十一
「あの病院で? 運命じみたこともあるんだね」
コンサート当日の午後。講堂で楽譜の整理をしていた俺に声を掛けたのは、数日間失踪していた日向である。
「京祐が企画してくれたらしい」
「ふうん」
平日のため、部員達はまだ授業を受けている。ホームルームが終わり次第、準備をしてすぐに病院へ向かう手はずだ。幸い、学校側がマイクロバス等を手配してくれた。距離が近いとはいえ、纏まって行動できるに越したことは無いのでありがたい限りである。
「で、お前は今まで何をしていたんだ?」
てっきり日向はこの間の演奏会の失敗に激怒しているのかと思ったのだが、別段そういった様子でもない。今日再び『メリー・ウィドウ』を演奏することを教えても、「そうなんだ」と淡白な答えが返ってきただけであった。
「……別に。ちょっと旅してた」
誤魔化すにしても、もうちょっとまともなことは言えないのだろうか。
「まあ、でも良かったよ。みんなすっかり落ち込んでいると思ってたからさ」
「それも京祐のおかげだ」
もともと、楓花が入院するあの総合病院には京祐も度々見舞いに訪れていた。訪問を重ねるうちに看護師達とも顔見知りになり、自らが新聞記者であることなども話すようになったらしい。あの病院は市内で最も大きく患者の数も多いが、小児病棟には長く入院する子どももそれなりにいるようだ。病院のだだっ広いロビーを有効活用できないか看護師達が考えていたところに、京祐がコンサートの打診をしたのが今回のきっかけである。
そんな大切な機会を俺達に与えてくれた彼には頭が上がらない。
「お姉ちゃん、起きないかなあ」
床に寝転がりながら、日向がぽつりと言った。
楓花のことを思うと胸が締めつけられるのは相変わらずだが、今日は本番当日である。この間と同じ失敗をする訳にはいかないのだ。
「俺達の演奏で、目が覚めるといいな」
柄にもなくポジティブなことを言う俺に、日向は顔だけこちらに向けて「そうだね」と微笑んだ。
「で、合同演奏会は何が原因で失敗したの?」
「……なんだよ。結局それを聞くのか」
敢えて触れずにいるのかと思った俺が甘かったようだ。
「いや、ちょっとミスしたくらいなら流そうと思ったけど、あまりにもボロボロだったから」
傷口に塩を塗るようなコメントに、頭が痛くなる。
「指揮者の俺が情緒不安定だったからだ。みんなには悪いことをした」
現役時代の後輩である智枝との再会について話をすると、日向は顔を曇らせた。
「あの躑躅学園の顧問って、お姉ちゃんの後輩だったんだ」
「まあ、そうなるな」
「じゃあ、あたしのことも知ってたと思うんだけどな」
「どうだろうな」
少なくとも絵理子は智枝のことを把握していたようだが、智枝の方から翡翠館に接触することは無いと思う。日向が亡くなっていることも、智枝は関知していないかもしれない。
「正直、また顔を合わせてもまともに会話ができるとは思えない」
「何を情けないこと言ってんの? コンクールで会うじゃん」
「それはそうだが……」
日向は呆れた目をするが、俺のメンタルの強度が綿飴くらい弱いのは今に始まった話ではない。
「でも、その人さ。どういうつもりなんだろう?」
「何が?」
「いや、だってあんたは当時その人を突き落としてなんかいないんでしょ? 楽器は壊しちゃったかもしれないけど」
「ああ、もちろん」
「だったら、あんたの疑いを確実に晴らせるのは、その人だったってことじゃん」
「……そうだな。でも、智枝は大怪我をしたから、俺がいなくなるまで部活には顔を出さなかったんだよ」
「それにしたってさ。今になっても恨み骨髄みたいな感じなのは、なんか変じゃない?」
当事者でない日向は、智枝の態度に納得がいかないのだろう。しかし、全国大会に出場できなかったという点で俺と智枝は同じ立場だ。どれほど彼女が悔しい思いをしたか、想像に難くない。
「この間会ったのも、智枝の事故が起きた日以来だしな」
「そっか……」
やはり過去の話は胸が苦しくなるばかりだ。
「そういや、絵理子には会ったか?」
「うん。さっき職員室に行ってきた」
