十
しばらく『メリー・ウィドウ』に囚われていたのですっかり影が薄くなってしまったが、もちろん自由曲である『幻想交響曲』にもしっかり取り組んでいる。むしろこの楽曲への熱量に関しては凄まじいものがある。指揮者の俺が、というより、部員達が何かに取り憑かれたようにひたすら練習しているのだ。「毎日欠かさず音源を聞くように」という指示は守られているようだが、むしろ聞けば聞くほど中毒化している気がする。やはりこの楽曲には麻薬じみた恐ろしさがある。
もともと頭のネジが外れている三年生はともかく、下級生達も目を血走らせながら楽譜を追っているので、雰囲気だけは本当に悪夢の中のようだ。もちろんまだまだ荒削りだが、事件性皆無の平和的な
基礎合奏練習の時間を増やす決断をしたのは、『幻想交響曲』という大曲にも負けないサウンドを作るためでもある。以前、理事長の渋川から編成人数について質問があった際は「四十人程度いれば」と答えたが、頭数だけ揃えたところで意味は無い。とくに『幻想』のような、もともとが大編成オーケストラの曲を今の翡翠館の人数で演奏するなら、一人ひとりの奏者が精鋭になる必要がある。音量、音程、音圧、さらに音色。これを磨くのは、基礎練習でしかできない。
頼もしいことに彼らはこの難曲としっかり対峙し、合奏練習でも完奏できるまでには至っていた。譜面が拾えていないのでは話にならないと言われてしまえばそれまでだが、入部して日の浅い下級生がその域に達しているのは立派なことである。
「じゃあ次のコンサートも『幻想』でいいじゃん」
休日練習の昼休み。音楽準備室で休憩中の俺のもとを訪れている淑乃が、突然意味不明なことを言い始めた。
「いい訳ねえだろ。『幻想』をやってる時のお前らって、俺が見ても怖いんだよ。次のコンサートは病院だろ?」
「うん」
それがどうした、くらいの目をしている彼女は、まあ平常運転と言えばそうなのだが、あまりに短絡的過ぎる。
「『ワルプルギス』だぞ? 縁起が悪いどころの騒ぎじゃねえよ!」
具体的には主人公がギロチンされた後の魔界である。病院で演奏するなんて、俺にはそんな挑戦的なことをする度胸など無い。
俺の言うことが理解できたのか(してもらわないと困るが)、淑乃は不満そうな顔をしているものの反論はしてこなかった。
「……そんなに『メリー・ウィドウ』が嫌なのか?」
曲名を出すと、途端に淑乃の目から光が消える。結局、彼女がここにやって来た目的はプログラム変更の打診なのだろう。
「お前さ。あんまりキツいこと言いたくないけど、いい加減にしろよ?」
怒気は隠してなるべく柔らかい口調を心掛けたが、セリフの内容はどうしたって厳しくなる。
「……ごめんなさい」
普段なら逆上しそうな場面なのに、彼女はしおらしく俯いた。
「わがままだってことくらいわかってる。でも、いざ楽譜を前にするとどうしてもダメなの。息がうまく吸えないの!」
涙を浮かべながらそう叫んだ淑乃の必死な様子に、俺はみっともなく狼狽えた。
「この前の演奏会で失敗したからか? そんなの、全員トラウマになって――」
「違う!」
まるで大人とは思えないくらい、俺には今の淑乃が手に負えない。
「……『メリー・ウィドウ』は、中学校で最後に演奏した自由曲なの」
「そう、だったのか……」
最後ということは、三年生の時だろう。
「私、中学時代って虐められてたんだけど」
脈絡の無い衝撃的な告白が俺を襲う。
「吹奏楽部には、しがみついてた。でも『メリー・ウィドウ』をやることに決まったら、もっとつらくなった」
「……どうして?」
以前に董弥から聞いたことを踏まえれば、おおよその見当はつく。
だが、もし俺の予想が当たっているとしたら、中学生の淑乃にとってあまりにも惨いことだ。
「私は昔から無愛想で、友達もいなくて、頭も悪い。せっかく部活に入っているのに、協調性も無い。虐められても文句は言えないと思う。でも、私がそんな人間になったのは、父親がいないからだって、みんなそう言った」
真っ暗な瞳を床に向けながら、淑乃は枯れた声で淡々と語った。
