなんて思わないでしょう? 嫌味の一つも言いたくなるというものです」
読んでいた新聞を机に広げ、輝子は複雑な胸の内を漏らした。
そこにあったのは、先日の病院でのコンサートについて書かれた小さな記事だ。京祐が撮影してくれた写真がカラーで載っている。俺も中身は既に読んだ。大変賑わったことがよく伝わる内容だった。
「あの村崎さんが、笑っているんですよ? いったいどんな魔法を使ったんだか……」
魔法レベルでないと笑顔すら出せない淑乃がおかしいんじゃないか。
「私がどうして大変な思いをしながらお昼の番組を続けているか、あなたにわかりますか?」
輝子は急に話題を変えた。
「大変って……。好きでやってるんだろ? お似合いじゃないか。名実ともに学校の顔って奴だな。ははは――」
喋っている俺の太股を目がけて、輝子の強烈なローキックが放たれる。
「痛えな!」
「吟遊詩人みたいなあなたに能天気なセリフを吐かれたら、誰だって殺意くらい沸きますよ」
「……おいやっぱりこの学校おかしいぞ。人権が無いもん。治安を取り締まるはずの生徒会長の犯行動機が、三下のチンピラ並みだもん」
「郷に入っては郷に従えって言うでしょう? 生徒会長に舐めた口を利いたらシバかれて当然です」
「生麦事件かよ」
というか、俺はその「郷」の卒業生なのだが……。
「――こう見えても、私だってあまり派手なことはしたくなかったんですよ。父の目もありますから」
そういえば輝子の父親は翡翠館の理事だった。
「それでも、あんな暗黒の象徴みたいなコンサートを毎日開かれたら、みんな発狂しますよ。そもそも主催者は最初から狂った集団だし」
半年前の吹奏楽部が中庭で勝手に演奏したという件だろう。過ぎた話とはいえ、ボロクソにもほどがある。
「最終的に苦情が行き着いた先は生徒会でした。だから私がお昼の放送を始めたんです」
そんな経緯があったとは知らなかった。吹奏楽部の悪事を阻むことが目的でお昼の番組がスタートしたなんて、それではまるで輝子が被害者ではないか。とくに三年生達は、ただでさえ生徒会室の前でデモを開くような暴徒なのだから、輝子が吹奏楽部を嫌っても文句は言えない。
「まあ、始めてみたら案外楽しいですし、生徒からの印象も良くなったようですから、今となっては当時の恨みも笑い話で片付けられますけど」
今のが笑い話だとは全然思えないので、俺は頬を引き攣らせる。
「とにかく。この記事の内容が事実なら、生徒会長としては嬉しい限りです。あなた方を存続させた意義があるというものですから」
「それはどうも」
素直に褒められると調子が狂うけれど、わざわざ呼び出しておいてお礼だけで済むはずが無いだろうという邪推は消えない。
輝子はもう一度紅茶を飲んで、ゆっくり息を吐いた。
「さて」
思った通り、新聞を一枚めくった輝子が本題に入る。
「ここにはもう一つ、我が校の記事が載っていますね」
「ああ、知ってる」
目の前に広がるのは、吹奏楽部の記事よりもかなり大きな写真。
夏の高校野球の地区大会特集でピックアップされた、翡翠館高校野球部のナインが写っている。
「今年はけっこう期待しているんです。こうして注目されるくらいですしね」
野球部も過去に一度だけ甲子園に出場したことがある。ただ、吹奏楽部とまでは言わずとも、その後の成績は芳しくないようだ。
「あなた達にお願いがあるんです」
「わかった。受けるよ」
「野球部の応援を……え?」
「やるに決まってるだろ」
なんとなく予想はしていた。そのくらいのお願いならもったいぶる必要も無かったのに、輝子も変なところで真面目な奴だ。
「でも、そんな簡単に決めてしまっていいんですか? あなた達もコンクールが控えているでしょう」
「逆に、応援しないっていう選択肢が俺には無いんだが」
そう答えると輝子は目を丸くした。もちろん全試合に参加できる訳ではない。ただ、勝ち進んだなら全校応援だって組まれるだろうし、吹奏楽部が行かないという道理は無い。
「……そうですか。ではよろしくお願いします。三回戦までは平日の試合なので、準々決勝の試合を全校応援にするつもりです」
「わかった。そこまで進めるといいな」
野球応援だって、立派な「演奏機会」である。たいした理由もなく依頼を断るなんて、そんな殿様商売みたいな方針を掲げた覚えは無い。
新聞には先日の組み合わせ抽選会で決まったトーナメント表も載っている。準々決勝の日程は、コンクールの一週間前の日曜日だ。たしかに直前ではあるが、幸い試合が開催されるのは近隣の市営球場のようなので問題無い。それに、むしろ野外で長時間演奏することは、培われたスタミナを試す意味では良い練習にもなり得る。もちろん無理をさせるつもりはないけれど。