「どうだった?」
「どうって? 別にいつもと変わらないよ」
すっかり体調が良くなったようで安心した。合同演奏会では、あいつがいなければトランペットパートは楽譜通りに演奏をすることができなかった訳で、本当に感謝している。だからこそ、演奏そのものがめちゃくちゃだったことは申し訳無い極みなのだが。
「でも、今日って淑乃が指揮するんでしょ? めちゃくちゃ心配なんだけど」
絵理子から聞いたのか、日向が心底不安そうに尋ねてきた。
そう。今日は淑乃も指揮棒を振るのだ。
先日、あの姉弟と話をした後に淑乃からお願いされたのである。『メリー・ウィドウ』はともかく、他の曲は自分に指揮を振らせてもらえないか、と。
「あの子、どうしてそんなこと……」
「もう機会も無いだろうし、本番の演奏を指揮することで今後の基礎合奏にも活かせることがあると思うって言われたけどな」
たしかに、俺が関わるまでは対外演奏が禁止されていたし、もうこのコンサートが終わればコンクールだ。文化祭や定期演奏会の前に代替わりで役員が引き継がれることを考えると、淑乃が生徒指揮者として本番を迎えられる機会は、今日で最後かもしれない。
「それに、あいつが指揮するのは全部ポップスだからな。そんなに難しい曲も無いし、大丈夫だろ」
本番が成功するかどうかは楽曲の難易度どうこうではない、ということは淑乃も当然わかっているだろう。それでも、前向きな理由で、彼女自身がやりたいと申し出て指揮を振るのであれば、素直に送り出してあげるのが俺の役目だと思う。
「まあ、だからこそ一曲目の『メリー・ウィドウ』は、失敗が許されない訳だが」
「……大丈夫なの?」
「さあな」
「おい。こっちは真剣に聞いてんだぞ」
沸点を超えると口が悪くなるのは、日向の癖だ。まあ、沸点そのものがそう低くないし、口が悪くなるくらいならたいした問題ではない。どこぞのジエチルエーテル女とは違う。
「――それ、まさか私のことじゃないわよね?」
「ぎゃああああ」
いつの間にか背後に忍び寄っていたのは、ジエチル……絵理子だった。
「……お前、知ってるか? そうやって驚かせてもし被害者が心臓発作を起こしたら、下手すりゃ殺人罪になるんだぞ」
「本当?」
知らないけど。
「私を脅すつもり?」
「そのセリフが脅しだと思うんですが」
自分で言っておいてなんだが、この女ならもっと直接的な犯行を企図するだろう。今までの言動を振り返ればすぐわかることだ。
「ははは。本当に不協和音だなあ」
全くこの場の空気にそぐわない牧歌的な声を上げたのは、講堂の入口に立つ京祐である。
「もうホームルームの時間だろ? 先に楽器の積み込みをしておこうと思ってな」
どうやら二人は手伝いに来てくれたようだ。絵理子に「なんの用だ」とか言わなくて良かった。
「絵理子は、自分のクラスのことは大丈夫なのか?」
「私がいなくたってどうにでもなるのよ」
「それ、全然大丈夫じゃないだろ!」
冗談なのだろうが、真顔なのでリアクションに困る。日向は笑っているけれど、俺が笑ったら刺されそうだ。
「手配したトラックがもう来ているから、お前も早く準備しろ」
京祐が俺に声を掛けると、絵理子は何も言わずにパーカッションパートの方へ行ってしまった。
「あ、ああ。すぐ行く」
朝の練習後に講堂へ移しておいた部員達の楽器を持った俺は、手際良くトラックへ積んでいく。何往復かしていると、部員達も続々と集まり始めた。
「――よし、じゃあ行くか!」
出発の準備が終わると同時に明るく号令を掛ける京祐の姿は、まるで顧問のようである。
本当の顧問は、隅でぽつんと俺達を見ていた。保護者か。
「絵理子先生も、行きますよ」
「え、ええ……」
パーカッションのパートリーダーである紅葉が絵理子の手を掴み、バスへと向かっていく。
部員達の顔つきは、先日の演奏会の前とは全く違う。
「秋村さんが、焚きつけてくれたんですか」
ふいに質問を飛ばしてきたのは、笑顔でバスに乗り込む皆を見つめる玲香だ。その視線の先には、トランペットパートの後輩に「今度はちゃんとミュート持った?」と意地悪く冗談を言う淑乃の姿があった。