「『メリー・ウィドウ』のヒロインは、大富豪に先立たれた未亡人だけど、最終的にはかつての恋人と結ばれてハッピーエンド。『でも淑乃みたいなのがくっついているなら、お母さんはずっと未亡人のままだね』って、よく言われた」
……そんなことではないかと思った。
「そもそもうちは、言うまでもないけど大富豪なんかじゃない。今日だって、お母さんは仕事に行ってる。部活をしたいっていう私のわがままを、無理して聞いてくれているんだ。それは中学校の時から変わらない。私がいろいろ言われるのはいいよ。でもお母さんまで悪く言われるのは、どうしても許せなかった」
俺は黙って淑乃の話に耳を傾ける。
「だから、どんなに惨めな思いをしても、部活には留まり続けてやった。誰よりも上手くなれるまで練習した。少なくとも、私が欠ければトランペットパートが成り立たないくらい実力をつけたつもり」
「……そうか」
「結局、どうなったと思う? さんざん私をバカにしていた奴らは、自分達が私よりもヘタクソであることに、日に日にストレスを抱えていったよ。で、そのストレスを私で発散しようとするから、だんだん虐めがエスカレートするでしょ? それまでは暴力とか身体的な虐めはなかったんだけど、ついに私へ手を出しちゃった奴がいたの」
淑乃は少しだけ微笑みを浮かべた。どこに笑える要素があるのかと思ったが、そういうことではない。もう、笑うしかないくらい絶望的な状況だったのだろう。
「その、手を出しちゃった奴ってのがさ。よりにもよって部長だったの。しかもコンクール直前に」
それが事実なら、俺が淑乃の立場だとしても笑うくらいしかできない。淑乃の話の、どこに「音楽」が出てきただろう。人をバカにするためのツールとして「音楽」を用いるような人間に、楽器を持ったり楽譜を読んだりする資格は無い。
「部長は謹慎になって、地区大会の参加も見送られちゃった。でも、そんなクソみたいなバンドが県大会に抜ける訳無いでしょ? 本当、救いようが無いくらいボロボロだった。結局、部長はコンクールに出られなかったんだよね」
だけど、と言葉を繋いだ淑乃は、再び泣きそうな顔になる。
「どう考えたって、そいつが悪いじゃん 自業自得なのに、なぜかみんな私を責めるの。『メリー・ウィドウ』を合奏する時のみんなの目が、本当に怖かった……」
瞳を潤ませながら、淑乃はつらい過去を語り終えた。
――俺は一度目を閉じ、頭の中からとある旋律の譜面を引っ張り出す。
「立たせたままで悪かったな。まあ、とりあえずここに座れ」
自分が座っていた椅子から立ち上がって淑乃に促すと、彼女は戸惑いながらも腰を掛けた。
俺はそのままアップライトピアノの椅子に座り、少し埃を被った蓋を上げる。
「お前にとっては悪夢みたいな曲かもしれないが」
整然と並ぶ鍵盤に手を添え、困惑している淑乃に声を掛けた俺は、そのまま指を滑らせた。
可愛らしく跳ねるような序奏から、柔らかく叙情的なメロディーがしっとりと紡がれる。
――『メリー・ウィドウ』のヒロイン、未亡人のハンナが歌唱する『ヴィリアの歌』である。
俺がピアノを弾く姿を見るのは初めてだからか、淑乃は呆けた顔で俺の指先を見つめていた。
この曲が登場するのは、第二幕の冒頭。自らが開いたパーティーで、ハンナが客をもてなすために歌う曲だ。森の妖精であるヴィリアに一目惚れした狩人の恋心を歌ったものだが、劇の内容とは一見関係無いように見えて、かつての恋人であるダニロに振り向いて欲しいというハンナの気持ちが見え隠れする名曲である。
吹奏楽編曲版では、中間部に演奏される。鍵盤打楽器が奏でる旋律の独特な響きが印象的で、聴衆に子守歌のような安心感をもたらしてくれる。
「……俺は、この曲が大好きなんだ」
悪戯を告白するように、ワンフレーズを弾き終えた俺は淑乃に向かって呟いた。
「指揮者をやっていた父の公演を収めた録画の中で、一番のお気に入りが『メリー・ウィドウ』だった。今回この曲を選んだ俺にも、たっぷり私情が挟まっていた訳だ」
砕けた調子で言ったものの、淑乃の表情は依然として硬い。
「名曲と言われる楽曲にはそう呼ばれるだけの理由があるけれど、結局は奏者次第でどうにでもなってしまうんだよ。どんな事情があっても、楽曲そのものには罪なんて無いんだ」