「もし順当に進むと、どこと対戦することになりそうなんだ?」
最近の高校野球事情に疎い俺が質問すると、輝子もトーナメント表を覗き込んだ。彼女は高校生とは思えないくらい小柄なので、なんだかお父さんと娘みたいな感じになる。あんまりそういうことを言うと犯罪者呼ばわりされるだろうか。
「おそらく、大本命はこの学校でしょうね」
「……うわ」
思わず声が漏れてしまった。
輝子が指したのは、トーナメント表の一番隅に書かれたシード枠――躑躅学園である。
「勝てそうなのか?」
重ねて尋ねると、輝子は俺を見上げながら曖昧に微笑んだ。
「そりゃ、勝って欲しいですけどね……。躑躅学園は第一シードで、今年の優勝候補です。せめて反対側の組にいれば、あるいは決勝まで行けたかもしれませんが……」
くじ運が悪いのは吹奏楽部だけではないようだ。
「まあ、逆に言えば、躑躅学園に勝てればそのままの勢いで優勝できるかもしれないってことだろ?」
「……驚きました。あなたからそんなポジティブな言葉が出るなんて」
「俺はいったいどういう印象なんだよ」
「死神」
「その呼称はマジでトラウマだからやめろ」
俺が口を尖らせると、輝子はくすくす笑いながら新聞から離れた。
「では、お互い野球部の健闘を祈りましょう。ケーキ、ごちそうさまでした」
口元のクリームをぺろりと拭いながら、輝子は会話を締めた。姿だけ見ると小学生なのだが、それに触れるのはタブーだと以前玲香から警告されたことを思い出す。
「じゃあ、詳細がわかったらまた教えてくれ」
余計なことは言わずそのまま生徒会室を後にした俺は、真っ直ぐ講堂へ向かう。
他の部活も頑張っているのだから、俺達も休んでいる暇など無い。
♭
「秋村さん、マーチってどんな演奏を参考にすればいいんですか?」
「自衛隊の音楽隊だな。とくに、観閲式とかのやつ」
「秋村さん、タンギングを上達させたいんですけど」
「それならバスクラリネットの先輩に聞いてみなさい。あいつ俺より上手いから」
「秋村さん、淑乃先輩の目つきが怖くて息が苦しいです」
「睨み返してやるくらいのメンタルがあれば本番も絶対失敗しないぞ」
「秋村さん、萌波先輩と美月先輩が二人の世界を作ってるので話し掛けづらいです」
「……練習が終わったらキツく言っておくから、気にせずに言いたいことを言いなさい」
「ちょっとあんた? ホルンパートの練習指導のスケジュールがフルートと被ってるんだけど?」
「秋村さん。また絵理子先生がこっそりタバコ吸ってるみたいなんですけど、大丈夫ですかね」
「秋村さん! 黒星さんは次いつ来てくれるんですか!?」
「ねえ、恭洋。いい加減免許くらい取ってくれない?」
「――あああああああああ!!!」
講堂の中で俺は絶叫した。
この建物の唯一の欠点は通気性の悪さだ。梅雨のジメジメした湿気と、じっとしていも汗が噴き出る気温にストレスを感じていたところに、次から次へと部員からの(わりとどうでもいい)意見が飛んでくるので、もともと対人能力の低い俺はあっという間に発狂した。
ホルンパートの云々、くらいからまともに返事すらしていない。というか、最後の某顧問に至ってはもはや嫌がらせとしか思えないのだが、いったいどういうつもりなんだ。禁煙しろ。
「いやあ、コンクール直前って感じだねえ」
「どこがだよ!」
ようやく解放されて一人きりになった俺を見て、呑気な感想を述べたのは日向である。まともな質問など、最初の二つくらいだったのだが。
「あんたが何度も言ったんでしょ? 『俺とお前らは対等だ。なんでも言ってくれ』って」
「それはまあ、そうだけど」
「口が達者になるっていうのは、それだけ内心にも不安があるってことじゃん。とくに二、三年生は去年のコンクールのこともあるしね」
日向の言うことはもっともだし、実際言葉に出してくれるだけ良いことかもしれない。俺に耐性が無いだけで。
「期末試験はなんとかみんなパスできたんだよね? 部活に集中できているからこそ、いろいろと目につくんでしょ」
「本当、それに関してはヒヤヒヤしたけどな」
今回ばかりは、俺も試験期間中の登校を控えた。中間試験で補習に引っ掛かった面々も、同じ過ちを繰り返すとコンクールの出演すら取り消されるのではないかと考えたようで、必死に勉強したらしい。一番の懸念であった淑乃のみ追試を受けることになったのは肝を冷やしたが、なんとか合格ラインの点数は死守したので補習対象者が出るという最悪の結末だけは免れた。