「俺は何もしてないよ。あいつ自身が、自分のことを認めてあげただけだ」
「……そうですか」
今日までの基礎合奏を俺も見学していたが、淑乃はバンドに対してけっこうキツいことも言っていた。しかし、それは本気であることの証明でもあった。彼女は俺が皆の前で指示した通り、「人」にではなく「音」への指摘しかしなかった。だからこそ、部員達も真剣に淑乃へ意見をぶつけた。
全ては、今日の本番でお客さんに喜んでもらう音を作るために。
「淑乃に基礎を任せると秋村さんが言った時、正直かなり不安でした。でも、杞憂だったみたいです」
「それは良かった」
日向が生きていたとしても、生徒指揮者には玲香でなく淑乃が選ばれたのだと思う。玲香もそれがわかっているからこそ、生徒指揮者としての仕事を全うする淑乃の姿を見て安堵しているのだろう。
「ちょっと! あんた達も早く乗りなさいよ」
窓を開けた淑乃が、いつものように機嫌悪そうな顔をしながら声を上げた。
「はいはい」
小走りでバスへ向かう俺と玲香が無意識に苦笑してしまったのは、淑乃の声が少し弾んでいたからに違いない。
♭
退院した時にも感じたが、この病院のロビーは本当に広い。とはいえ、あくまで
客席には、病室を抜けてきた子ども達を中心に多くの聴衆が集まっていた。控え室など無い今回のコンサートでは、楽器の準備も聴衆の前で行う。部員達がケースから取り出す楽器を見た子ども達は、病気を抱えているとは思えないくらい目を輝かせながら「かっけー!」と元気な声を上げた。
「皆さん、今日はこのような舞台を用意してくださり、本当にありがとうございます」
設営中にアナウンスを行う玲香を見ていると、部活紹介のことを思い出す。あの頃は対外演奏すらできなかったことを思うと、期待した目を玲香に向ける聴衆達の姿に胸が温かくなる。
「――私達は今日、皆さんへ『非日常のひととき』をプレゼントするためにやってきました。変わらない日常も、とてもありがたいものです。でも、そんな日常のどこかで思い出していただけるような、皆さんにとって特別になる演奏ができれば嬉しいです。短い時間ですが、よろしくお願い致します」
玲香がお辞儀すると、拍手が沸いた。
舞台の準備も整ったようだ。クラリネットの璃奈が出す基準音に続いて、チューニングが始まる。今日の璃奈の音は、全くブレていない。俺が手を挙げて音が消えると、ロビーは独特の緊張感に包まれた。
「一曲目は、『非日常』というテーマにぴったりの『メリー・ウィドウセレクション』をお届けします。パリのお金持ちや貴族達が繰り広げるラブコメディに添えられた名曲の数々を、どうぞお楽しみください」
アナウンスを終えた玲香が着席する。
――大丈夫。今日は手が震えていない。奏者達も、俺が指揮棒を構えるのを穏やかに待っている。その顔に、不安の色は見えない。
俺が右手を挙げると、全員が素早く楽器を構えた。
一体となったブレスのスピード感に心地良さを覚えると同時に、目映いばかりの序曲が始まった。
今日は押しつけがましいフォルテシモではない。喜劇の幕開けに相応しいキラキラした音が、ロビーを満たしていく。
今回は指揮台や後列の雛壇がないため、俺も含めた全員がフラットな隊形である。もちろん、それは客席も同じだ。聴衆と同じ目線で楽曲を奏でる奏者達の音は、しっかり俺を通過していった。ついこの間、ステージの上で右往左往していたバンドと同じには見えない。
そして、中間部の『ヴィリアの歌』が訪れる。実はこの部分に関しては、今日のこの演奏のためにアレンジを加えることにした。鍵盤打楽器達のアンサンブルが奏でられる箇所を、トランペットのソロへと変更したのだ。担当するのは、もちろん淑乃である。
金管楽器特有の真っ直ぐな力強い発音と、柔らかい響きを纏う伸び伸びしたメロディー。何度も鍛錬を重ねた名刀のような剛柔を併せ持つ音色は、高校生らしからぬ肺活量にも支えられ、息の長い『ヴィリアの歌』のフレーズの最後の一音まで、この空間にいる全ての者を魅了させた。何より、高音の滑らかさは見事としか言えなかった。普段から最高音域でのロングトーンをしているからだろうが、音程も完璧である。