「……私が子どもで分からず屋だから、全部楽曲のせいにしてるって言いたいの?」
「違う。せっかく巡り会えた楽曲を、クソみたいな奴らにぶち壊されたせいでトラウマにして欲しくないんだ」
俺の言葉に、淑乃は大きく目を見開いた。
「だってそうだろ? 観客がお前一人でも、俺は今の演奏が楽しかったし、やっぱり良い曲だなって感じたよ。今までお前らと演奏してきた曲も、全部そうだ。そういう素晴らしい楽曲に出会えるのが、音楽をやる者の醍醐味じゃないか?」
俺は淑乃のもとに近づき、膝を曲げて目線を合わせる。
ぎゅっと握られた彼女の拳の上に、俺は自らの手を乗せた。
「お前も、今まで本当に頑張ってきたんだな」
「え……」
「さっきの話。『誰よりも上手くなるまで練習した』って言っただろ? そんなの、並みの中学生にできることじゃないよ」
その執念は、高校でも崩壊しかけた吹奏楽部にこだわり続けたことへと繋がるのだろう。
「私の楽器……。お母さんが使ってた物なんだ」
ぽつりと、淑乃が呟く。
「お母さんもずっと吹奏楽をやってたんだって。死んじゃったお父さんは、高校の吹奏楽部の先輩だったの。だから、小さい頃から私の周りには音楽が溢れてた」
「そうか。良い話じゃないか」
「……ううん。小学生の時にお父さんが死んじゃってからは、無音だった」
躁鬱の落差に、俺は胸が締めつけられる。
「五年生になった時、押し入れに眠っていたお母さんのトランペットを見つけたの。私がいた小学校は金管バンドがあったから、すぐに入った。私がお母さんを元気づけなきゃと思って」
ようやく、彼女が音楽にこだわる理由がわかった。
淑乃も、自分が奏でる音楽で他者を幸せにしたいという気持ちが原点なのだ。
その事実に俺は心の底から安堵した。
「あのさ。私、生徒指揮者を降りるべきだと思う」
「――なんだって?」
油断した俺の背後を刺すように、淑乃はいきなり突拍子も無いことを言い始めた。
「だって、私が基礎合奏を見るようになってから、雰囲気悪くない? それに楽曲を変えて欲しいなんてわがままを言う人が、務めるべき役割じゃないでしょ……」
明らかに淑乃は弱っている。出会った時から物騒な奴だったが、自信には満ちていた。良くも悪くも、信念を貫いていた。その真っ直ぐさが、今の彼女には無い。
「降りたら、余計に居場所が無くなるぞ。それでもいいのか?」
「そりゃ、良くはないけど……」
「今のあいつらは、お前を虐めることなんてしないだろう。でも、つらい思いをするのはお前だ。音楽ができなくなるかもしれないんだぞ?」
「……」
どうすればいいかわからないとでも言うように、淑乃は黙りこくった。
――俺はそんな彼女の姿に、過去の自分を重ねていた。
「淑乃」
名前を呼ぶと、彼女の目が俺を捉える。
「吹奏楽部が新体制になった時、俺がみんなに言ったことを覚えているか?」
「……どれのこと?」
淑乃は困惑しながら聞き返した。その素直さが微笑ましい。
「ステージには、全員で乗る。個人差があろうがムラが大きかろうが、メンバーから外すことは絶対にしないって、言ったじゃないか」
「あ……」
「今でもその気持ちは変わらない。全員でやるんだ。全員でやらなきゃ、ダメなんだよ」
つい語気を強めてしまった俺は、我に返って彼女から目線を逸らす。
「俺が言っても説得力が無いことは、自分自身が一番よくわかってる。でも、この吹奏楽部で俺みたいな思いをする奴がまた現れるなんて、切ないとしか言いようが無いじゃないか」
「……」
「俺は、誰一人として見放すつもりは無い。お前を生徒指揮者から降ろすこともしない。俺はお前と対等だから。そして、俺はお前が適任だと思っているからだ」
「……うん」
淑乃は、掠れた声で返事をした。
「俺はな。お前達のことは本当に尊敬している。俺が現役の頃より、よっぽど頑張って練習しているよ。とくに三年生は、最後くらい真っ当に評価されるべきなんだ。お前らには、どんなにしんどいことがあっても、最後には舞台の上で笑って欲しいんだよ」