「コンクールの地区大会、突破できそう?」
「……京祐の話を聞く限り、よっぽど本番でやらかさない限りは大丈夫っぽいな」
日向の疑問に対して、俺は罪悪感を抱えながら答えた。
先月の合同演奏会で俺がした失敗は、演奏に関してだけではなかった。失望したままノコノコと会場を去った俺は、大バカ者の極みとしか表現できない。散々自分でも言ってきたように、合同演奏会は前哨戦という意味合いを持つのだから、少なくとも俺は他校のサウンドを聞いておくべきだったのだ。むしろこちらの失態の方が、演奏そのものよりもよっぽどひどい。
「まあ地区大会は、半分は県大会へ抜けられるからな」
吹奏楽連盟の規定や昨年のプログラムを確認し、地区大会へ出場する十四校のうち七校が地区代表に選ばれることは既に知っている。京祐曰く、躑躅学園が頭一つ抜き出ているものの、他の学校はほとんど横並びのようだ。翡翠館が本領を発揮すれば問題無いと太鼓判を押されている。
「正直、みんなの執念は凄まじいよ。三年生はともかく、後輩達もな。『幻想交響曲』の合奏練習を見ればなんとなくわかるだろ?」
「そうだね……」
彼らの演奏は、日に日に狂気を増していた。スタミナがつくということは、各自の出せる音量の幅が増えるということでもある。その分、各自が魔界の宴を表現しようと本気で演奏してくるので、こちらもかなり消耗するのだ。
「あまり良い喩えじゃないけど、みんな命を削りながら練習してる感じだよ」
「……それはちょっと不気味だね」
「三年生がそういう空気なのは、なんとなくわかるんだけどさ。後輩達がそれに影響されているのが意外というか」
「まあ、みんなが同じ方向に進んでいるのは良いことなんじゃないの?」
「ああ……」
言われてみれば、俺が現役時代に『幻想』を練習していた時の雰囲気も似ていたかもしれない。楽章は違えど、やはりこの楽曲には何かがある。
「あんた自身はどうなの? メンタルが綿飴なんでしょ? 暑くなってきたし、もう溶けて無くなってるんじゃない?」
「無くなってたらとっくに引きこもってるだろ」
楓花に対する罪悪感が薄れる訳は無いし、智枝のことだって現実逃避しているだけだ。だが、もう俺が何を思ったところで引き下がれないところまで来ているのだから、メンタルがどうとか言っている場合ではない。
今でもプレストのマスターや理事長の渋川は、顔を合わす度に応援の言葉を掛けてくれる。生徒会長の輝子だって、俺達の活動を認めた上で野球応援の協力を要請してくれたのだ。京祐は忙しい中で可能な限り協力してくれるし、絵理子も当初は「吹奏楽部の末路を見守るだけ」などと言っていたが、少なくとも俺以外にはまともに接しているしパーカッションパートのレベルは格段に向上した。
合同演奏会の後に京祐から怒鳴りつけられたように、俺が吹奏楽部に携わってから起きているトラブルは、どんなバンドでも起こりえる範疇の出来事だ。そもそも廃部にすらなりかけていたことを思えば、むしろ些末な問題と言えるかもしれない。
「あっそ。それならしばらくは大丈夫そうだね」
そう呟いた日向は、俺に背を向けて講堂の出口へと向かう。
「おい。どこへ行くんだ?」
ちょうど逆光になって、彼女の姿がひどくぼやけて見える。
「んー。ちょっと旅に、ね」
日向は振り返ることもなく、冗談めいた口調で返事をした。
――なんだか胸騒ぎがする。このまま日向が陽炎の中に溶けていってしまうのではないかと、儚い光景が目に浮かんだ。
「もうすぐ合奏練習だぞ!」
大声で呼び掛けたが、日向は右手を軽く挙げて応えただけで、そのまま外に出て行ってしまった。
「……秋村さん? どうかしたんですか?」
入れ替わるようにやって来た玲香が、どう見ても不審者でしかない俺に怪訝な視線を向ける。
「い、いや、なんでもない」
「そうですか」
現れたのが、あまり他者に関心のない玲香で良かった(部長という意味ではあまりよろしくないが)。
そのまま続々と部員が集合し始めたので、俺も一旦日向のことは頭の片隅に置く。神出鬼没なあいつのことだから、練習が終わる頃にふらっと登場するのだろう。
――その時の俺は、たいして深くも考えず目の前の合奏練習に集中した。
だが、日向は練習後どころか、その後数日経っても俺の前に姿を見せることはなかった。
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