そして、ハッピーエンドに向かって再び走り出した演奏は、一糸乱れることなくフィナーレを迎えた。
「わあ!」
「すごーい!!」
客席の前に陣取る子ども達が、一生懸命拍手をしている。後ろで見守る大人も、笑顔で拍手を送っていた。
それだけで、もう充分報われた気がした。
目を輝かせている子ども達を見ると、十年前のコンサートがフラッシュバックする。俺が指揮を振った、小学校での招待演奏。日向や玲香達が翡翠館高校吹奏楽部に憧れを抱いた、あの日の演奏が思い出された。
そしてこの後に指揮を振るのは、当時の俺と同じく生徒指揮者の淑乃である。楽器を椅子の上に置いた彼女が、そのまま俺の元へやってきた。
俺が自らの指揮棒を淑乃へ預けると、彼女は真っ直ぐ俺を見返しながらしっかりと頷いた。その頼もしさに、つい笑みが零れる。
俺は客席へ一礼し、その場を離れた。
――コンサートが始まった時よりも、聴衆の数は増えていた。
人だかりの中で、俺は自信満々にポップスを演奏する部員達と、手拍子で場を盛り上げる観客の姿を静かに見つめていた。流行のアニメやアイドルの楽曲を聞いた子ども達は、大はしゃぎである。
「……昔を思い出すな」
「ああ」
いつの間にか隣に立っている京祐が、静かに呟いた。
「生徒指揮者も、様になってるじゃないか」
「あいつが今日に懸ける意気込みは、凄まじかったからな。さっきのソロを聞けば、それもわかるだろう?」
「ははは。たしかにあれは、笑えるくらい上手だったな。当時の楓花よりもレベルが高いんじゃないか?」
「そうかもな」
指揮棒を一生懸命振りながら、淑乃は笑っていた。あの、いつでも不機嫌そうなオーラを振りまく淑乃が、である。
「奇跡が起きて、今この瞬間に楓花が起きればいいのになあ」
京祐が、日向みたいなことをしみじみと言った。ちなみに日向はバンドに近い場所で演奏を聞いている。子ども達と一緒になってはしゃいでいるのが、なんとなく微笑ましい。
「きっと、楓花にも届いているさ」
俺は気休めみたいな言葉しか返せなかった。それでも、今日のような演奏を続けていけば、いつかきっと楓花も目を覚ますのではないかと思えるくらい、目の前で繰り広げられる演奏は素晴らしかった。
「――あの、もしかして秋村さんですか?」
不意に背後から名前を呼ばれる。反射的に振り向くと、俺よりも年上と思しき、白衣を着た女性が立っていた。
「
名乗られてから数秒間、俺はぽかんと硬直してしまった。
「……あ! いつもお世話になってます!」
意味のわからない挨拶をすると、和美は柔和な表情を浮かべたまま「お世話になっているのはこちらです」と苦笑した。
「すいません、こいつ社会不適合者なので」
「おい」
全くフォローになっていないセリフを吐いた京祐を肘で小突く。
「仲良しなんですね」
優雅に微笑む和美の顔は、指揮を振りながら笑う淑乃と同じ面影を感じさせた。
「俺が今日のコンサートのことでいろいろ相談していたのが、和美さんなんだ」
「そうだったんですか」
「はい。私も音楽をやっていた端くれとして、黒星さんの提案に魅力を感じまして。初めてのことなので不安もありましたけど……。あなたたちを招待して本当に良かった」
もったいない言葉に、俺は喜ぶよりも先に狼狽えてしまった。
「前の夫に先立たれてから、私は仕事ばっかりになってしまって。淑乃には不憫な思いをさせました」
遠い目をする和美の話を聞いて、俺は淑乃が語った昔話を思い出す。
「小学生のあの子が私のトランペットを押し入れから発掘してきた時には驚きましたよ。『これやりたい!』って、目を輝かせながら言うあの子の笑顔が、ずっと私の宝物なんです」
「そう、ですか……」
「その後、いろいろつらいこともありましたけどね。でも、今日あんな立派な『メリー・ウィドウ』を聞けて幸せです。本当にありがとうございます」
「俺は何もしていませんよ」
「またまた。淑乃も董弥も、家ではあなたのことばっかり話すんですよ。凄い人が翡翠館に来てくれたって」