――淑乃の瞳から、一筋の涙が零れた。
「……あの、お話は終わりましたか?」
降って沸いたように上がった声を聞き取った瞬間、俺と淑乃は肩を震わせる。いつの間にか準備室の扉が開いていた。そこに立つのは――。
「董弥……」
姉に名前を呼ばれた董弥は、そのまま俺達のもとに歩んでくる。
「姉さん。もう昼休みは終わってるんだけど」
「あ」
「え」
俺達は、二人揃って間抜けな声を上げた。反射的に時計を確認すると、たしかにもう午後の練習が始まっている時間である。
「はあ」
董弥はため息を吐きながら大袈裟に肩を竦めた。芝居がかったその態度が、どうにも胡散臭い。
「姉さん、俺のこと嫌いだろ」
「は? いきなり何?」
「他の人にはストレートになんでも言うくせに、俺はほぼ無視だもんな」
「……そんなことない」
「お、お前ら、もうちょっと穏便に――」
「秋村さんは黙ってください」
「あ、はい」
この情けない大人はなんだ。カカシか。
「父さんと俺のことが、そんなに憎いのか?」
「どうしてそうなるのよ」
「そんな露骨に態度で示しているのに、よく白を切れるな」
「別に、他のみんなにも態度は同じでしょ」
「姉さんはわかりやす過ぎるんだよ。そのくせ一人でなんでも抱えるから、本当に困る」
「……じゃあ、どうしろって言うの? あんたもお父さんも、優秀でエリートなんだから何も困らないでしょう!? どうせ私なんかお母さんの付属品でしか――」
「それ以上言ったら、今すぐ俺は吹奏楽部を辞める」
「なっ……」
セリフに急ブレーキを掛けられた淑乃は、思わず咳き込んだ。
「――へ!?」
一拍遅れて、俺の場違いな奇声が響く。当然、二人にキツく睨まれた。もはや俺の立場がわからない。
「……どうして俺が中学の部活を立て直したか、わかる? この高校の吹奏楽部も、俺がどういう気持ちで入部したのか、姉さんは考えたことある?」
「私が目障りなんでしょう? 全部自分の功績で塗り替えるつもりなんじゃ――」
「あんたを追って来たんだよ!!」
被害妄想百パーセントの淑乃の言葉を、董弥は自らの声で掻き消した。
「父さんの再婚が決まって、この町に引っ越してくるのが決まったのは、俺が中学一年の夏だった。ちょうどその時、転校先の学校が出場するコンクールを聞きに行ったんだよ。あの『メリー・ウィドウ』を、ね」
考えればわかることだったが、この姉弟は同じ中学校を卒業している。つまり「董弥が立て直した」吹奏楽部は、「淑乃の代でめちゃくちゃになった」吹奏楽部と同一ということである。そして、めちゃくちゃ具合を象徴する演奏を、彼は生で聞いていたのだ。
「何それ。じゃあ、私のこともそこで失望したんでしょ?」
「違う! あのバンドでまともな演奏をしていたのは、姉さんだけだったじゃないか!」
董弥が声を荒げると、淑乃は明らかに動揺し始めた。
「俺が転校した時には、もう姉さんは引退していた。それでもあの演奏には違和感しかなかったから、いろいろ聞いて回ったよ。姉さんが虐められていて、孤立したことも知った。ふざけんなって思ったよ。俺は、姉さんのことを見て見ぬふりしていた同級生達ごと、吹奏楽部を更生させることにした」
「更生……」
言葉選びが不穏であるが、彼なりに本気だったことが窺える。よほど許せなかったのだろう。
「翡翠館に入った後も、姉さんは相変わらず評価されてないみたいだったし、どういう訳かまた部活そのものがぐちゃぐちゃになってるって噂で聞いたんだ」
それだけ聞くと、まるで淑乃が疫病神である。俺じゃないんだから、と口を挟みかけてやめた。
「優秀なあんたにはわからないでしょ。私はあんたみたいに器用じゃない」
「母さんに喜んでもらいたかったって、さっき言わなかった?」
董弥が指摘すると、痛いところを突かれた淑乃は何も言い返せない。俺との会話を盗み聞きされていたことを指摘する余裕も無いようだ。
「俺だってそう思っているに決まってるだろ。なあ、姉さん。そろそろ壁を作るのはやめようよ」
淑乃は、董弥のことをとうの昔に認めているのだろう。
彼女は自分自身が認められないのだ。いや、認めてもらう方法がわからないと言った方が正確か。
しかし、もしそうであるならば彼女は大切なことを忘れている。
「一ついいか? 淑乃、お前は選ばれて生徒指揮者になったんだろ?」
翡翠館高校吹奏楽部の役員は、立候補制ではない。部員間での投票で決まる。つまり、淑乃は少なくとも半年以上前から、仲間達に認められていたのである。排除されていた中学時代とは違うのだ。
「そ、それは、日向が死んじゃったから……」
「日向は、選ばれるとしても部長だろ」
「でも――」
「姉さん。秋村さんの言う通りだよ。みんな姉さんを受け入れているんだ。だから、姉さんも自分自身を認めてあげて」
淑乃はきつく唇を噛んだままである。
「……秋村さん」
「ん?」
董弥は、徐に俺の方へ向き直った。
「この間は『失敗する』なんて言ってすいませんでした」
「ああ。本当にな。不吉過ぎて眠れなかった」
「ははは」
「笑い事じゃねえんだよ」
「あの時、生徒指揮者を代わって欲しいって言いましたよね?」
「……言ったな」
俺達の会話を聞く淑乃は、取り残されてしまったように呆然としている。
「その件も、すいませんでした。俺、秋村さんを試してました」
「は?」
「もし簡単に姉さんを見限るような人が指揮者だったら、そんな人には吹奏楽部を任せたくないと思って」
「……なるほど?」
「演奏会で失敗したのは、もちろん俺達が未熟だったからです。秋村さんが全部悪いなんて、そんなことを思っている部員はおそらく一人もいません。だから――」
董弥は、隣で固まっている姉を一瞥してから、再び俺を見つめる。
「姉さんに基礎合奏を託す決断をしたあなたを、俺は信じることにしました」
「それは……光栄なことだな」
嫌味ではない。誰かに信頼されることなど、吹奏楽部に再び関わるまでの俺には無縁だったのだから。
「姉さん。俺達も秋村さんの気持ちに応えなきゃいけないんじゃない?」
淑乃は、黙ったまま小さく頷いた。
「それとさ。母さんに今度の演奏会のこと、伝えてなかったの?」
「……うん」
董弥は右手を額に添えて、深々とため息を吐いた。
「なんの話だ?」
突然置いてけぼりになった俺が尋ねると、董弥がやれやれと言った感じで肩を竦める。
「俺達の母さん、あの総合病院にいるんですよ」
「えっ」
想定外のセンシティブ情報に、俺の顔が強張った。
「ああ、心配しないでください。患者ではありません。看護師の方です」
「そ、そうか……」
そういえば先ほど淑乃が「今の時間も働いている」と言っていたことを、俺は思い出した。
「母さん、『メリー・ウィドウ』をやるって聞いて、喜んでたよ。『また淑乃があの曲を演奏してくれるんだ』って、笑ってた」
董弥の言葉を聞いた淑乃が驚いた表情を浮かべたのは、ほんの刹那であった。
一度目を閉じた彼女は、そのままゆっくりと深呼吸をする。
「……それなら、絶対成功させなきゃいけないじゃん」
どんなことに思いを巡らせたのか、俺には知る由もない。
ただ、淑乃が微かに笑みを浮かべているのを見て、俺と董弥はようやく緊張感から解き放たれたように脱力した。
「――それなら、こんなところで油を売ってる場合じゃないな?」
俺が意地悪くそう声を掛けると、二人はお互いの顔を見合わせた。淑乃が慌てて椅子から立ち上がる。
「失礼しました!」
先に董弥が部屋を出て行った。
後に続いた淑乃の背中に向かって、俺はもう一言だけ伝えることにする。
「淑乃。いいことを教えてやろう」
「……何?」
振り返った淑乃が怪訝な顔をした。
「生徒指揮者っていう役職は、性格が良い奴には務まらないんだ」
皮肉めいた俺のセリフに、淑乃は呆れた目をしながら口を開く。
「ひねくれた女で悪かったね」
予想通りの返答に、俺はつい噴き出した。
「そういうところだよ」
俺が返した言葉に目を丸くした彼女も、声を出して笑い始めた。
そして、そのまま廊下へと足を運ぶ。
「――ありがと」
ほとんど聞き取れないような言葉だけを最後に残して、彼女は練習へ向かっていった。
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