俺は、どう反応したらいいかわからなかった。
「全国大会に行ったなんて、尊敬しちゃいます」
「あー、実際に出演したのはこいつですけどね」
京祐を指しながら補足したが「あら、そうなんですか」と和美は軽く流した。
プログラムは順調に進行している。
「――秋村さんは、『芸術療法』って聞いたことありますか?」
唐突に和美から質問された。
「いえ、初めて聞きました」
「芸術を通して、心の健康を回復することを目的とした療法です。音楽はもちろん、絵画や工芸、ダンスでも、なんでもいいんですけどね」
「へえ」
「患者自身が芸術表現をするのが本来の意味なんですけど、私は芸術に触れるだけでも効果はあるって思うんです」
子ども達を見ながら、和美は確信を持ったように力強く言った。
「だから、本当に感謝してるんですよ。こんな素敵な『非日常』の時間を届けてくれて」
俺には難しいことはよくわからない。だが、和美の言葉はじんわりと心の奥まで広がっていく。
「とんでもありません。こちらこそ、お招きいただきありがとうございました。おかげで、大切なことをもう一度思い出すことができました」
俺達が目指しているのは、難易度の高い楽曲を演奏することでも、ノーミスで完奏することでもない。音楽で聴衆を幸せにすることなのだ。それこそが、かつての『エメラルド』のサウンドなのだから。
「ふふふっ」
何もおかしなことは言っていないつもりだが、和美はいきなり笑い始めた。
「すいません。ついこの間、栄養失調で運び込まれた急患と同じ人だとは思えなくて」
「……その節はご迷惑をお掛けしました」
入院中に和美と会った記憶はないが、どうせ俺の風貌が悪いから目立っていたのだろう。退院の日に楓花の病室にいたせいで失踪者扱いされたのも、噂になっているのかもしれない。
「いえいえ。あなたも、音楽に救われたんですね」
指揮を振る淑乃を見つめながら、なんでもないことのように呟いた和美のセリフは、アンコールが終わっても俺の頭の中に響き続けていた。
「――ありがとうございました!」
玲香に続いて部員達が大きな声を上げると、ロビーは拍手に包まれた。
「おねえちゃんたち、ありがとー!」
淑乃の目の前にいた女の子の可愛らしい声が聞こえる。すると、淑乃がその子の前にしゃがんで、何か言葉を掛けながら頭を撫でた。
「いい記事が書けそうだ」
その光景を写真に収めながら、京祐が満足そうに言った。
「秋村さん。これからもあの子達のこと、よろしくお願いしますね」
「あ、はい! 頑張ります!」
和美は最後に優しく微笑んで、エレベーターへ向かっていった。
楽器や譜面台を片付ける部員達のもとには、演奏を聞いた人達が労いの言葉を掛けていた。お礼を返す彼らの表情は、充実感に満ちている。
京祐と絵理子は、看護師達と談笑していた。
「――こんな景色を、いつかお姉ちゃんも見られるといいね」
「……ああ」
一人佇む俺の隣に寄ってきた日向は、和美が乗り込んだエレベーターに視線を送っている。日向と一緒に楓花のところへ出向いたのが、今ではもう懐かしい。たしかあの時は、まだ日向が幽霊だなんて知らなかったおかげで、精神科を斡旋されたような記憶がある。あまりにろくでもない思い出なので笑えてくる。
「今日はお見舞いに行かないの?」
「……まだ早いよ。もっと自信を持って報告できる時が来たら、胸を張って行くさ」
「……あっそ」
逃げている、と言われればそれまでだ。しかし、俺が吐露した言葉は偽りじゃない。楓花も「エメラルド」の復活を待っているのだろう。それならば、こんな中途半端な状態で会っても「出直してこい!」と尻を叩かれそうなものである。少なくとも、楓花がそういう性格であることを、俺はよく知っている。
日向もそれがわかっているからか、追求は無かった。
――演奏会を終えた俺達は、いよいよコンクールに向かって走り始める。
夏は、もうすぐそこまで迫っていた。
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